第47話「風渡る峡谷と、“終わらせない言葉”」

 ティルフィの泉での交渉を終えた翌朝、ミサとレティアは旅路を再開した。

 行き先は《ゼルファの峡谷》。

 そこは風が絶えず吹き抜け、昔から“言葉が届かない場所”として恐れられていた。

 叫んでも、呼んでも、風にかき消される。

 それでも、かつてこの地で交渉を試みた者たちは絶えなかった。


 「ここには、“最後のひとこと”が届かなかった魂がいる」


 ミサの瞳には、微かに揺れる決意が宿っていた。


 「終わらせられなかった対話ってことか?」


 レティアの問いに、ミサはうなずく。


 「伝えようとして、途中で止まってしまった想い……それを、わたしが“終わらせない”」


 ゼルファの峡谷に到着すると、風が想像以上に強く吹きつけてきた。

 まるで、この地に言葉を残させまいとするかのように。


 ふたりは肩を寄せ合いながら、岩場を慎重に進んだ。

 峡谷の最深部、古い石碑が風に晒されながら立っていた。


 その石碑には、文章の途中で終わった言葉が刻まれていた。


 《私はあなたに——》


 それだけだった。


 ミサはそっと碑に触れる。

 《祈約の環(オラシオ・サークル)》が共鳴し、周囲の風が一瞬だけ止んだ。


 そして——視界が開く。


 ミサの前に現れたのは、少年の姿をした魂だった。

 彼は儚げな眼差しで、ミサを見つめていた。


 「ぼくは……何を言おうとしてたのかな……」


 声はあった。

 けれど、その奥には“恐れ”があった。


 「怖かったんだね、想いを伝えることが」


 ミサが一歩近づく。


 「でも、言えなかったからって、想いがなかったわけじゃない」


 少年は唇を噛みしめた。


 「……届かなかった言葉って、存在しないのと同じじゃないの?」


 ミサは首を横に振った。


 「違うよ。言葉にできなかった想いこそ、ずっと心の中に残り続けるの。わたしはそれを“終わらせない”って決めたの」


 ミサはそっと手を差し伸べる。


 「だから、ここで終わらせよう。“言えなかった言葉”を、いま一緒に見つけよう」


 少年の瞳に、涙が浮かぶ。


 「……ありがとう。ずっと誰かに、そう言ってほしかった」


 風が静まる。

 石碑に新たな一文が刻まれていた。


 《私はあなたに——いてくれて、ありがとうと言いたかった》


▶ 契約深化:《終誓の風(エターナル・ブレス)》を獲得。

 ——未完の想いを“終わらせずに継ぐ”契約。風のように届かぬ言葉を、未来へ繋げる力。


 帰り道。

 風が少しだけ優しくなっていた。


 「今日の交渉……“届かなかった言葉”って、きっと、誰にでもあるものだと思う」


 ミサが呟く。


 「そうだな。私も昔、“ごめん”も“ありがとう”も言えなかったことがある」


 レティアの横顔は、どこか切なかった。


 「……でも、今なら言える?」


 ミサの問いに、レティアはふっと笑う。


 「ああ。だから今、あんたに言うよ」


 彼女はミサの手を取り、目を見つめた。


 「ミサ、ここまで来てくれて、ありがとう。あんたがいてくれて、私は何度でも“選び直せた”」


 ミサは小さく頷き、レティアの胸に額を預ける。


 「わたしも。あなたがいなかったら、この旅をここまで歩けなかった」


 ふたりの手は、風の中でしっかりと重なっていた。

 それは“終わらない想い”を確かに繋ぐ、小さな誓いだった。


(つづく)

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