敵役は放課後、俺の部屋で甘く溶ける

 昼休み終了間際、購買からの帰り道で、俺はクラスメイトの山本の焦った顔に行く手を阻まれた。


「おい、高槻! 今すぐ進路変えろ! 水瀬がそっちから来る!」


 山本の声は、まるで空襲警報のように必死だ。彼の背後では、他の数人も「ヤバいヤバい」「接触させるな!」と小声で騒いでいる。まったく、大袈裟な連中だ。


 俺、高槻和真と、水瀬莉奈。それが、この二年三組における二大厄災、触れてはいけない危険物のような扱いを受けていることは、俺自身よくわかっている。教室での俺たちは、水と油、北極と南極。目が合えば火花が散り、言葉を交わせば必ずどちらかが相手を論破するか、あるいは周囲が凍りつくような皮肉の応酬になる。それが、クラスメイトたちの共通認識だった。


 ……まあ、そうなってしまったのには、理由がある。入学当初、成績トップを争う俺たちがお互いを妙にライバル視し、何度か派手な口論をやらかした。それが尾ひれをつけて「犬猿の仲」として定着。いつしかクラスの連中は、俺たちの衝突を避けることを「クラスの平和維持活動」と位置づけ、過剰なまでに気を遣うようになったのだ。今更「実は俺たち、付き合ってます」なんて暴露したら、彼らの努力を無にすることになるし、何より……。


「……チッ、めんどくせぇな」


 わざとらしく舌打ちし、俺は山本たちが指し示す方向とは逆の、少し遠回りになる階段へと足を向けた。背後で「ふぅ、助かった」「高槻、ナイス判断!」という安堵の声が聞こえる。まったく、お人好しなクラスメイトたちだ。……だが、この状況は、ある意味、俺たちにとっても好都合だったりする。目立つ俺たちが付き合っていると知られたら、特に莉奈が、面倒な女子たちの嫉妬の的になるのは目に見えているからだ。中学時代、彼女がそれでどれだけ嫌な思いをしたか、俺は知っている。


 午後の授業中も、その認識は変わらない。俺が少し難しい顔で考え事をしていると、前の席の女子がびくりと肩を震わせ、隣の席の男子は教科書で壁を作る。俺が発表で少し皮肉めいた反論をすれば、教室の温度が数度下がり、水瀬がそれにさらに辛辣な言葉で応戦すれば、教師すら冷や汗をかいている。すべてが、計算された茶番。俺と水瀬が演じる、「犬猿の仲」という名の舞台劇だ。


(……早く、終われ)


 窓の外の、傾き始めた太陽を見ながら、心の中で呟く。この窮屈な教室、クラスメイトたちの過剰な気遣い、そして何より、水瀬莉奈という存在(に対する周囲の目)から解放される、あの瞬間を。


 放課後を告げるチャイムが鳴った瞬間、俺は誰よりも早く鞄を掴み、教室を飛び出した。背後で「高槻、どこ行くんだよ!」「待て、水瀬もすぐ出るぞ!」という声が聞こえた気がしたが、無視だ。足早に昇降口へ向かい、校門を出る。


 数分遅れて、少し離れた場所から、見慣れた姿が現れる。水瀬莉奈だ。彼女もまた、周囲を警戒するように足早に歩いている。俺たちは、視線すら合わせない。まるで、互いの存在など認識していないかのように、別々の道を歩き出す。これが、俺たちの暗黙のルール。学校から半径三百メートル以内では、絶対に接触しないこと。


 十分ほど歩き、人通りの少ない路地に入る。そこでようやく、俺は足を止め、振り返った。少し遅れて、莉奈が角を曲がってくる。周囲に誰もいないことを確認すると、彼女は、それまでの警戒心を解き、ぱっと表情を輝かせた。


「かずま!」


 その、教室では絶対に聞くことのできない、甘く弾んだ声。彼女は小走りに駆け寄り、俺の腕に、ためらいなくぎゅっと抱きついてきた。ふわりと香る、甘いシャンプーの匂い。俺の腕に感じる、彼女の柔らかさと温もり。


「……お疲れ、莉奈。今日も大変だったな、クラスの平和維持機構は」


「もー! 本当に疲れた! 山本くんたち、今日も必死だったね。『高槻接近注意報!レベル3!』とか小声で言ってて、笑いこらえるの大変だったんだから!」


 俺の腕に頬をすり寄せながら、莉奈はくすくすと笑う。教室での、あの刺々しい表情はどこにもない。ただ、甘えたがりの、可愛い女の子がいるだけだ。


「お前もな。よくあんな毒舌、スラスラ出てくるもんだ。俺も内心ヒヤヒヤしたぞ」


「練習の成果よ。かずま相手じゃないと、あんなこと言えないけどね? 『高槻くんの意見は一理ありますが、その前提には重大な欠陥が見受けられますわ』とか」


 わざと教室での口調を真似て、悪戯っぽく笑い、彼女は俺の顔を見上げてくる。その潤んだ大きな瞳に、俺は弱い。


「……ほら、行くぞ。早く帰らないと、また誰かに見られて、変な噂立てられる」


「はーい」


 腕を組んだまま、俺たちは俺のアパートへと歩き出す。一人暮らしの、狭いワンルーム。そこが、俺たちの唯一の安息所であり、秘密基地だ。


 部屋に入り、鍵をかける。その瞬間、俺たちはようやく、学校での役割から解放される。


「ただいまー」


「……おう」


 莉奈は、当たり前のようにキッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。「あ、プリン買ってきてくれたんだ! 昨日言ってたやつ! やった!」と、子供のようにはしゃいでいる。このギャップが、たまらない。


 俺が制服のネクタイを緩めていると、莉奈が背後から抱きついてきた。


「ねぇ、かずま。今日の数学の授業の時、やっぱりかっこよかったよ。あの難問、一番に解いてたし」


「別に。たまたまだろ」


「ううん、たまたまじゃない! みんな『え、もう解けたの!?』って顔してたもん。私だって、内心『さすが、私のかずま!』って思ってたんだから!」


 背中に顔を埋め、甘えた声で囁く。このギャップを知っているのは、世界で俺だけだ。その事実が、優越感と、そして強い庇護欲を掻き立てる。


「……お前こそ。あの英語の発表、発音綺麗すぎだろ。帰国子女かよ」


「えへへ、そうでしょ? かずまに褒められると嬉しいな。こっそり練習した甲斐があった!」


 くるりと俺の前に回り込み、彼女は背伸びをして、俺の唇に、ちゅ、と軽いキスをした。


「……ねぇ、かずま。もう、学校での演技、疲れちゃった。早く、みんなに言っちゃいたいな……。私たちが、こんなにラブラブだって」


 不安そうに、俺のシャツの裾を掴む。


「……まあ、気持ちはわかるけどな。でも、今言ったら、クラス中パニックだろ。下手したら、俺たち、クラスの平和を乱した罪で公開裁判だぞ」


「うー……。それは、やだけど……。でも、学校でも、もっとかずまとイチャイチャしたい……。廊下で手とか繋ぎたい……」


 唇を尖らせ、上目遣いで見つめてくる。反則だ、それは。


「……それに、また莉奈に嫌がらせとか来るかもしれないだろ? 中学の時みたいに。俺は、お前が傷つくのは見たくない」


 俺がそう言うと、莉奈は少しだけ表情を曇らせたが、すぐにこくりと頷いた。


「……うん。……そうだね。かずまが守ってくれるのは嬉しいけど……。面倒なのは、もう嫌だもんね」


「だろ? だから、もう少しだけ、我慢しろ。この秘密の時間があるから、学校でも頑張れるんだろ?」


 俺は、彼女の柔らかい髪を優しく撫でた。


「……うん。……そうだね。かずまと二人きりになれる、この部屋があるから……。この時間が、私の宝物だから」


 彼女は、再び俺の胸に顔をうずめた。


「かずまの匂い、落ち着く……。学校だと、全然嗅げないから、ここで充電しなきゃ」


 教室では決して見せない、弱さと甘さ。それを、俺だけが知っている。俺だけが、受け止められる。


「……飯、どうする? 何か作るか?」


「うん! 私、作る! かずまの好きな、オムライス! ケチャップで、ハート描いてあげる!」


 ぱっと顔を上げ、彼女は嬉しそうに笑った。


 二人でキッチンに立ち、夕食の準備を始める。教室での、あの張り詰めた空気は、もうどこにもない。ただ、穏やかで、温かくて、甘い時間が、ここには流れている。


 時折、手が触れ合い、視線が絡み合う。そのたびに、どちらからともなく、はにかんでしまう。この、二人だけの秘密。それは、少しだけ窮屈で、もどかしいけれど、同時に、たまらなく刺激的で、愛おしい。


「ねぇ、かずま」


「ん?」


「明日も、ちゃんと『最悪の敵役』、演じてよね? 手加減したら許さないんだから」


「……当たり前だろ。お前こそ、俺の皮肉にちゃんと反撃しろよ? ニヤけたら罰ゲームな」


 俺たちは顔を見合わせ、くすくすと笑い合った。


 明日になれば、俺たちはまた、教室という舞台の上で、「犬猿の仲」を演じることになる。クラスメイトたちは、また俺たちの間に立ちはだかり、接触を避けさせようと奔走するだろう。それが、俺たちの日常。そして、俺たちが選んだ、今の関係を守るための方法。


 それでいい。今はまだ、それでいいのだ。


 だって、放課後になれば――この部屋で、俺たちは、誰にも邪魔されずに、本当の顔で向き合えるのだから。


 敵役ライバルは放課後、俺の部屋でだけ、甘く、優しく溶けていく。その秘密を、今はまだ、二人だけで大切に抱きしめていたい。

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