デジタル×フェアリー

馳月基矢

#00 プロローグ

きみは、誰なんだろう?

 ディスプレイ越しに、彼を見つけた。


 呼ばれている、と感じたんだ。妖精持ちのあたしは特別に勘が鋭いから、聞こえないはずの声が、ときどき聞こえる。

 彼が呼んだんだ、と直感した。あたしは一歩、ディスプレイに近づいた。


 大きなディスプレイは、まるで窓だった。向こう側には、壁も天井も黒い、小さな部屋がある。

 彼はその黒い部屋の中に立って、こっちを向いていた。


 本物の人間の映像かと、最初は思った。それくらい、髪や服の質感にリアリティがあったし、ゆっくり首を動かしたりまばたきをしたりする動作も滑らかだった。

 でも、違う。これ、コンピュータ・グラフィックスだ。


 つるりとした肌は、まったく日焼けしていない様子で真っ白だ。部屋が暗いのに、肌の色が明るすぎて、彼自身が内側から輝いているみたいだった。

 美しい人、だと思った。

 同い年くらいの男の子に対して、美しいと思ったんだ。美しいなんていう言葉、今まで使ったこともなかったけれど。


 妖精のニーナが、まっすぐ彼のほうへ飛んでいこうとして、ディスプレイに突撃した。

「あ、ちょっと、ニーナ」

 止めるまでもなく、ディスプレイに突撃したニーナは、ぽふんと跳ね返された。無理もないか。ディスプレイに映った部屋の様子は、いかにも奥行きがあって本物っぽいから。


 ニーナは未練がましく、淡いピンク色の光を蛍みたいに明滅させて、ディスプレイのそばをさまよった。

 彼のまなざしがニーナを追った。まなざしとは言っても、目だけじゃなく顔全体の角度を変えながら、ニーナの光を追う。その動きは、人形っぽいというか、ぎこちないというか、何だか違和感があった。


 あたしは小首をかしげた。

 一体、彼は「何」?

 そう、あたしの胸には、「何」という疑問が起こっていた。彼は「誰」、ではなくて。


 ここは、計算室と父が呼ぶ、四畳半くらいの狭い空間だ。有機ELの大きなディスプレイが壁に貼られている。コンピュータの本体は右の壁際に、ありふれたデスクが左の壁際に置かれている。コンピュータの稼働音が、低く高く、鳴り続けている。


 あたしはときどき計算室に忍び込む。おもしろいものは何もない。ただ、コンピュータが唸っているだけ。その排熱が、エアコンでひんやりと保たれた空気を掻き混ぜている。

 何もないから、いいんだ。

 明かりも点けないまま、黙って一人で膝を抱えて、ニーナが淡いピンク色の光を放つのを眺める。そういう一人の時間のために、計算室はぴったりな場所だった。


 昔は、そうじゃなかった。計算室は、父と一緒にゲームをするための部屋。楽しい場所だったんだ。

 父の仕事が忙しくなって、ちょうどその頃から学校でも嫌なことが続くようになって、あたしはゲームを起動しなくなった。


 このディスプレイが計算室に設置されたのは、一年くらい前だっけ? あたしが高校に上がった頃だった気がする。

 ……気がする、けど、ちゃんとは覚えてないな。

 記憶は、できるだけしないようにって、決めているから。見ることも聞くことも、感覚をなるべく薄くしておく。そうじゃないと、あたし、生きていられないから。


「でも、いくら何でも、こんなの初めて見た。覚えてないんじゃなくて……」


 このディスプレイの中には、黒くて小さな部屋が映し出されているだけだった。誰もいなかったし、何もなかったはずなんだ。

 いつからディスプレイの中に彼がいたのか、わからない。でも、昨日とか今日とか、本当にごく最近からじゃないかなって、何となく思う。


 計算室のつけっぱなしのエアコンの設定温度は、摂氏二十度。乾いた空気が肌寒くて、あたしは少し震えた。


「ニーナ、おいで」

 あたしが呼ぶと、ニーナは素直に、ディスプレイのそばから戻ってきた。ニーナの淡い光を追いかける彼のまなざしも、一緒についてきた。


 目が合った。

 とくん、と、あたしの心臓が跳ねた。

 美しいって、また思った。


 誰、なんだろう?


 彼は目をそらさない。自分と向き合っている相手は誰なんだろうって、彼も思っているんだろうか。

 いや、でも、あたしのほうへ向けられている彼の目は、きれいに澄んだガラス細工みたいで、どこに焦点が合っているのかよくわからない。


「きみ……誰なの?」


 ニーナが、ぽんと肩に降り立つ。妖精特有のほのかな体温が頬に触れた。

 そのとき、彼の唇が動いた。思いがけず柔らかな性質の声がディスプレイから聞こえた。


「****************」


 声というより、音だった。言葉を発したんだろうとは感じ取れた。でも、彼が何と言ったのか、聞き分けられなかった。


「何? 何て言ったの?」


 あたしは一歩、ディスプレイに近づいた。

 その動きを見た彼が、また何か言った。そして動いた。

 一歩、下がる。一歩、戻ってくる。一歩、前に出る。

 動くたびに顔ごとうつむいて足下を見た。体の動きやものの見え方を、一つひとつ確かめるみたいだった。

 彼が、あたしのほうを向いた。唇を動かす。抑揚のない音声が、ぶつぶつと途切れながら発せられる。


「A・N・A・T・A・W・A・D・A・R・E・D・E・S・U・K・A」


 あなたは誰ですか?

 たぶん、彼はそう言った。言葉がひどく聞き取りづらいのは、母音と子音がばらばらに分かれているせいだ。学習を済ませていない人工音声ソフトのしゃべり方と同じだった。


 コンピュータのマイクは稼働しているんだっけ? あたしの声、届くのかな?

 確か、この有機ELディスプレイは、画面それ自体が音を扱う機構を備えているんだった。つまり、画面から音が出るし、画面がマイクにもなっている。


 彼の声が再び、あたしに届いた。

「A・N・A・T・A・W・A・D・A・R・E・D・E・S・U・K・A」


 あたしは答えた。

「一ノいちのせ円香まどか。マ・ド・カ」

「M・A・D・O・K・A」

「うん、マドカ。あたしはマドカ。きみは? きみの、名前は?」


 あたしは、ゆっくり言った。彼も、あたしと同じくらい、ゆっくり答えた。


「AITO」


 アイト。

 それが、ディスプレイの中の黒い部屋に住む彼の名前だった。

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