2005/2/15

 「あおいー、起きなさーい」


 隣のリビングから、母の目覚ましだ。

 昨夜は結局、遅くまで雪景色を見ていた。

 見ているだけで、心の靄まで消し去ってくれたようだ。


 布団から少しでも動くと、冷たい空気がじわじわと襲ってくるため、急いで暖房の効いたリビングへ向かう。

 母が用意したトーストを平らげ、通学の準備を進める。


 「母さんはもう行くから。遅れないようにね」


 今日は早番のようだ。


 鏡を見ながら、近所のスーパーで買った一番安いワックスを髪につけ、変化したかわからないが満足して家を出た。


 天気予報では曇りのち雨だったが、すでに曇天だ。

 せっかくすっきりしたと思ったのに、昨日のことが少し思い出される。

 いつもと違う通学路で登校する。この道は車通りが多いにもかかわらず、歩道が狭い。


 友達という存在がいない僕にとっては、この狭い道は快適だ。余計な気を使う必要がない。

 寂しいなんて関係ない。


 やっぱり昨日から、気持ちが落ちているようだ。


 本当は友達と登下校をしてみたい。休日に友達と遊んでみたい。

 でもうまくいかない。

 何を話せばいいかわからない。何が楽しいのかわからない。


 だからクラスメイトの輪のそばにいて、いつも笑顔でいるだけ。

 笑っているだけ。


 それが僕にできる唯一のコミュニケーションだった。


 高校に行けば、何かが変わるのだろうか。

 高校デビューとよく聞くが、何をすればいいんだろう。


 悶々とした気持ちを抱えたまま、学校に吸い込まれ、偽りの笑顔を盾に今日も過ごす。


 ◇


 今日の補習授業を終え、帰りの支度をする。


 「山口くん」


 横から声をかけられた。


 「この場所に来て」


 手に紙をねじ込まれ、去っていってしまった。


 今のは赤坂さんか。昨日の佐藤さんのグループではなかったよな……。


 状況は理解できずとも、手の中にはノートの切れ端が入っていた。

 あまり良い予感はしないものの、無視する度胸もない。


 紙には地図が書かれていた。


 「はぁ……」


 ふと見た空は曇天だった。


 地図を頼りに僕は目的地へと足を進める。

 普段通らない道のため、胸がざわつく嫌な気持ちがこみ上げてくる。


 早く終われと思いながら、足を進める。


 到着した場所は、古びたアパートの駐車場だった。

 駐車場の真ん中に来たものの、何も起こらない。


 「ただの嫌がらせか……帰ろう」


 駐車場の出口へ振り返り歩き始めた時、後ろからアパートの扉が「バタン」と鳴った気がして振り向く。


 「山口くん。待って」


 そこにいたのは、伊東葵(あおい)さんだった。


 僕がいつも教室でこっそり見ていた伊東さん。


 彼女の髪は肩の少し上で揃えられたボブカット。

 背は150㎝ないくらいで、胸は大きい。

 陰キャのクラスメイトにも優しく話しかけ、よく笑う。


 合唱部に所属しており、かわいらしい声。

 自転車で通学している。


 席替えでは、近くになったことが一度もなく、いつも付近の男子を羨んでいた。


 そんな彼女がなぜここに? なぜ僕を?


 「待って」


 アパートの階段を走り、僕の前に来た。


 アパートの方をちらっと見ると、地図を渡した赤坂さんのほかに、何人かが見ていた。


 胸がざわつく嫌な気持ちがこみ上げてくる。


 「な、なに?」


 「あの!」


 静かな駐車場に似合わない大きな声だった。


 「あの! 遅くなっちゃったけど、バレンタインのチョコ! ――すき、です。付き合ってください」


 僕は……よくわからなかった。


 嫌がらせ? 本当? どっち?


 よくわからないけど、すごく嬉しかった。


 だって僕はずっと見てきた。日常の君。体育祭の君。修学旅行のディズニーランドでミニーの耳をつけて笑っている君。


 いつも僕が近くにいたらって考えてた。


 これが偽物の出来事だとしても、僕は喜んでしまった。


 差し出されていた、可愛くラッピングされたチョコを受け取り、僕は笑顔で言った。


 「よろしく、お願いします」


 「はいっ」


 そこで、僕はようやく彼女の顔を見た。


 恥ずかしそうな、かわいい笑顔をしていた。


 少しして、彼女はアパートの方を向き、手で大きく丸を作った。


 すると、赤坂さんたちが彼女に駆け寄り、「やったね」と声をかけ合っていた。


 さっきまでの二人だけの空間は、すっかり消え去り、今では蚊帳の外だ。


 僕は急に恥ずかしくなった。


 「じゃあ……また明日」


 聞こえたかわからないが、いたたまれなくなり、その場を後にした。


 家への帰り道、さっそく手作りと思われるトリュフチョコを食べ、幸せな気持ちになった。


 僕に特別な人ができた。


 この「特別」という響きだけで、今までの虚無な人生は消え去った気分だ。


 そんな気分なのに、空は曇天だ。

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