剥製

夏融

1

 二十三ですよ――失恋だ。過ぎ去った歳月に血を吐いてやりたい思いがするが、僕は神保町にいて手元の教本を進めている。

「パクチェガ、テオ、ボリン、チョンチェ――剥製になった天才ですね。カジュンハル、サンシゲ、ビョン――恐るべき常識の病ですね。作者はアントンの戯曲に影響を受けたんです。正しく翼の生えたカモメに――」

 (僕らはちょうどこんなふうだった。それどころか、彼女はこの妻より甲斐甲斐しく僕の世話を焼いていたんだ。だから茉莉マリは――茉莉は誰か別の男と、今この瞬間に夜八時を迎えている)

「ペギンダン――百忍堂中有泰和。中国の故事ですね。縁起を担いでいるんです。百回忍耐すれば家庭の和合が得られるという意味で……」

 (百回の忍耐!笑わせるなぁ。家庭の和合――それはつまり、僕らが家庭でなかったとでも言うつもりかい?それとも僕と茉莉と、果たしてどちらかの忍耐が足りなかったのか――やめよう。こんなことを考えるのは、縁起を担ぐのと同じくらい何にもなりゃしない――)

「ああもう退屈!先生、違う話をしましょうよ」

 S嬢の叫びで、僕はふっと気がついた。

 時計の針は前見たときから五分ばかり進んでいる。頭がずきずきして仕方ない。

「質問かい?」

「いやだわ、先生たら。私の話聴いてらした?こんなつまらない話をやめて、違う話をしましょうって言ったのよ」

「心外だな」

 S嬢はれっきとした僕の生徒だ。受験のために僕の講義を受けねばならない。つまり、僕は彼女の先生なのだ(先生という言葉は恐ろしい響きがするね。先に生まれただけで先生面とは恐れ入ったよ、夏融君)。

「例えばそう、恋の話なんか!」

「今だって恋の話をしているだろう」

「これが恋?ふふーん、笑わせるわ。こんな歪なもの、ロマンチックでもなんでもないんですもの」

「馬鹿馬鹿しい。真面目に受けたまえ」

 S嬢はちょっと気が短いところがあった。五分だって座っていられないんだ。僕は彼女を落ちるものとみているから授業に力を入れていない。

「続けよう。キルサンダン――吉祥堂。これも縁起を担いだ言葉で――」

「そうだ、先生。先生の『道化』という作品読みましたわ」

「何?」

「ふふ、私には本当、先生のちっぽけな自尊心がたまらなく可笑しくって!そんなんだから恋人の一人や二人、捕まえておけないんだわ」

 僕は腰が抜けるほど驚いた。僕の作品――ひいては僕の活動が彼女に知られているとは思いもよらなかった。それどころか僕の失恋までも公になっているとはね!最初からそのつもりで話を繋げたんだ。まったく大しただよ。

「この――小娘が、何をわかったような――」

 僕はただ、フン!と言うだけで済ませてしまった。それから、話を続けようとするS嬢を無視して教本を進めた。

「ナヌン、イマンクムッカジ、ネ、アネルル、ソジュンイ、センガカン、ゴシダ――僕はそんなにも自分の妻を大事に思っていたんだ――」

 最近の子供が皆ませているのか、それとも、倫郭ロンドンの血が半分入っているというこのS女史が特別に大人びているだけなのか――

 疑うかもしれないが、これは実際、本当の話だ。

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