第11話:古びた万年筆
春の日差しが暖かく、街路樹の新緑が風にそよいでいた。冬の長い眠りから目覚めた町に、少しずつ活気が戻ってきている。
蒼太は黄昏堂の窓ガラスを磨きながら、季節の移ろいを感じていた。冬から春へ。変わるもの、変わらないもの。時の流れに身を任せながらも、彼の心の奥底には、まだ解き明かされていない記憶の欠片が眠っている。陽菜との約束。それは時に鮮明に、時にぼんやりと彼の心に浮かんでは消えていった。
風鈴の音が静かに響き、黄昏堂の扉が開いた。入ってきたのは、六十代後半くらいの男性だった。端正な顔立ち、きちんと整えられた白髪交じりの髪、落ち着いた雰囲気の紺色のジャケット。その佇まいには、長い人生を丁寧に生きてきた人特有の品格が感じられた。
「こんにちは。黄昏堂さんでしょうか」
声には少し緊張感が混じっていたが、穏やかな響きがあった。
「はい、いらっしゃいませ」
蒼太は布を置き、男性に向き合った。
「岩田純と申します。定年退職した元教師です」
岩田は軽く会釈し、店内を見回した。古い本棚、窓辺の小さな花、そして静かに時を刻む柱時計。彼の目は懐かしさと好奇心で少し輝いていた。
「どのようなご相談でしょうか?」
蒼太の問いかけに、岩田は少し言いよどみながら口を開いた。
「実は…ちょっと変わったことで」
彼はジャケットの内ポケットから、布に包まれた細長い物体を取り出した。慎重に布を開くと、そこには古びた万年筆が姿を現した。黒檀のような深い色の軸に、金色のペン先。使い込まれた跡はあるが、大切に扱われてきたことが伝わってくる品だった。
「この万年筆なのですが…」
岩田は少し間を置き、言葉を選ぶように続けた。
「書斎の整理をしていたら、引き出しの奥から見つかったんです。学生時代に使っていたものなんですが…」
彼は万年筆を手に取り、軽く回しながら見つめた。
「握ると、妙に胸がざわつくというか、何か書き残したことがあるような気がして落ち着かないんです」
蒼太は静かに頷いた。物に宿る記憶、あるいは触発される感情。それは時に人を不思議な気持ちにさせるものだ。
「書き残したこと…ですか」
「ええ。変な話ですよね」
岩田は少し照れたように笑った。
「でも、この万年筆を手にすると、どうしても昔のことが思い出されて…完成させなかった何かがあるような…」
柱時計が静かにチクタクと鳴る音だけが、しばらく店内に響いていた。
「岩田さんは、教師をされていたんですね」
「はい、国語です。高校で三十年以上教えていました」
「万年筆は、その頃から?」
「いいえ、もっと前です。大学生の頃、文学部だったので、よくノートをとったり創作したりしていました」
創作。その言葉に、蒼太は少し反応した。
「小説を書かれていたのですか?」
岩田の表情が少し明るくなった。
「ええ、学生の頃は文芸部に所属していて。小説家を夢見ていた時期もありました」
しかし、すぐにその表情は少し翳りを帯びた。
「でも、結局教師の道に進み…創作はいつしか遠ざかっていました」
蒼太は岩田の言葉の奥に、何か言い淀むものを感じた。
「よろしければ、その万年筆の思い出について、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか?」
岩田は少し考え込んだが、やがて穏やかに微笑んだ。
「そうですね。話すことで、何か分かるかもしれませんね」
---
岩田の記憶は、大学三年生の夏から始まった。文学部の学生だった彼は、文芸部の活動に熱心に取り組み、特に小説創作に情熱を注いでいた。
「この万年筆は、当時の恩師からもらったものです。『君の言葉は価値がある』と言って」
岩田はそう語りながら、万年筆を優しく撫でるように触れた。
「当時、私は初めての恋愛小説を書いていました。自分の経験をもとにした…」
彼の目は遠くを見ているようだった。
「和子さんという同級生がいたんです。文学部で一緒で…私にとっては、初恋と言ってもいい人でした」
蒼太は静かに頷き、岩田の言葉に耳を傾けた。
「彼女も文学が好きで、よく一緒に図書館で勉強したり、読書会に参加したり。二人で散歩しながら、文学談義をしたこともありました」
岩田の表情には、懐かしさと共に、どこか切なさも混じっていた。
「でも、私は臆病で…真剣な告白ができないままでした。代わりに、彼女がモデルの小説を書き始めたんです。その小説で、言葉にできない想いを伝えようと」
蒼太は、物語に託された想い、という言葉の力について考えた。時に、直接伝えられないことを、創作を通して表現することがある。それは逃避なのか、それとも別の形の勇気なのか。
「その小説は、完成したんですか?」
岩田は首を横に振った。
「いいえ、完成間近だったのですが…」
彼の声が少し沈んだ。
「和子さんが突然、病気で遠くへ転校することになってしまったんです。当時は今のように簡単に連絡が取れる時代ではなくて…」
別れは突然だった、と岩田は続けた。和子さんの父親の仕事の都合で、家族で九州へ引っ越すことになったのだ。彼女は体調を崩していたが、それでも移動しなければならなかった。別れ際、岩田は自分の書きかけの小説のことを話し、「完成したら読んでもらいたい」と約束した。
「住所は教えてもらったんですが、なぜか手紙を書くことができなくて。小説も、彼女がいなくなったショックで、書く気力がなくなってしまって…」
岩田の目に、かすかな後悔の色が浮かんでいた。
「その後、教員養成課程に進み、教師になり…家庭も持ち…」
人生は前に進み、初恋の記憶も、未完の小説も、しまい込まれていった。万年筆も、いつしか使わなくなり、引き出しの奥へ。
「でも、最近になって急に思い出したんです。定年退職して、時間ができたからかもしれません。書斎を整理していたら、この万年筆が出てきて…」
岩田は深いため息をついた。
「握ると、あの時の気持ちが鮮明に蘇ってくるんです。和子さんのこと、書きかけの小説のこと…まるで、『書き終えなさい』と言われているような…」
蒼太は思案顔で、しばらく黙っていた。そして、静かに尋ねた。
「その書きかけの小説は、まだ残っているんですか?」
岩田は少し明るい表情になった。
「ええ、古いノートに書いたものですが、ちゃんと保管していました。実は、今朝も読み返してみたんです」
「そのノートを見せていただくことはできますか?」
「ええ、もちろん。家に置いてきましたが…」
「よろしければ、一緒に取りに行きましょうか」
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岩田の家は、閑静な住宅街にある二階建ての一軒家だった。庭には手入れの行き届いた花々が咲き、小さな藤棚もある。落ち着いた暮らしぶりが伝わってくる住まいだった。
「どうぞ、お上がりください」
岩田に導かれ、蒼太は家の中へと入った。玄関から続く廊下には、家族写真がいくつか飾られている。笑顔の女性と、成長していく子どもたちの姿。充実した家庭生活を送ってきたことが伝わってきた。
「妻は三年前に亡くなりました。子どもたちはもう独立していて…今は一人暮らしです」
岩田は少し寂しそうに言った。
「書斎はこちらです」
二階の一室は、本棚が壁一面に並ぶ書斎だった。窓からは庭の藤棚が見え、柔らかな春の日差しが部屋を明るく照らしていた。机の上には原稿用紙と筆記具が整然と並び、長年教師として言葉に向き合ってきた人の空間という雰囲気が漂っていた。
「ノートはここに…」
岩田は本棚の一角から、古びた革表紙のノートを取り出した。ページの端はすでに黄ばんでいるが、表紙の手触りは今でも良い革の質感を残していた。
「『夏の終わりに』…学生時代に考えたタイトルです」
岩田はノートを開いた。そこには若き日の彼が、万年筆で丁寧に書いた文字が並んでいた。青年の初恋と、夏の終わりの別れを描いた物語。確かに完成までもう少しという所で中断されていた。
蒼太はノートを受け取り、静かに読んでいった。素朴だが誠実な言葉で紡がれた物語には、初々しい感情が溢れていた。そして、最後のページには「続く」と書かれ、そこで筆が止まっていた。
「文章が、本当に丁寧ですね」
「恥ずかしいですよ。若かった…」
岩田は照れくさそうに言ったが、どこか誇らしげでもあった。
「和子さんとは、その後連絡は?」
「いいえ…」
岩田は窓の外を見つめた。
「若気の至りで、一度も手紙を出さなかったんです。そのうち連絡しようと思っているうちに、時間だけが過ぎて…」
彼の声には後悔が滲んでいた。
「それに、私はその後別の人と出会い、結婚しました。妻とは本当に幸せな時間を過ごしましたから…和子さんのことは、青春の思い出として心の中にしまい込んだんです」
蒼太は頷いた。人生には様々な選択があり、その一つ一つが今の自分を形作っている。岩田は素晴らしい家庭を築き、教師として多くの生徒に影響を与えてきた。それでも、心の片隅には「もし、あの時」という思いが残っているのだろう。
「小説を読んでいると、当時の想いが鮮明に蘇ってきて…」
岩田は万年筆を手に取った。
「この万年筆で書いた言葉が、今も生きているような気がするんです」
蒼太はふと、ある考えが浮かんだ。
「岩田さん、その小説を完成させてみませんか?」
岩田は驚いたように目を見開いた。
「今から? 五十年近く経った今から?」
「はい。万年筆が『書き終えなさい』と言っているように感じるのは、そういうことなのかもしれません」
岩田は万年筆を見つめた。そして、迷いながらも、少し笑みを浮かべた。
「でも、どうやって終わらせたらいいのか…もう昔の感覚は戻らないでしょう」
「無理に昔の自分に戻る必要はありません。今の岩田さんが、あの時の想いに決着をつける。それでいいのではないでしょうか」
柱時計が静かにチクタクと鳴る音と共に、部屋に沈黙が広がった。岩田は考え込んでいたが、やがて決心したように顔を上げた。
「試してみます」
---
それから数日後、岩田は完成した小説を持って黄昏堂を訪れた。
「おかげさまで、書き上げることができました」
彼の表情は晴れやかで、何か重荷から解放されたような軽やかさがあった。
「読ませてもらってもいいですか?」
「ぜひ。実は、驚くべきことが起きたんです」
蒼太は岩田から差し出されたノートを開いた。そこには、五十年の時を超えて書き継がれた物語があった。前半は若き日の岩田の筆致、そして後半は円熟した今の彼の文体。しかし不思議と違和感なく、一つの物語として完結していた。
物語の結末は、二人が別れた後、それぞれの人生を歩みながらも、お互いの記憶の中で成長していく様子が描かれていた。そして最後は、老年になった二人が偶然再会し、互いの人生を祝福するという優しい締めくくりだった。
「素晴らしいです」
蒼太は心からそう言った。初々しい青春の物語が、人生の知恵と優しさで完結していた。
「実は、書き終えた次の日のことなんです」
岩田の表情が少し興奮を含んだものになった。
「突然、大学の同窓会の案内が届いたんです。五十周年記念だそうで…」
彼は封筒を取り出した。そこには同窓会の案内と、参加予定者のリストが入っていた。そのリストの中に、「田村和子(旧姓:佐藤)」の名前があった。
「和子さんが参加するかもしれないんです」
岩田の声には、驚きと期待と、少しの緊張が混じっていた。
「小説を完成させた翌日に、こんな偶然が…」
蒼太は微笑んだ。偶然か、それとも何か別の力が働いたのか。だが、大切なのはその結果だろう。
「同窓会、行かれますか?」
「ええ、行くつもりです。でも…」
岩田は少し迷いがちに言った。
「小説のことは言わないと思います。ただ、元気にしていたかを聞いて、昔話でも…」
彼は照れくさそうに笑った。少年のような表情が、年齢を超えて浮かんでいた。
「ただ、この小説は大切に保管しておきます。私の中での、初恋への決着として」
蒼太は頷いた。
「万年筆の感触は?」
「不思議なことに、すっかり落ち着きました。もう、あの胸のざわつきはありません」
岩田は万年筆を取り出した。
「でも、これからも大切に使っていくつもりです。いい万年筆ですから」
二人は穏やかな笑顔を交わした。
---
同窓会の日、岩田は少し緊張しながらも、会場へと向かった。髪型を整え、お気に入りのネクタイを締めて。まるで学生時代に戻ったような、不思議な高揚感があった。
会場には、半世紀ぶりに再会する同級生たちの姿があった。年を重ねた顔は皆違っていたが、笑顔の中に若かりし日の面影を見ることができる。
そして、その人混みの中に、一人の女性がいた。昔は長かった黒髪は今や短く整えられた白髪となり、少女のようだった顔立ちは大人の女性の落ち着きを帯びていた。しかし、その目の優しさは、岩田の記憶の中の和子そのものだった。
「和子…さん?」
岩田が恐る恐る声をかけると、女性はゆっくりと振り返った。
「あら、岩田くん?」
二人の間に流れた時間は、一瞬にして溶けた。五十年の歳月を超えて、二人は昔を懐かしむように微笑み合った。
「元気にしていましたか?」
「ええ、おかげさまで」
ぎこちない会話から始まり、徐々に打ち解けていく。和子は九州で教師になり、結婚し、二人の子どもを育て上げたこと。夫は五年前に亡くなったこと。そして今は、地元の図書館でボランティアをしていることなどを話した。
「岩田くんは? 作家になったの?」
彼女の質問に、岩田は少し驚いた。
「いいえ、教師になりました。国語を」
「そう。でも、あなたの書く小説、好きだったわ」
和子の言葉に、岩田の心が温かくなった。彼女は覚えていてくれたのだ。
「あの…実は」
言いかけて、岩田は言葉を飲み込んだ。小説のことは言わないつもりだったのに。しかし、和子の優しい眼差しに背中を押されるように、彼は続けた。
「あの時書いていた小説、最近になって完成させたんです」
「まあ、本当に?」
和子の目が輝いた。学生時代の彼女そのままの、好奇心に満ちた表情だった。
「ええ。もう、人に見せられるようなものではありませんが…」
「読みたいわ」
単純な言葉だったが、その一言が岩田の心を大きく揺さぶった。五十年前に果たせなかった「読んでもらいたい」という想い。それが今、叶おうとしていた。
「よろしければ…」
言葉と共に、岩田はジャケットの内ポケットから、小さな封筒を取り出した。中には、完成した小説をコピーしたものが入っていた。万が一、和子に会えたら…という密かな期待を胸に、用意していたものだった。
和子は驚いたように目を見開いたが、すぐに優しく微笑み、封筒を受け取った。
「ありがとう。大切に読むわ」
二人は、その後もしばらく昔話に花を咲かせた。青春の日々、文学部での思い出、共通の友人たちのこと。時間は瞬く間に過ぎていった。
別れ際、和子は岩田に小さな紙袋を手渡した。
「これ、持っていてほしいの」
中には、一冊の本が入っていた。『風と樹の詩』という題名の小説。
「私の宝物なの。いつも持ち歩いていたの…あの頃」
和子の目には、かすかな涙が光っていた。岩田も同じように、感情に揺さぶられているのを感じた。
「ありがとう」
それ以上の言葉は必要なかった。二人は静かに別れた。もう二度と会わないかもしれないし、またどこかで会うかもしれない。しかし、この瞬間だけは確かに、五十年の時を超えて二人の心が触れ合った。
---
数日後、岩田は再び黄昏堂を訪れた。
「どうでしたか、同窓会は?」
蒼太の問いかけに、岩田は穏やかな笑顔で答えた。
「素晴らしい時間でした。和子さんにも会えました」
彼の表情には、清々しさがあった。まるで長い旅から戻ってきたような、安堵と満足感に満ちていた。
「小説も渡せたんですか?」
「はい。そして、彼女からも本をもらいました」
岩田は『風と樹の詩』を取り出した。
「彼女の宝物だったそうです。不思議なことに、私が初恋の記憶を形にしようとしていた頃、彼女もこの本に心を寄せていたなんて…」
蒼太は微笑んだ。本と万年筆、二つの「もの」を通じて繋がった過去と現在。形のない想いが、有形のものによって橋渡しされる瞬間に立ち会えたことを感謝した。
「万年筆はどうされますか?」
「これからも大切に使っていくつもりです」
岩田は万年筆を取り出し、光に透かして見た。
「もう物語を書くことはないかもしれませんが、日記を始めようと思っています。残りの人生を、丁寧に言葉で記していきたくて」
彼の声には、新たな決意と穏やかな希望が滲んでいた。
「実は…和子さんと文通することになりました」
岩田は少し照れくさそうに続けた。
「年賀状だけでも、と思ったのですが、彼女から『手紙を書きましょう』と言ってくれて…」
蒼太は心から祝福の言葉を述べた。五十年の時を経て、新たな形でつながる二人の物語。それは、決して青春時代のやり直しではなく、人生の円熟期に花開いた別の種類の関係性だった。
「ありがとう」
岩田は深々と頭を下げた。
「黄昏堂に導かれたおかげで、長年の後悔に決着をつけることができました」
蒼太は静かに頷いた。そして、岩田が去った後、窓辺に立って春の夕暮れを眺めた。
柱時計が六時を告げた。チーンという音色が、いつもより少し明るく響くように感じられた。
蒼太は陽菜の写真を取り出し、静かに見つめた。果たされなかった約束、伝えられなかった気持ち。それらは必ずしも取り返せるものではないかもしれない。しかし、過去と向き合う勇気があれば、新たな理解や受容の形があるのかもしれない。
「いつか僕も…」
蒼太は窓辺に立ったまま、春の夕暮れが深まっていくのを見つめていた。窓の外では、街灯が一つ、また一つと灯り始め、夜の訪れを告げていた。
黄昏堂追憶奇譚 〜路地裏の忘れもの〜 セクストゥス・クサリウス・フェリクス @creliadragon
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