映写室の残照

 放課後のチャイムは、俺にとって世界の終わりではなく、むしろ始まりの合図だった。教室の喧騒が嘘のように遠ざかり、俺は一人、特別棟の最上階、埃と古いフィルムの匂いが微かに漂う視聴覚室へと足を向ける。ここが、俺――柏木 透の聖域。誰にも邪魔されず、ただ光と影の戯れに心を委ねられる場所。


 軋むドアを開けると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。カーテンが引かれた室内は薄暗く、窓から差し込む西日だけが、斜めに長い光の筋を落とし、空気中の微細な埃を金色に照らし出している。壁際には、もう使われることも稀になった旧式の映写機や、スライドプロジェクターが、まるで墓標のように静かに並んでいた。


 俺は、一番奥に鎮座する、16ミリフィルムの映写機に近づいた。金属の冷たい感触、レンズの鈍い輝き。別に、これを動かして何かを観たいわけじゃない。ただ、この機械が纏う、過ぎ去った時間の名残のようなものに惹かれるのだ。ファインダーを覗くように、世界を切り取って映し出す、その無機質な機構の奥にある、誰かの視線の記憶。そんなものを想像するのが好きだった。


 ふと、レンズに映り込んだ自分の顔を見る。感情の読めない、我ながらつまらない顔だ。クラスでも、俺はそんな風に見られているのだろう。物事を斜に構え、誰とも深く関わろうとしない、少し冷めた奴。まあ、それでいい。他人に期待もしていないし、されるのも面倒だ。


 カチャリ、と映写機の蓋を開け、内部の構造を眺めていた、その時だった。


「……あれ? 誰かいるの?」


 背後から、明るく、しかし少しだけ不安げな声が聞こえた。驚いて振り返ると、ドアの隙間から、見慣れた顔が覗いていた。


 水野 陽菜。クラスの人気者。いつも笑顔を絶やさず、太陽みたいに明るい、俺とは対極の存在。放送委員の彼女が、なぜこんな場所に?


「……水野か。何しに来た」


 俺の声は、自分でもわかるくらいに、低く、ぶっきらぼうだった。別に、敵意があるわけじゃない。ただ、この静寂を破られたことへの、反射的な反応だ。


「あ、柏木くん! やっぱり。……ご、ごめん、邪魔するつもりじゃなかったんだけど……放送委員の備品のチェック、忘れてて……」


 陽菜は、少しおどおどしながら室内に入ってきた。いつもの快活さは影を潜め、薄暗い部屋の雰囲気に少し戸惑っているようだ。彼女の手には、チェックリストらしき紙が握られている。


「……ふーん。さっさと済ませろよ」


 俺は再び映写機に向き直った。彼女の存在が、この空間の均衡を微妙に乱しているようで、落ち着かない。早く出て行ってほしい。それが本音だった。


 背後で、彼女が機材をチェックする、カサカサという紙の音と、小さな足音が聞こえる。時折、「えっと、これは……大丈夫かな?」なんていう、独り言のような呟きも。機械が苦手なのか、かなり手間取っている様子だった。


 しばらくして、彼女がおずおずと声をかけてきた。


「……あの、柏木くん。……この、スライドプロジェクター? 動かし方が、よくわからなくて……ちゃんと映るか、確認しないといけないんだけど……」


 振り返ると、彼女は古いスライドプロジェクターの前で、困り果てたように首を傾げていた。チェックリストには「動作確認」の項目でもあるのだろう。いつもの自信に満ちた笑顔はどこへやら、眉を寄せ、途方に暮れた表情をしている。


(……面倒くさい)


 それが、最初の感想だった。だが、彼女のその、普段は見せない、少し頼りなげな姿に、ほんのわずか、ほんのわずかだけ、胸の奥がざわついた。いつも完璧に見せようとしている彼女の、意外なほどの不器用さ。なぜか、目が離せない。


「……どれだよ」


 俺は、ため息とともに立ち上がり、彼女の隣へ向かった。近づくと、ふわりと、シャンプーの甘い香りがした。彼女の体温が、すぐそばにある。心臓が、ドクン、と妙な音を立てるのを自覚し、内心で舌打ちした。なんで俺が、こんな……。


 プロジェクターの電源コードをコンセントに差し込み、スイッチを入れる。鈍いファンの回転音が響き、レンズから、ぼんやりとした四角い光が壁に映し出された。


「スライドは?」


「あ、これ……」


 彼女が差し出したのは、古びた段ボール箱に入った、大量のスライドだった。おそらく、何十年も前の学校行事のものだろう。


「……適当なのでいいんだろ」


 俺は、箱の中から一枚、無造作に取り出し、プロジェクターにセットした。カシャン、という小気味良い音と共に、壁にモノクロームの画像が浮かび上がる。運動会だろうか。体操服姿の、知らない生徒たちの笑顔。


 光の筋が、薄暗い部屋を貫き、空気中の埃を銀色にきらめかせながら、壁のスクリーンへと伸びている。その光景は、どこか幻想的で、俺は思わず息を呑んだ。


「……わぁ……」


 隣で、陽菜も感嘆の声を漏らした。彼女も、この光景に心を奪われているようだった。


 俺は、無意識のうちに、隣に立つ彼女の横顔を見ていた。西日が、彼女の輪郭を柔らかく照らし出している。スクリーンに映し出されたモノクロの世界を見つめる、その琥珀色の瞳。普段の、誰にでも向けられるような明るい笑顔ではなく、もっと静かで、どこか物憂げな、それでいて純粋な好奇心に満ちた表情。光の粒子の中で、長い睫毛が微かに震えている。


 綺麗だ、と……思った。何の屈託もなく、ただ、素直に。


 瞬間、心臓が、ドクン、と大きく、深く、脈打った。まるで、世界から音が消え、彼女の横顔だけが、スローモーションで目に焼き付いていくような感覚。呼吸が、浅くなる。ファインダー越しに、最高の瞬間を捉えた時のような、息苦しいほどの高揚感。なんだ、この感覚は……? 胸を打つこの、経験したことのない強い衝動は、無視できなかった。初めて知る、甘く、そして少しだけ痛みを伴うような、奇妙な感覚。


 その時、不意に、陽菜がこちらを向いた。俺は、慌てて視線をスクリーンに戻す。見られていただろうか。今の、俺の、この訳の分からない表情を。


「……柏木くんも、こういうの、好きなの?」


 彼女の声は、いつもより少しだけ低く、落ち着いていた。その声色に、俺は不意に、彼女もまた、俺の知らない顔を持っているのかもしれない、と思った。いや、確実に持っている。そして、その顔を、もっと見てみたいと……そう感じている自分がいることに気づいてしまった。


「……まあな」


 素っ気なく答えるのが精一杯だった。心臓はまだ、早鐘のように打っている。


 彼女は、俺の返事に、ふわりと微笑んだ。それは、いつもの太陽のような笑顔とは違う、もっと穏やかで、優しい光を帯びた微笑みだった。西日の光を浴びて、彼女の頬が、ほんのりと桜色に染まっているように見えた。


「……私も、好きかも。こういう、静かな時間」


 その言葉と、笑顔。それが、俺の心の、今まで誰も触れたことのない場所に、深く、静かに、染み込んでいく。


 カシャン。スライドが変わる。卒業式だろうか。制服姿の、知らない先輩たちの姿。


 沈黙が、部屋を満たす。けれど、それはもう、気まずいものではなかった。映写機の回る音と、俺たちの静かな呼吸だけが、そこにある。隣にいる彼女の存在が、今はもう、鬱陶しいものではなく、むしろ……何か、特別な意味を持ち始めているような気がしていた。


 西日が傾き、光の筋が、ゆっくりとその角度を変えていく。残照が、俺たちの間の空気を、淡い薔薇色に染めていく。


 この瞬間が、もう少しだけ、続けばいい。柄にもなく、そんなことを考えている自分に、戸惑いを隠せないでいた。

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