感情の通貨 第0章 /無償の愛が最も高価だとするなら、 憎しみは、何を支払っているのか。

seven sense

第1話 無色の息吹 ―目覚めの予兆―

 もしも、あなたの“日常”が、たった一枚のコインで終わるとしたら。

 青年は、ひんやりとした空気が漂う薄暗い地下室で、呆然と自らの手を見つめていた。

「……これは、とんでもないことになった……」

 かすれた声で呟いたその手のひらには、一枚のコインが乗っている。

 そこから放たれているのは、まるで生き物のように脈打ちながら揺れる、不思議な光だった。


 それは柔らかく温かな輝きでありながら、同時にどこか不気味な気配をまとっていた。 ゆらゆらと波打つ光が地下室の闇を静かに照らし出し、その空間だけが現実から切り離されたかのような錯覚を生む。

 その異様な光景が、青年の心にじわじわと恐怖と驚愕を染み込ませていく。


 彼の名はレイ・キンドラー。

 医者を目指す18歳の高校生だ。数週間後には大学受験が控えていた——本来なら、そうであるはずだった。

 だが、目の前の光景がすべてを飲み込んでしまった。 手のひらの上で脈動する未知の光が、日常という日常を根底から覆していったのだ。


 地下室の冷たい空気が背筋を這い上がるたび、レイはこの出来事の異質さに再び直面させられた。 「普通の高校生活」——そんな言葉は、もはや遠い記憶の彼方に霞んでいる。


 レイの父は有名企業の経営者、母はかつて教師を務めていた。外から見れば誰もが羨むような家庭だ。

 しかし、実際には「受験を控えたレイの進路」が家族全体の重圧となり、見えない緊張感が家庭を覆っていた。


 特に母はそのプレッシャーを敏感に受け止めており、息子の将来がまるで一家の運命を握っているかのように感じていた。


 そんなある休日の夕暮れ——


「レイ! ちょっと来なさい!」


 階上から響いた母の声は、明らかに苛立ちを孕んでいた。

 レイはハッとして、思わず光から目を離した。


「ごめん! またあとで! 緊急の用事があるんだ!」


 叫ぶように返し、彼は駆け足で階段を上がると、そのまま玄関へと向かった。

 母の言葉を聞く余裕はもうなかった。

 頭の中に重くのしかかっていたのは、たった今知ってしまった“世界を揺るがす事実”だけだった。


 リビングでは、父が新聞を広げながら笑っていた。

 柔らかな照明の下で、新聞をパタパタとたたみながら——


「ハハハ! レイの奴、忙しそうだな!」


 肩をすくめるような仕草で軽く笑い飛ばすその姿には、どこか無関心な空気が漂っていた。

 母の顔は、それを見てさらに曇った。


 重苦しい空気がリビングに広がり、父の軽い口調がそれに拍車をかける。


「もう! そんな笑ってる場合じゃないのよ!? わかるでしょ!?」

 母の声は抑えきれない苛立ちを滲ませ、その目には怒りが鋭く宿っていた。


「まあ、確かにそうだけど……レイはレイで、色々あるんだよ、母さん」


 父は、なんとかその場を和らげようと、宥めるような口調で言った。

 だがその一言は、まるで火に油を注ぐかのように母の感情を逆なでしてしまった。

 母の表情が一瞬こわばり、次の瞬間には長く重たいため息が漏れる。

 父の無頓着な物言いが、母の中に積もっていた不安の層を静かに揺らし、見えない重荷をさらに加えていくのがはっきりと感じられた。


「あ、いや……次は、僕がちゃんと話すよ。直接、約束して。しっかり向き合うから」慌てて父が言い足した。

 自身の軽率さにすぐ気づき、妻の苛立ちが高まる前に、何とか事態を収めようとしたのだ。

 けれど彼自身もまた、家庭内に漂う張り詰めた空気に気づいていながら、それとどう向き合えばいいのか分からずにいた。

 その戸惑いは、父の表情や声色に微かに滲んでいた。


 母は深く息を吸い込み、短く「ほんと、お願いね」と返した。

 口調こそ少し和らいだが、その言葉の奥にはまだ苛立ちが残っていた。

 落ち着きを取り戻したようにも見えるが、胸の奥に渦巻く不安の影は消えず、リビングの空気には依然として重苦しさが漂っていた。

 言葉にされない問題がそこにあり続け、家族の間に静かに沈殿していた。


 ふと父が、何かを思い出したように口を開いた。

「そういえばさ……レイ、最近よく地下室に行ってるみたいだけど、あいつ何してるんだ?」


 無邪気ともいえるその問いかけには、息子の行動に対するささやかな好奇心が混じっていた。


 だが母は呆れたように眉をひそめ、夫に冷ややかな視線を向けた。

「何言ってるの? レイ、自分のルーツを調べる課題が学校で出たって、あなたに相談してきたじゃない。地下室にいろいろあるって、あなたが教えてあげたんでしょ?」


 その口調には、夫の記憶力を皮肉るような軽い苛立ちが含まれていた。

 母は小さくため息をつきながら、いつものように「家族のことは私が把握してるのよ」と言わんばかりの表情を浮かべた。


「ああ、そうだったな! ハハハ! そうか、あれか!」


 父は急に笑い出し、胸を張るような仕草で続けた。


「にしても、ずいぶん頻繁に行ってるよな。まあ、あいつの集中力はほんとすごいからな!」


 その声には、息子を誇る父親特有の無邪気さと、少し照れくさいほどの愛情がにじんでいた。


 母がふと何かを思い出したように目を見開いた。


「あっ、そうだ! 明日は会社の人たちとのホームパーティーじゃなかった!? 食材、全然足りてないのよ! スーパーまで連れてって!」


 焦り混じりの声に、父もはっとして立ち上がる。


「あっ、そうだったな!!」


 ドタバタと二人は家を飛び出していき、玄関のドアが乱暴に閉まる音が響いた。

 その瞬間、家の中はまるで何事もなかったかのように、しんと静まり返った。



 一方その頃、レイはすでに家を飛び出し、親友であるリヴィアの家へ向かっていた。


 夜風が肌を刺すように冷たい中、彼の心臓は激しく鼓動し、荒い息遣いが止まらない。

 家族の問題や受験のプレッシャーといった日常の悩みは、今や頭の片隅にもなかった。胸ポケットの中で揺れる微かな光――それが何を意味し、自分に何を求めているのか、レイにはまだ答えが見えていなかった。


 ただ一つだけはっきりと分かっていた。「もう、これまでの日常には戻れない」ということをその確信が彼の足を速め、迷いを振り払うように暗い街道を駆け抜けさせた。


 ようやくリヴィアの家にたどり着いたとき、レイの顔は青ざめ、手はかすかに震えていた。乱暴に扉を叩き、出てきたリヴィアを見るなり、彼は両手で彼女の肩をしっかりと掴んだ。


 その眼差しには押し殺した恐怖と焦燥が渦巻き、彼の唇は震えながら一言を吐き出した。


「世界が……変わってしまう。」


 その声は低く掠れ、まるで世界の終わりを告げるかのように重く響いた。


(……続く)


***

それは、たった一言の勇気が導いた出会い。

似た夢を語り合った、あの教室の午後。


レイとリヴィアの物語は、まだ始まったばかり。

やがて訪れる“特別課題”が、運命の扉を開くとも知らずに。


次回『無色の息吹(後編)』――


無垢な時間の中に潜む、歪みの兆し。

小さな選択が、世界を揺るがす序章になる。


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