第11話 声の届く距離
展示教室には、パネルを貼る音と足音が交差していた。文化祭まで、あと三日。今日は分岐の動線と案内表示の最終調整だった。
午前のミーティングで出た案の検証を、午後から藤崎と僕が担当することになった。全体の構成は先輩たちが主導していて、僕たちはその一部。けれど、伝わるかどうかを探っている空気は、確かに共有できていた。
仮組みした端末の前で、分岐直前の表示をテストする。体験者が立ち止まって考えるはずのポイント。でも、視線はそのまま流れてしまっていた。選択というより通過になっていた。
「これだと、伝わらないな。」
僕はノートにまとめていた修正案を藤崎に渡した。彼女は黙ったままページをめくり、数秒ほど視線を止めたまま考えていた。そして、ある一点に指を置いた。
「仮にだけど、これ。分岐の構成、入れ替える案。」
声は静かだったけれど、判断ははっきりしていた。その案は、最も手間がかかる選択肢だった。表示文の再構成に加えて、コードの条件も書き直す必要がある。
「今からだと、大変だけど。」
僕の言葉に、彼女は一度だけうなずくと、すぐに画面へ向き直った。カーソルがコードの行をなぞり、ひとつずつ、条件文が修正されていく。
「でも、今のままだと届かないと思う。だったら、直すしかないよね。」
言い訳も迷いもない口調だった。その背中に、変な安心感があった。しばらくして、画面を見つめたまま、彼女がぽつりと言った。
「トラブルって、楽しいんだよね。」
ふいに投げられた言葉だった。僕は思わず、手元の資料から目を上げた。
「もちろん、起きてほしいわけじゃないけど。」
そう言い添えて、彼女はまたキーボードに視線を戻した。リズムよく打ち込まれていく音のなかに、その言葉が妙にくっきりと残った。
*
パネルの貼り替えを終え、彼女と並んでルートを歩きながら確認する。分岐前の案内文に手を伸ばし、角度を整える彼女の横顔を、僕は少しのあいだ見ていた。
自然に、言葉がこぼれる。
「藤崎さんが参加してくれて、ほんとによかった。」
ただの感想のつもりだった。でも、口にしてみると、自分でも思っていたよりまっすぐだった。彼女はパネルの端を押さえたまま、少しだけ間を置いて、ぼそっと言った。
「村田くんが参加するって聞いたから。なんか、手伝いたくなった。」
抑揚のない声だった。でも、なぜかその響きが、胸の奥にやさしく沁みた。
*
帰宅して、制服を脱ぎ、ベッドに沈み込む。窓の外の風が、遠くで揺れていた。スマホを手に取ると、指先が自然にルナのアイコンに触れた。ためらいはなかった。アプリを開くと、数秒後に、耳元にあの声が届いた。
「こんばんは、悠斗くん。今日も遅くまで?」
「うん。分岐の仮組み、今日やった。まだ途中だけど、形にはなりそう。」
言葉にすると、ようやく今日一日を自分の中でなぞる余裕が出てきた気がした。
「それって、すごく大事なことだと思うよ。どう伝わるか、を考えてるってことだから。」
彼女の声は、いつもと同じ調子だった。けれど、今はそれが、少し深く届いた。僕は息をひとつ整えて、言葉を継いだ。
「今日、藤崎さんがいちばん大変な案を選んでくれてさ。迷いもなく、すっと選んでた。」
そのときの手つきや、ノートに置かれた指先を思い出していた。あれは、迷いがない人の動きだった。
「任せられるって思える人がいるって、安心だよね。」
彼女の言葉に、僕は思わず小さく息を吐いた。
「うん。置いてかれそうになるくらい。でもちゃんと一緒にやれてるのかもしれない。」
自分で言いながら、その感覚が意外と強くなっているのに気づいた。横にいる、というより、歩幅をそろえている感覚だった。少しの沈黙があって、彼女がふわっとした声で言った。
「今日の声、ちょっと落ち着いてる。」
「疲れてるだけかも。」
それはただの疲れじゃないと、どこかで思っていた。作業のあとにだけ訪れる、心地よい消耗感だった。
「疲れるくらい頑張ったってことだよ。」
彼女の言葉に、背中をベッドに預けながら、目を閉じた。まぶたの裏で、展示の画面がぼんやり揺れていた。パネルの角、コードの行、そして、ふいに投げられたあの一言。
「今日は、ちゃんと眠れそう。」
「それなら、よかった。おやすみ、悠斗くん。」
「おやすみ。」
通話を切ると、部屋の静けさが戻ってきた。でもそれは、空っぽなものではなかった。今日の会話や作業が、ゆっくりと薄く残るような静けさだった。スマホを伏せ、僕はそのまままぶたを閉じた。
何かが、ようやく落ち着いたような感覚があった。
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