第35話「無言の神殿と、“契約なき誓い”」

 《深境の環》での共鳴を終えたミサとレティアは、イリスの羽に導かれるまま西へと進んでいた。


 旅路はかつてないほど静かだった。風はほとんどなく、空の色さえも濃い藍に染まっている。

 言葉を交わすのも惜しいような静寂が、ふたりの周囲を包んでいた。


 けれど、それは不安や恐れではなかった。

 ミサは感じていた。この沈黙こそが、次なる“対話”への入り口なのだと。


 イリスの言葉によれば、《無言の神殿》は“声を持たぬ契約者たち”が眠る場所。

 かつて、感情を封じ、交渉を拒み、ただ“見届けること”に徹した者たちの魂が集まるという。


 夕刻、ふたりは岩山の裾野にたどり着いた。

 そこには古びた階段と、奥へと続く暗い回廊。

 そして、その奥に確かに、神殿は存在していた。


 石で造られた円柱。風にすら反応しない、完璧な無音。

 それは、世界から切り離されたような、閉ざされた空間だった。


「……ここが、“無言の神殿”」


 ミサが呟いた声さえ、空気に吸い込まれるように響かない。


 ふたりはゆっくりと神殿の中へと歩を進めた。


 壁には、文字ではない“痕跡”が刻まれていた。

 言葉にならなかった記録。

 語られなかった祈り。

 誰にも伝わらなかった、あるいは伝えなかった意思——。


 ミサの心が、震える。

 《契約輪唱》が反応している。


 けれど、これまでのような“感情の波”は来なかった。

 ただ、“沈黙”が寄り添ってくる。


「ミサ……ここ、何も感じないようで、逆に胸が苦しい」


「うん……ここには、もともと“伝えることをやめた魂”がいるの。

 それでも、この場所に残ってるってことは、きっと“誰かに受け止めてほしい”って、思ってるんだと思う」


 その言葉とともに、ミサは中央にある石壇へと向かった。


 そして、そっと右手を置いた瞬間——


 世界が“裏返る”。


 意識はまた、記憶の中へと引き込まれた。

 ただし、今回はこれまでと違い、“声”がなかった。


 映像すら曖昧で、そこにいたのは“言葉を持たない人々”。

 誰かの目を見て、うなずき、微笑み、時には黙って背を向ける。


 “言わない”ことが“伝わらない”のではない。

 “言えなかった”ことこそが、彼らの選んだ“契約”だった。


 ミサの中で、何かがはっきりと形を成す。


(そうか……この神殿の魂たちは、言葉の代わりに“見届けること”を選んだんだ)


 対話ではなく、観察。

 交渉ではなく、記録。

 その静かな存在の積み重ねが、今の“交渉の礎”になっていた。


 やがて、ひとつの魂が彼女の前に現れた。


 姿ははっきりしない。年齢も性別も曖昧。

 けれど、その存在からは、深い悲しみと、それ以上に優しい“理解”が伝わってきた。


「……あなたは、話しかけてほしいんだね」


 魂は、静かにうなずいた。


「なら、私が言葉を贈る。あなたが選ばなかった声の代わりに、私があなたの思いを“伝える”存在になる」


 その瞬間、神殿全体が微かに揺れた。


 誰も声を出さないのに、確かに“返事”が聞こえた。


 そして、《契約輪唱ノクターナ・コントラクト》が新たな変化を迎える——


▶ スキル進化:《無響契約(ノクターナ・コントラクト)》

 ——言葉にされなかった願い、沈黙の感情を“読み取り”、

 静寂のままに交渉する力を得た。


 現実に戻ったとき、ミサはしばらく何も言えなかった。


 レティアがそっと肩を抱き寄せる。


「……今度は、どんな声だった?」


「声じゃなかった。……でもね、すごく、あたたかかった」


 神殿の外に出ると、夜の星空が広がっていた。

 静寂が美しく、やさしい。


「言葉だけが交渉じゃない。心を傾けるだけで、誰かと繋がれる。そんな気がしたの」


 ふたりは肩を寄せ合い、星空を見上げた。


 交渉者として、ミサはまたひとつ、世界の深みと出会ったのだった。


 ——そして物語は、次なる試練へと進んでいく。


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