第4話


 透堂明花は透明人間である。

 光を完全に透過させ、触れた物すら透明にする肉体。それが彼女の、生まれながらの異能。

 どれだけ目を凝らそうとも、誰も彼女を捉えられない。

 どれだけ明るく振る舞おうとも、誰も彼女を見てくれない。

 太陽の光さえ、彼女を素通りしていく。

「るっぴー、次の駅で降りるよー」

 透堂明花の大きな瞳が反応しない流人の顔をのぞき込む。

「るっぴー? 聞いてる?」

「は、はい! 大丈夫です!」

 何が大丈夫なのか、流人にも分かっていなかった。

(僕、なんで透堂さんと電車に乗ってるんだっけ?)



 事の始まりは楊ノ下高校中間テストにまで遡る。

 吸太郎と心を通わせた後、他のクラスメートと交流を深める前に流人は中間テストに阻まれていた。

「まぁ、オレは夜行性だからな。前日に吸血鬼パワーで徹夜すれば──」

「無駄口を叩いてないで手を動かしてください」

「あはは……」

 流人の家で突如開催された中間テスト対策の勉強会。

 参加者は流人を含めて三名。

「そういや、次は誰をけ回すつもりなんだ? るっぴー?」

「尾け回すって、言い方悪いよQ」

「鬼口さんのときは『尾け回し』てましたもんね」

「切裂さんまで……」

 ニヤニヤと笑う吸太郎に、困ったような笑みを返す流人。そんな二人をいたずらっぽい微笑で麗子が見守る。

「とりあえずテスト終わるまでは遊びに行けないですから、次も何も……」

「真面目だな、るっぴー」

「私達の学校に不真面目な人が多すぎるんですよ」

 少しの沈黙とペンが紙に擦れる音。それもそこそこにまた会話が再開する。

 勉強会とは名ばかりであったが、楽しいときが流れていった。

「でも、次は透堂さんでしょうね」

「まぁ、そうだろうな」



 二人の意見は流人にとって意外なものだった。明花はその性格上、流人とも積極的に交流している。本来ならばこの勉強会に参加していてもおかしくない。

「なんか意外そうな顔してんな」

 流人の顔色をめざとく見つけた吸太郎が指摘する。流人は慌てて訂正をした。

「いや! そんなことはないよ! でも……」

「でも?」

「透堂さんが僕を助けに来たときに言ったんです」

 もはや遠い過去のようなものになってしまった三年一組事件。拉致された流人の元に真っ先に駆けつけ、戦争を始めたのは紛れもなく彼女である。

『めーちゃんのクラスメートに、友達に手を出して、こんなもので済むなんて思ってないよね? ね?』

 大勢の不良に囲まれても尚、彼女は笑みを浮かべてそう言い放った。

「友達……って、そうやって言ってくれました。なので透堂さんは人間とかバケモノとかあまり気にしてないのかなと」

 もしそうなら、希望はある。

 現に、吸太郎と流人との間にあった壁は種族の壁だった。それが無いのなら希望は確信に変わっていく。

「うーん……」

 流人の希望を遮ったのは、吸太郎の苦しげなうなりだった。

「も、もしかして僕、変なこと言っちゃった?」

「いや、別にそうじゃないけどさ……」

「野間さんの推測は、少し甘いかもしれませんね」

 ペンを置いた麗子が、真剣な瞳で流人をまっすぐ見据える。

 マスクで表情が見えづらいが、流人には彼女がどこか険しい表情を浮かべているようにも見えた。

「甘いってどういう……」

「私達の口からそれを言ってしまうのは良くありません。透堂さんも、言うなら自分の口から言いたいでしょうし」

「確かに、委員長様の言う通りだな」

 流人も薄々感じていたが、やはり彼女らと正面から向き合うのは流人本人の役目だろう。

「それはそれとして、悪友からの貴重なアドバイスを聞かせてやる。心して聞きたまえよ」

「なんでそんなに偉そうなの」

 流人を無視して、吸太郎は話を続ける。

「例の三年一組の一件、るっぴーが休んでたことに一番ショック受けてたのは明花ちゃんだ」

「え、そうなんですか?」

 麗子の方を見ると勉強に戻っている。彼女が何も訂正をしないということは間違っていないようだ。

「案外、人間とバケモノについて一番悩んでるのは、明花ちゃんだったりしてな」

 事はこのとき、既に始まっていた。

『テストが終わったら遊びに行こうよ! 二人で!』

 携帯に届いた明花のメッセージに、このときの流人はまだ気づいていなかった。




「着いたあ!」

 そうして、二人は今に至る。

 電車に揺られること三十分。明花に連れられやって来たのは、流人にとっては因縁の地。

 食品、ファッション、美容、あらゆるジャンルを網羅し、映画館まで併設された、地域最大規模のショッピングモール。

「着いたよ、るっぴー。びをるため人々が群がる型ショッピングモ《M》ール、略してAEOM《イオム》!」

「……まさかとは思うけど、その省略って公式じゃないよね?」

 野間流人、二度目のAEOM上陸である。

「テストも終わったし! 今日はいっぱい遊ぶぞー」

「あ、あの、透堂さん。一つ聞きたいんですけど……」

 おずおずと声をかける流人。一回り小さな明花の瞳が、彼を鋭く睨みつけた。

「めーちゃん!」

 彼女にとってそれは、ないがしろにしてほしくない大切な名である。しかし、同年代の女子をあだ名で呼ぶということが、流人にとって高いハードルであることもまた事実。

「めーちゃん……さん」

 よって、このようないびつな呼び方に落ち着くのだ。

「なーに?」

「今日は、どうして僕を遊びに誘ってくれたんですか?」

 太陽のように周囲に笑顔を振りまく明花は、誰がどう見ても機嫌が良い。対して流人は未だ状況が飲み込めていない。

 吸太郎の一件とは違い、今回は明花から流人を連れ出した。彼がその理由を知りたがるのは当然だろう。

「どうしてって聞かれると上手く言えないなぁ。あ、でもQちゃんとの話聞いたよ? 仲良くなりたくて喧嘩したんでしょ?」

「喧嘩……って言えるんですかね、あれは」

「とにかく! Qちゃんとるっぴーが仲良くしてるのを見て、めーちゃんは羨ましくなりました。だからここに連れてきたのです!」

「そ、そうですか……」

「だから今日は楽しも? ね?」

 普段とは違う大人っぽい笑顔に、流人の胸は少しドキリとする。

 その胸の高鳴りが、流人に目の前の現実を突きつけた。

 女子と二人きりで出かけるという現実を。

「そっかぁ……」

 思わず天を仰ぎ見る。吹き抜けから大きな天井が見えた。

 野間流人、齢十七にして初めてのデートである。




 そんな流人を上階から見下ろす二つの影。

「あの様子だと、どうやら自分が置かれている状況をようやく理解したようですね」

「あー……何でも良いんだけどさ、麗子ちゃん? その格好はどうかと思うなぁ」

「何を言っているんですか鬼口さん! この変装がなければ、万一の場合に私達がこっそりついてきたことがバレてしまうではないですか!」

 帽子を被り、大きなサングラスをかけ、口元を完全にマスクで覆ったその少女は、紛れもなく不審者──ではなく、切裂麗子本人である。

 そして隣で冷めた目をしているのは鬼口吸太郎。二人とも流人や明花と同じく学校から直接尾行してきたので制服姿である。

「なー、流石に悪趣味じゃねぇか? そりゃ、オレもここ来るまでは乗り気だったけどさ、なんかあのるっぴー見たら可哀想になってきた」

「今さら何を言っているのですか。それに、私達は野次馬ではなく、二人のデートの障害になる物を事前に排除するのが使命です。友達は助け合うものでしょう?」

「確かにその通りなんだけどさ……」

 サングラスとマスクで顔を隠しても、下心が隠し切れていない。

「二人が移動を開始しました! 私達も追いますよ!」

「絶対楽しみたいだけだろ……」

 流人と明花のデート。そして二人の奇妙な尾行が始まったのであった。


「まずは映画! チケットはもうネットで取ってあるから!」

「は、はい!」


「鬼口さん! 三番スクリーンで上映される映画です! チケットを!」

「いや、なんでオレが!」


「次はお昼ご飯! この時間は混むからフードコートに急ぐよ!」

「え、わ、分かりました!」


「行き先はフードコートです! 私達も追いかけますよ!」

「なんか最近こんなのが多くないか……」


「ごちそうさま! めーちゃん服が見たいな!」

「え、も、もう行くんですか?」


「二人は一階に向かいました! 鬼口さん、一階に先回りを!」

「いや、無理だろ! まさか吹き抜けから飛び降りろってか? …………え?」

 ショッピングモール内を縦横無尽じゅうおうむじんに駆け回る少女達。少年達は抵抗できずに、ただ引きずり回されるのみ。

「しまった、二人を見失ってしまいました」

「ちょ、ホントにちょっと待って、まじストップ……休憩……」

 息切れ一つしていない麗子と、そんな彼女についていくのがやっとな吸太郎。

「人のデートを覗き見るなんて、悪趣味なクラスメートだよ。まったく!」

「はぁ……はぁ……なんの、こと、ですか……」

 同じく、麗子の追跡に気づきご立腹りっぷくな明花と、今にも倒れそうな流人。

 少女の体力は無尽蔵である。奇しくも離れた所にいる少年達は同じことを思っていた。

「るっぴー、大丈夫?」

「なんとか……でも、少し、待ってほしいです……」

 階段で身を潜めながら、二人はやっと一息つく。普通なら昼食は休憩になるはずだが、彼らの今日は普通ではない。

 流人は気づいていないが、二人は下世話なバケモノ達の目を逃れ続けているのだ。

 エスカレーターのおかげでほとんど使われなくなった階段に、流人はゆっくりと腰を下ろした。

「ふぅ……」

「落ち着いた?」

 薄暗い階段に、明花の声と流人の荒い息づかいが反響する。

「まぁ、なんとか」

 胃袋から逆流しそうになる昼食を必死で押さえ込みながら、流人は作り笑いを浮かべた。

「……もうちょっと休憩してよっか」

 流石の明花も流人の顔色の悪さを見たからか、流人と同じように階段に腰をかける。

 同じ段に座る彼女は、流人よりも一回りほど小さい。はたからでは歳の離れた兄妹に見えるほどだ。

 ユラユラと左右に揺れる小さな頭を見下ろしながら、流人は不思議な感覚に陥っていた。

「ん? どうしたの?」

「い、いや、ナンデモナイデス」

 吸太郎の時も同じだが、やはり人間にしか見えない。高校生にも見えないが、それでも透明人間にはとても見えない。

 見た目が幼いだけの、可憐な少女だ。

(あれ……僕って今)

 そして流人は気づいた。自分が今、同年代の女子と二人きりであることに。

「ねぇ、るっぴー」

「は、はひ!」

 突如距離を詰める明花に、思わず背筋が伸びる流人。

 今まで意識していなかった流人には、彼女の髪から香るシャンプーの匂い一つでも刺激が強すぎるくらいだ。

「るっぴーはさ、あたし達のことってどのくらい知ってるの?」

「ど、どのくらいというのは?」

「ほら、るっぴーは普通の人間だからさ、あたし達みたいな存在のことも知らないんじゃない?」

「あぁ……」

 彼女の言う『あたし達』というのは、言うまでも無く『バケモノ』ということなのだろう。

「じゃあ、いろいろ教えてください。めーちゃんさんのこと」

「いいよー、じゃあまずはね……」

 自分の特異性を話す彼女の姿は、流人の目にはどこか悲しいものに見えていた。

 それは、目の前の少女が自分とは遠く離れた存在であることを示しているように思えてならないのだ。



「私は透明人間のママと普通の人間のパパから生まれた、言うなれば半透明人間ってやつかな? だから結構自由に見えたり見えなかったりできるんだ」

「そうなんですね」

「あたしだけじゃなくてあたしの身体に触れてる物も透明にできたり……あ、生き物とかはずっと触れてないとダメなんだけど」

「めーちゃんさん」

 明花の話を遮る。どこか憂いを帯びている彼女の顔を、流人はこれ以上見たくはなかった。

 流人はふと、勉強会での吸太郎の言葉を思い出した。

『案外、人間とバケモノについて一番悩んでるのは、明花ちゃんだったりしてな』

「るっぴー? どうかしたの?」

「あ、いや、その……」

 明花は不思議そうに流人の顔をのぞき込む。話を遮ってしまった以上、彼女に何か話題を供給しなければ。

「め、めーちゃんさんの御両親って、どんな人なんですか?」

「ん? めーちゃんのパパとママ? そーだなぁ……」

 少しの間考え込む明花、流人は黙ったまま彼女が話し出すのを待っていた。

「ママは料理と裁縫さいほうが上手でいつも優しいの! 顔は見たことはないけど、笑顔が素敵だってパパはいつも言ってる!」

「そうなんですね。お父さんはどんな人なんですか?」

「うーん……面白い人、かな。ママはそうやって言ってたよ」

「面白い人? 明るい人なんですか?」

「いや、パパはいつも厳し~って顔してる! こーんな感じ!」

「ふっ、なんですかその顔!」

「ちょっと! なんで笑うの?」

「いや、ごめんなさ……ふっ!」

「もー……あははっ!」

 吹き出す流人につられて明花も笑い出す。二人の笑い声が階段を覆い尽くしていく。

 いつの間にか、明花はあの憂いを帯びた笑顔ではなく、いつもの無邪気な笑顔に変わっていた。

「あー笑った笑った! ありがとね、るっぴー」

「お礼を言われるようなことはしてないですよ」

 階段から飛び出して、スカートの端を叩いて汚れを払う。軽やかな動きのまま流人の方に振り返えった。

「いいの! あたしがお礼を言いたいんだから! ありがとう!」

「……どういたしまして」

 太陽のように明るい彼女は、今日もまばゆく輝く。

 流人は安心していた。明るいだけの人間はいない。それは人間以外でも同じだということに気づけたから。

「さて! キリキリとQちゃんに合流して四人で回ろっか!」

「え? あの二人ってここに来てるんですか?」

「そう! こっそり付いてくるなんて趣味が悪いよね! 一回お説教しなきゃだよ!」

 制服のポケットからキーホルダーやぬいぐるみがジャラジャラついたスマホを取り出し慣れた手つきで電話をかける。

 一コール。ニコール。三コール。

「あれ? おっかしーな。いつものキリキリならすぐに出るのに……」

「Qにも連絡した方がいいですか?」

「そうだね、そうしよっか」

 再びスマホを操作し、明花は通話ボタンを押す。

 すると今度はワンコールで電話が繋がった。

「Qちゃん? あたし達を追いかけ回してるのはとっくにお見通しなんだから! もうそんなことは止めて一緒に……」

 いくら話しても帰ってくるのは無音だけ。

 そんな状況をいぶかしんだ明花は、黙って電話の向こうに耳を澄ませた。

「……Qちゃん?」

「見つけた」

「──ッ!」

 声のした方に視線を向ける。

 少女が階段の上に立っていた。掲げるようにスマホを持って、仁王立ちで二人を見下ろしている。

「あ、あなたは……」

「やぁ、また会ったね」

 全身を真っ白の学ランに包んだその少女は、男のような口調で階段を一歩一歩降りてくる。

「悪いけど、今日のボクは遊びに来たんじゃないんだ。そして、ボクの目的はキミじゃない」

「あ、あの、言っている意味がよく──」

 言い終わらないうちに流人の身体が後ろへ引っ張られた。

「るっぴー走るよ!」

 見ると明花が流人の腕を引いている。

 その顔には冷や汗が滲み、大きな目を更に見開いている、まさに必死の形相ぎょうそうだった。

「え? 透堂さん!」

「いいから!」

 引っ張られるがままに階段から飛び出し、わけが分からないなりに置いていかれないよう走る。

 流人が拉致されたときも笑顔で助けに来た明花だが、今は微塵の笑みもない。

「透堂さん! あの人と知り合いなんですか!」

「知らないよ! でもあいつ多分──」

 人の通りが多いところまで出た二人だったが、既にあの少女と同じ白い学ランを身につけた人間達に包囲されていた。

「そう簡単には逃がさないよ」

 そして背後にはあの少女が追いついている。完全なる八方塞がり。

 その異様な光景に、周りの一般客も奇異の視線を流人達に向けていた。

「大人しくボク達と来てもらおうか」

「あ、あの! 誰かと勘違いしてるんじゃないでしょうか! 僕達あなた達のことは知らないです!」

 他の客にも聞こえるように、なるべく大声で流人は叫んだ。

 この騒ぎで店員がやって来れば逃げるチャンスは必ず生じるはずだと、状況を飲み込めていないなりに流人は考えたのだ。

「確かに、キミ達はボク達のことを何も知らないだろうね。でもボク達はキミ達のことを知っているんだよ。お仲間の吸血鬼と口裂け女も、既に我々と一緒だ」

「な、んで、あなたがそれを……」

 吸血鬼と口裂け女。彼女の口ぶりから導き出されるのは一つ。

「るっぴー、あいつ知ってる奴だよ」

「あなた達は一体……」

 少女は笑う。

「私立英里斗えりと学園生徒会副会長。いち

 全てを見透かすような、獲物を見定めるような、獣の瞳で。

「ただの、正義の味方だよ」

「正義の……味方?」

 一歩一歩、自称『正義の味方』は流人に歩み寄ってくる。

 少女との距離が縮まっていくにつれ、明花の腕を握りしめる強さも強くなっていく。

 明花を連れて逃げなければと、頭では分かっていても身体は言うことを聞かない。

 目が離せない。

「──ッ!」

 そんな流人を呼び覚ましたのは、スマホから流れてくる軽快な着信音だった。

 それは流人のスマホからではない。明花のからでもない

「ん?」

 玖牙が持っているスマホ。つまり、吸太郎のスマホだった。

 その音にほんの一瞬だけ、全員の意識が集中する。

「るっぴぃぃぃいいいいい!」

 声のした方向、上を見上げる。

 そこは吹き抜けになっており、二階と三階を抜けて天井が、そして二つの人影が見えた。

「Q!」

 麗子を抱えた吸太郎は、一直線に一階へと向かってくる。いや、落ちてくる。

 吹き抜けを通った三階からのダイブ。間違いなく最短距離だ。

「どけぇぇぇぇぇえええええ!」

 着地と同時に地面が割れ、その衝撃で粉塵ふんじんが舞い上がる。

 動揺が白学ランの生徒達に伝播していく。

「な、なんだ? 何が起こった!」

「なぜ奴らがここに! 別働隊は何をしてるんだ!」

「落ち着け! 今は奴らを捕らえるのが先……ひゃあ!」

「副会長?」

 玖牙のとんきょうな声が漏れる。

 悪くなった視界の中、ふいに誰かが彼女に触れたのだ。

「鬼口さんの携帯、返してもらいますね」

「く、口裂け女……」

「いずれまたお会いしましょう。ふふふっ……」

 煙と共に不気味な笑い声が遠ざかっていく。

 しばらくして視界が晴れても、流人達の姿はどこにも見当たらなかった。

「待て!」

「追うな一華」

 駆けだしそうになる玖牙を、一人の少年が制止する。

「今の状況では私達の方が不利だ。ここは一度引く」

「しかし、会長……」

「いいんだ。行くよ」

 悔しそうに歯を食いしばる玖牙とは対照的に、少年は不敵に笑う。

「次に会うときには、決着をつけるさ」




「こ、ここまで逃げれば……」



 謎の少女、玖牙一華の追跡からなんとか逃れた流人達四人は、非常階段でやっとその足を止めた。

「クッソ……何なんだアイツらは! ってか玖牙一華とかいう奴! 勝手にオレのスマホ持っていきやがって!」

「落ち着いてください。はい、吸太郎さんの携帯は先ほどこっそり取り返しておきました」

「おぉ! ありがとう麗子ちゃん! 流石オレらの委員長だな!」

 吸太郎は喜んでスマホを受け取る。緊迫した空気が緩んだように見えたが、流人は不安そうに辺りを警戒していた。

「野間さんも落ち着いてください。ここなら彼らからも見つかりません」

「で、でも、ここに逃げ込んだところを見られたら……」

「それは大丈夫だと思うぜ。なんせ逃げるときに明花ちゃんが透明にしてくれたしな」

 その言葉を聞いたとき、明花が階段で話していたことを思い出した。

 明花の力。言わずもがな透明化だが、それは自分以外の他者や物体にも付与することができる。

 しかし、生物相手にその力を使用するときには、常に対象に触れていなくてはならないという条件がつく。

「あ、あれ……」

 流人の目にはハッキリ見える。スマホを受け取って喜んでいる吸太郎も、それを見て微笑んでいる麗子も。取り出したスマホの画面に反射する自分の顔も。

 ただ一つを除いて。

「……透堂さんは?」

 いない。周囲を見渡しても、どこにもいない。

「はぐれた……?」

 吸太郎と麗子の顔がみるみる険しくなっていく。

「おい、明花ちゃん? ふざけてないで出てこいよ」

 非常階段には吸太郎の声だけが反射して、少女の声は聞こえない。

「鬼口さん、今すぐディハマドさんに連絡を」

「わ、分かった!」

「も、もしかして、さらわれたんじゃ……」

「落ち着いてください。野間さん。その可能性は低いです」

「なんで!」

 息が荒くなっていくことが流人自身にも分かる。視界も狭まっていき、半ばパニックになり大声で叫んでしまう。



「いいですか野間さん、透堂さんの透明化の力は強大なものです。母親の透明の力を色濃く受け継いだんでしょう。しかし、その肉体は普通の人間のそれと、ほとんど同じなんです」

「つまり、何が言いたいんですか……」

 麗子は感情を殺して口を開く。

「透堂さんは自分の力を完全に制御できていません。強大すぎる力により、彼女の声も聞こえなくなり、自らの意志で見える・見えないのスイッチの切り替えができなくなる……どころか、最悪存在すら透明になり、消えてしまいます」

 透明になった彼女を見ることは、誰にもできない。

 まるで世界から拒絶されたかのように、全てが彼女を素通りしていく。




「あーあ、またこれだよ。この前透明になったときは上手く戻れたのになぁ」

 明花は溜め息を吐いて、壁にもたれかかったまま座り込む。

 人通りはあるが、誰も彼女を見ようとしない。

「ははっ、見えないんだから当然か……あーあ!」

 彼女の声に答える者も、いない。

「声も聞こえないみたいだし、今回はちょっと深く透明になりすぎちゃったなぁ……皆とも逃げる途中ではぐれて、めーちゃん大ピンチ! あははっ!」

 ひとしきり笑ったところで、合いの手を入れてくれる友人も、一緒に苦笑いを浮かべてくれる友人もいない。

 考えないようにしていても、どうしても頭に浮かんできてしまう。

「あはは……」

 孤独という名のバケモノが、透堂明花の首筋に噛みついている。

「ぱぱー、ままー」

 声のする方に顔を向けると、小さな女の子が泣いていた。

 両親とはぐれたのか、赤い風船を握りしめて、激しく泣きじゃくっている。

「そういえば、あたしもよくああやって泣いてたっけ……」

 思い返すのは幼少期。背丈が今よりも小さな頃。力の制御が今よりもつたなかった頃。

「『あたしはこのまま消えちゃうんだー』って……悲しくて、寂しくて、怖かった」

 少女は泣き叫ぶ。前よりも激しく。

「いや、今でも怖いよ」

 悲しくて、寂しくて、怖い。

 明花は普通ではない。しかし、それだけじゃない。

 バケモノの力をその身に宿しながらも、相反あいはんする精神を持ち合わせた少女。

「大丈夫、パパもママも、すぐにあなたのことを見つけてくれる」

 少女の頭を撫でようと手を伸ばす。

「メイ!」

「っ!」

 明花の身体をすり抜けて、男が少女を抱き寄せる。

「もう大丈夫だからな! 置いていってごめんなメイ」

「ぱぱぁぁぁ!」

 男が少女を強く抱きしめると、少女も強く抱きしめ返す。

 明花は見ているだけで、何もできない。

 見られることすら、今の彼女にはできないのだ。

「……良かったね、メイちゃん」

 透堂明花は透明人間であり、ただの寂しがり屋の女の子である。

「だれか……あたしも……」


ピンポンパンポーン♪

「──迷子のお子様のお知らせです」

「……館内放送?」

「めーちゃん様、めーちゃん様、お友達が三階にてお待ちです」

「え?」


 時は少し遡り、非常階段にて。

「切裂さん、どうしてディハマドくんを呼んだんですか?」

「彼の包帯には特殊な術式が刻まれています。それを使えば透堂さんの異能を無力化できます」

「Q、ディハマドくんはすぐに来れそうなの?」

「いや、アイツ学校にいるから、最低でも三十分は……」

「三十分……」

 平静を装ってはいるが、流人の頭には依然焦りが渦巻いていた。

 三回ほど深呼吸しても焦りは消えない。けれど頭は回っている。

「でも、ディハマドくんが到着するまで何もしないわけにはいきません。僕らで見つけるくらいじゃなきゃ」

「るっぴーの言う通りだぜ。少なくとも明花ちゃんがどこにいるかくらいは把握しとかねぇと」

「しかし、透堂さんがどこにいるかすら分からないこの状況では──」

「方法ならあります」

 麗子と吸太郎が驚いたように流人を見つめる。そこにはオドオドしたいつもの流人も、パニックになってヤケを起こす流人もいない。

 ただ、焦りながらも必死に考えを巡らす少年がいるだけ。

「館内放送で透堂さんを呼び出しましょう。僕が透堂さんなら、少しでも誰かに気づいてもらえるように人通りの多いところにいるはずです。放送を聞き逃す可能性は限りなく低い」

「野間さん、それでは先ほどの玖牙一華に待ち伏せされる恐れが……」

「名前を伏せましょう。楊ノ下高校の透堂明花ではなく、迷子のめーちゃんを呼び出すんです。これなら奴らにバレることもない」

「な、なるほど。確かにそれなら透堂さんだけを指定した場所に呼び出せるかもしれません」

「るっぴーすげぇな……」

 これで一つ目の問題は解決した。しかし、まだ大きな問題が残っている。

「でもよ、明花ちゃんを呼び出しても、オレらには明花ちゃんの正確な位置が見えないんだ。そこはどうすんだよ」

「一応、僕に案があります。上手くいくかは分かりませんが、もし僕の予想が正しければ……」

 それでも流人の目に迷いは見えなかった。

「透堂さんの透明化を解除できます」

 そして時間は現在に戻る。

 明花への館内放送を終えた後、三人は放送で呼び出した先で明花が来るのを待っていた。

「なぁ、るっぴー」

「……どうしたの?」

「るっぴーってさ、明花ちゃんのことが好きなのか?」

 緊迫した空間に突如として飛びだしたそんな質問。たっぷり三拍置いてから、一気に流人の顔が真っ赤になる。

「え、えええええ? な、ななななななんでそんなこと聞くのさ! べべべべべ別に嫌いとかじゃないけど、そんな、すき、とか、よく分かんないよ!」

「そんなに動揺しなくても良いじゃねぇか。ちょっと気になっただけだよ」

「もう……?」

 流人が視線を感じて振り向くと、麗子が流人を見つめている。

 マスクをしているのでどんな顔をしているのか読み取れないが、流人には彼女がどこか不機嫌そうに見えた。

「あ、あの……切裂さん? どうかしましたか?」

「いいえ? 何でもありませんよ?」

 流人が麗子の方を向くと、彼女は顔を逸らしてしまう。

「ただ、委員長としてクラスの風紀は守らねばなりませんからね」

「ええ? いやそんなんじゃないですって!」

「でも、気になってはいるんでしょう?」

「……まぁ、そうですけど。恋愛的な意味じゃない、と思います」

 流人は何かを思い出すように俯く。

 自分の古傷をえぐられたような、自嘲的じちょうてきな表情で。

「僕も、ちょっと前まで透明人間だったんで」

「は?」

「そろそろ時間です。おそらく来ている……はずです」

 こればかりは彼らには分かりようがない。

 見えない、聞こえない、触れない明花が三人の前までやって来ていることなど、知るよしもないのだから。

「来てるよ。るっぴー、Qちゃん、キリキリ」

「なぁ、本当にこれやるのか? もしミスったら……」

「鬼口さん、透堂さんが聞いているかもしれませんので、そのことはあまり喋らないように」

「ったく、どうなっても知らねぇからな!」

 怒ったような口調で、吸太郎はその場を離れる。

 三人とはぐれていた明花には何が何だか分かっていなかった。

「てっきりQちゃんがなんとかしてくれるのかと思ったけど、そうじゃないみたいだね。Qちゃん下の階に降りちゃったよ?」

「切裂さん。お願いします」

「はい。分かりました」

 流人の合図で麗子は二丁のハサミを取り出す。

 そのまま流人の前を通り過ぎ、吹き抜けと通路の間に設置された柵の前に立つ。

「ねぇ、何しようとしてるのかな? お店でもなんでもない三階の通路に呼び出して……」

「行きます」

 次の瞬間、両手で構えた二丁のハサミから閃光が発せられた。

 普通のハサミから出るはずのない風圧と衝撃。

「え?」

 柵が切り取られた。

 麗子の持つハサミから放たれた斬撃は、柵の一部を切り取り、そこだけ吹き抜けと通路の境目が消失してしまったのだ。

「それでは、私はこれで失礼します」

「お客様! 一体何を!」

 店員から逃げるように、麗子は切り取った柵の一部を担いで逃げていく。

 残されたのは流人と明花の二人だけ。

「るっぴー、あなたは本当に何をしようとしてるの?」

「ほ、本当に高いなぁ……」

「ちょ、ちょっと!」

 境目に立って下の階を見下ろす流人。彼の言う通り、大型ショッピングモールの三階となるとかなりの高さになる。

 吸血鬼でもない限り、落ちればひとたまりもない。

「透堂さん、そこにいるんですよね」

「っ!」

 流人には明花の姿は見えない。声も聞こえない。

 しかし、この瞬間にしくも二人の視線は重なっていた。

「実際、透堂さんがいてもいなくても、僕のやることは変わらないんですけど」

 苦笑いを浮かべる流人の顔は、どこか恐怖に引きつっているようにも見える。

「だ、だから、後は透堂さんの判断に任せます」

「るっぴー?」

 その言葉を最後に、振り向いた流人は勢いよく吹き抜けへ飛び出した。

「ば、ばか!」

 無意識だった。流人の後を追うように、明花もまた吹き抜けへと飛び出す。

 そして至極当然の現象が起こる。

「う、うわあああああああああああああああああああああ!」

「きゃあああああああああああああああああああああああ!」

 三階からの落下。

 普通に考えれば地面に激突してバラバラになるのは必至である。

 落下していく最中、明花の脳内を支配していたのはただ一つ。

 落下死への恐怖。それが明花の感情の全てを塗りつぶした。

「っ…………?」

 しかし、いつまで経っても衝撃はやって来ない。

 それどころか落下している感覚すら、いつの間にか消えていた。

「……あ、あれ?」

 確かに三階から一階に落下したようだが、着地したのは固い地面ではなく、赤い布だった。

 布の端は赤い鎖で天井部分に繋がり、ハンモックのように張られている

「これは……」

「Qが自分の血で作った膜です。Qは破れないか心配してましたけど、上手くいきましたね」

「上手くいったじゃないよ! 何やってんのさ!」

「す、すみません透堂さん……でも、これくらいしか思いつかなくて」

「だから『めーちゃん』だっ……て……」

 会話が成立している。

 流人は苦笑いと冷や汗を浮かべながらも、明花の目を見て言葉を紡いでいた。

「み、見えてるの?」

「はい、見えてますよ。とにかく上手くいって良かった」

「ど、どうやって?」

 血のハンモックから慎重に降りた流人は、明花の手を取って答える。

「切裂さんから聞きました。透堂さんのこと。強すぎる透明人間の力を制御できずに、姿だけじゃなくて声も聞こえなくなり、最後には何も触れなくなる」

 明花は差し出された手を、おそるおそる握り返す。流人の温かい手の感触が伝わってきた。

「けど、それを聞いたときにある仮説を思いついたんです」

「仮説?」

「もし透堂さんの透明化が暴走して、全部がすり抜けるようになってしまったら、壁とか地面とかも全部すり抜けて、どんどん地球の中心に引きずり込まれてしまうはずです。光も目の中の水晶体をすり抜け、音も鼓膜をすり抜けるから、何も見えず聞こえないはず」

 明花は思い返す。自分の透明化が暴走してしまい、人や物に触れられないと認識したのは何歳の時だったか。

「でも、そうじゃない可能性があった。前に僕を助けてくれたときも、透堂さんは確かに見て聞いていた。そこにいた。だから思ったんです。『触れない』んじゃなくて『触れないと思い込んでいる』だけじゃないのかって」

 自分は誰からも見えない。世界から自分という存在が消える。

 その二つを、明花は幼少の頃に等号で結びつけてしまった。

「『触れない』っていう透明の常識をかき消すために、もっと強い常識が必要だった。『高いところから落ちれば地面に叩きつけられる』っていう、当たり前のことが」

「だから、あんなことを……」

「上手くいくかどうかは分かりませんでしたが、結果として透堂さんは地面に叩きつけられると思い、あるいは叩きつけられるために実体化した。だからまぁ、成功、ですかね?」

 それはあまりにも危険な賭けだった。

 もし、明花の身体が完全に透過し、既に重力に吸い込まれていたら。

 もし、明花が館内放送に気づかなかったら。

 もし、明花が流人の後を追って飛び出さなかったら。

 どれも無視するにはあまりにも大きな危険。しかし、流人は身を投げた。

「るっぴーは……バカなの?」

「え? ま、まぁ、頭が良い方ではないですけど」

「違う! こんな危ないマネをして! もし失敗したらるっぴー自身がどうなってたか……」

 怒りと安心、そして少しの恐怖が入り交じった表情で流人を見つめる。

 明花には分からなかった。

 なぜ、流人が飛び降りなければならなかったのか。なぜ、そこまでするのか。

「透堂さん、僕も少し前まで透明人間だったんです」

「……え?」

「前の高校、いや中学からか。いじめられてたときには誰も僕を見ようとしなかったんです」

 イジメとは直接危害を加えるだけではない。

「無視されてたって言えばそれだけなんですけど、されてるこっちとしては凄い傷つくんですよね。誰も自分を見ないっていうのは」

 世界から自分という存在が消える。その感覚を流人は理解していた。

 だからこそ、明花のことを放っておけなかったのだ。

「でも、このクラスに来てからは違う。皆は僕のことを見てくれる。透堂さんも僕のことを見てくれた。だからこんなことをしたくなったんです」

「るっぴー……」

 明花の思い出の中で、父親は彼女に語りかける。

『ねーねーパパ、パパはママのどんなところを好きになったのー?』

『ん? そうだな、笑顔が綺麗だったところ、かな』

『変なのー、ママのことはパパにも見えないんでしょー?』

『そうだね。でも明花にもいつか分かるよ』

「大丈夫。透堂さんは見えなくなっても、いなくなったわけじゃない」

 目の前でぎこちなく微笑む少年は、しっかりと少女の手を握りしめた。

「そっか……そうだったんだ……」

「おい、るっぴー。いつまでも話してる時間はなさそうだぜ」

 物陰から出てきたのは、血のハンモックを作るため一階で準備をしていたQだった。

 彼の視線の先、遠くから誰かが走ってくる。

「三人ともー、逃げますよー」

「待ちなさい君達!」

 どこか楽しげな麗子が、複数の警備員を引き連れ向かってきていた。

「え、え! なんで切裂さん追いかけられてるんですか?」

「まぁ、柵壊したり飛び降りたり、そりゃあ追いかけられるよね」

「ど、どうしよう!」

 頭を抱える流人。先ほどと同一人物は思えない狼狽ぶりである。

「どうするって、逃げるしかないでしょ! 行くよ!」

「と、透堂さん!」

「だから──」

「わ、分かってるよ! めーちゃん!」

「……よし!」

 少年と少女は手を繋いで走り出す。追いかけてくる人間の数が、二人が確かにそこにいることを証明していた。

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