第2話:忘れられない味
「よろず相談・黄昏堂」の扉が開いたのは、夕焼けが古い商店街の屋根を赤く染め始めた頃だった。
「すみません、開いてますか?」
入り口に立っていたのは、六十代半ばといったところの男性だった。きちんとアイロンのかかったシャツに清潔なスラックス、整えられた白髪と穏やかな眼差し。しかし、その表情には何か落ち着かない影が見え隠れしていた。
「はい、どうぞ」
蒼太は男性を店内に招き入れた。
「田中幸一と申します。この近くの地域活動センターでボランティアをしているんですが…」
田中は差し出された椅子に腰を下ろしながら、少し戸惑ったように店内を見回した。
「ここは…何でも相談に乗ってくれると聞いたものですから」
「はい、できる範囲でお力になります」
蒼太は静かに応えた。実際のところ、黄昏堂が何をする店なのか、彼自身もよくわかっていなかった。祖母が残した「人の悩みを聞きなさい」という言葉だけを頼りに、彼はこの古い店を継いでいた。
「実は…」
田中は言いよどみ、少し苦笑した。
「なんだか馬鹿げた相談かもしれないんですが…思い出の味が再現できなくて」
蒼太は黙って頷き、田中の言葉を待った。
「妻を三年前に亡くしてから、自分で料理するようになったんです。最初は惨めなものでしたよ」
田中は少し照れたように笑った。その笑顔の奥に、妻を失った寂しさがまだ残っているのが見えた。
「でも、最近はだいぶ上達して、簡単な和食なら作れるようになりました。ただ、どうしても再現できない味があるんです」
「再現できない味…ですか?」
「ええ。子供の頃に食べた母の肉じゃがの味です」
田中の目が遠くを見るように細められた。その瞳には、遠い記憶の景色が映っているようだった。
「何度作っても、母の味にならないんです。高級な肉を使っても、レシピ本を見ても…あの懐かしい味が蘇らなくて」
田中の声には、単なる料理の失敗を嘆く以上の何かがあった。懐かしさと共に、どこか切なさのようなものが混ざっていた。
「私の母は私が中学生の時に亡くなりました。もう五十年近く前のことです。だから記憶も曖昧で…でも、あの肉じゃがの味だけは、今でも舌の上に残っているんです」
蒼太は黙って頷きながら、カウンターの下から古い紙のノートを取り出した。祖母が使っていたレシピノートだ。
「良かったら、もう少し詳しく教えていただけますか? お母様の肉じゃがについて、覚えていることを」
田中はしばらく考え込み、ゆっくりと記憶を手繰り寄せるように話し始めた。
「そうですね…母の肉じゃがは、特別なことはなかったと思います。普通の材料で、でも何とも言えない優しい味でした。甘さと塩気のバランスが絶妙で…」
田中は言葉を選びながら続けた。
「よく覚えているのは、いつも夕方に母が作り始めると、家中に染み渡るような良い匂いがしたこと。学校から帰ってくると、もうその匂いだけで心が和みました」
その言葉に、蒼太の中にも幼い頃の記憶が蘇った。祖母が台所に立つ姿。窓から差し込む夕日に照らされた祖母の背中。そして、優しく漂うだし汁の香り。
「田中さんのご家庭は、その頃、どんな暮らしをされていたんですか?」
田中は少し意外そうな表情を見せたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべた。
「貧しかったですよ。今の若い人には想像できないかもしれませんが。父は工場勤務で、給料は安かった。母は専業主婦でしたが、内職もしていました」
彼の語る幼少期は、物質的には恵まれなかったが、家族の絆は強く、特に母親の愛情に満ちた家庭だったようだ。
「母は本当に工夫上手でした。限られた材料でいつも美味しい料理を作ってくれて…」
田中の目に、懐かしさと共に微かな湿り気が浮かんだ。
蒼太は祖母のレシピノートをめくりながら、ふと柱時計に目をやった。いつものチクタクという音が、わずかに遅れたような気がした。あるいは気のせいかもしれない。
「少し調べてみますね。もしよろしければ、また数日後にお越しいただけますか?」
田中は感謝の言葉を述べ、店を後にした。その背中には、何かを待ち望む期待と、同時に不安が混じり合っているように見えた。
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翌日から、蒼太は田中の「忘れられない味」の謎に取り組み始めた。
まず彼は、祖母の残した古い料理本や雑誌を調べた。昭和三十年代頃の肉じゃがのレシピは基本的に現代と同じだが、使われる材料や調味料の質、量には違いがあることがわかった。
しかし、それだけでは田中の記憶にある「特別な味」は説明できない。蒼太は更に調査を進め、地域の郷土史や食文化に関する資料を探し始めた。
三日目、蒼太が地域の歴史資料館を訪れた時だった。
「戦後の食糧難時代の記録ですか?」
年配の女性館長は、少し懐かしそうに蒼太を見た。
「あなたのような若い方が、そんなことに興味を持ってくれるなんて珍しいわね」
館長の案内で、蒼太は古い資料の山に埋もれた。そこには、戦後の食糧難の時代に、人々がどのように工夫して食事を作っていたかの記録があった。
特に目を引いたのは、「代用食」についての記述だった。
「代用肉じゃが…」
蒼太は小声で呟いた。資料によれば、肉が手に入らない時代、多くの家庭では様々な代用品を使って「肉じゃが風」の料理を作っていたという。
大豆や野菜くずを細かく刻んで肉の代わりにしたり、ラードや魚の煮汁で旨味を出したり。その工夫は家庭によって様々だったが、どれも「限られた材料で家族を満足させる」という母親たちの愛情から生まれたものだった。
その瞬間、遠くから微かに聞こえるような気がした。チーン…と、黄昏堂の柱時計の音が。もちろん、資料館にいる蒼太の耳に届くはずはない。それでも彼は確かに聞いた気がした。それは「真実に近づいている」という合図のようだった。
蒼太の心に、ある考えが浮かび上がってきた。同時に、祖母の顔が脳裏によみがえる。「蒼太、料理は材料じゃない。心なんだよ」。幼い頃、彼が粗末な食事に不満を漏らした時、祖母はそう諭したものだった。両親を失って間もない頃、つらい気持ちを抱えた彼を、祖母は質素ながらも心のこもった料理で慰め、育てたのだ。
次に彼が訪れたのは、商店街の奥にある小さな食料品店だった。店主の老婆は九十歳近いが、まだ店を切り盛りしており、この地域の生きた歴史そのものだった。
「まぁ、蒼太くん。珍しいね」
おばあさんは蒼太を見るなり、親しげに声をかけた。
「戦後の料理について聞きたいんですが」
蒼太が尋ねると、おばあさんは目を細めて懐かしそうに微笑んだ。
「ああ、あの頃ねぇ。何もなかった時代だよ。でも、知恵はあったよ」
おばあさんの話は、資料館で見つけた記録を鮮やかに彩るものだった。肉の代わりに使った大豆や野菜、砂糖の代わりに使ったサツマイモの甘さ、醤油を薄めて使う工夫など。
「料理は材料じゃないよ」
おばあさんは笑いながら言った。
「愛情だよ。限られた中で最高のものを作ろうとする、その心がね」
蒼太はじっと聞き入った。その言葉は、かつての祖母の言葉と重なり、胸に沁みた。料理に込められた愛情の力。それは彼自身が経験してきたものでもあった。祖母の作る質素な食事が、どれほど彼の心を温めてくれたか。両親の不在という大きな穴を、祖母の温かい味が少しずつ埋めていってくれたことを、蒼太は改めて思い出していた。
そして最後に、一つの質問をした。
「『肉じゃが風』の料理で、何か特別な工夫はありましたか?」
おばあさんはしばらく考え込み、そして思い出したように言った。
「そう言えばね、肉の代わりに使う大豆を、前の日からよく煮込んでおくんだよ。それから、隠し味に…」
蒼太が熱心にメモを取っていると、店の古い壁時計の音が、一瞬だけ響き渡った。チーン。その音は黄昏堂の柱時計に似ていて、蒼太は思わず顔を上げた。店のおばあさんは気づいていないようだったが、蒼太にはそれが「大切なことを聞いた」という印だと感じられた。
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一週間後、田中が再び黄昏堂を訪れた。店に入ってくる彼の姿に、蒼太は強い既視感を覚えた。それは彼自身が幼い頃、祖母に手を引かれて行った、亡き両親の墓参りの帰り道を思い出させた。その時の彼も、田中のように何かを求めるような、しかし得られるかどうか不安な目をしていたのだろうか。
「何かわかりましたか?」
彼の声には、期待と不安が混じっていた。
蒼太はゆっくりと頷いた。
「田中さん、実は肉じゃがについて、興味深いことがわかりました」
蒼太は調査で得た情報を、少しずつ田中に伝えた。戦後の食糧難の時代のこと、代用食の工夫のこと、そして…
「もしかしたら、田中さんのお母様が作られていた肉じゃがは、実は『代用肉じゃが』だったのかもしれません」
田中は驚いたように目を見開いた。
「代用…肉じゃが?」
「はい。当時、多くの家庭では肉が手に入らない時代でした。特に田中さんがおっしゃったような、まだ高度経済成長期の前なら…」
蒼太はそれ以上言葉を続けなかった。田中の表情が、驚きから混乱、そして何かを思い出すような懐かしさへと変わっていくのを見ていた。
「そうか…」
田中の声は小さく震えていた。
「だから再現できなかったんだ。私は本物の肉で作ろうとしていたけれど、母は…」
彼の言葉が途切れた。
蒼太は静かに立ち上がり、奥の小さなキッチンに向かった。そこには既に準備してあった鍋があり、中からは懐かしい香りが漂っていた。
「田中さん、もしよろしければ…」
蒼太は小さなお椀に盛った「代用肉じゃが」を、そっと田中の前に置いた。
「これは、古い資料と地域の方々の記憶を元に再現してみたものです。本当の味かどうかはわかりませんが…」
田中は震える手でスプーンを取り、一口含んだ。
その瞬間、彼の目から涙がこぼれ落ちた。
「これだ…」
震える声。
「この味だ…」
田中は言葉を詰まらせ、肩を震わせて泣き始めた。それは老人の弱々しい泣き方ではなく、まるで子供のような、抑えようのない感情の噴出だった。
「母さん…母さん…」
彼は何度もその言葉を繰り返した。その声には、五十年の時を超えた母への想いがあふれていた。
蒼太は黙って見守った。やがて田中の泣き声が収まると、彼は顔を上げ、蒼太に向かって深々と頭を下げた。
「ありがとう…本当にありがとう」
田中の顔には、まだ涙の跡があったが、同時に穏やかな微笑みも浮かんでいた。
「私は、記憶の中の味を求めて、高級な肉や材料にこだわっていました。でも、本当は…」
彼は言葉を探すように少し間を置いた。
「本当は、母の愛情の味だったんですね」
蒼太はそっと頷いた。
「あの時代、お母様は限られた材料の中で、最高の味を作ろうとされたんだと思います。それは本物の肉じゃがではなかったかもしれませんが、田中さんへの深い愛情が込められていたんでしょう」
田中は小さく笑った。その表情には、長年の疑問が解けた安堵と、母への新たな理解が混ざり合っていた。
「母は、私に『これは美味しい肉じゃがよ』と言って、誇らしげに出してくれたんです。肉がなくても、私に最高のものを食べさせたいという気持ちから…」
彼は再び感極まったように目を閉じた。
「母さん、ずっと美味しい肉じゃがをありがとう…」
蒼太は、肉じゃがの入った小さな容器を田中に渡した。
「よかったら、持ち帰ってください。これからは、ご自分でも作れますよ」
田中は感謝の言葉を述べ、その容器を両手で大切そうに抱えた。まるで宝物を手にしたかのように。
彼が帰った後、蒼太はぼんやりと店の窓から夕焼けを眺めていた。
食べ物の味には、材料だけでなく、作り手の想いや記憶、時代の空気までもが含まれている。だからこそ「忘れられない味」になるのだろう。
蒼太は、自分自身の「忘れられない味」に思いを馳せた。祖母の作ってくれた味噌汁。それは、失った両親の代わりに祖母が注いでくれた愛情の味だった。
柱時計が七時を告げた。チーンという音色が、静かな店内に響いた。
蒼太はふと、「忘れられない味」を求めるのは、単に過去の味を再現したいからではなく、その味に込められた愛情をもう一度感じたいからなのだ、と気づいた。
だから田中は泣いたのだ。五十年前の母の愛情を、再び味わうことができたから。
黄昏堂の窓から見える夕焼けが、徐々に深い紺色へと変わっていく。優しい母の愛と、切ない記憶の味が、静かな夕暮れの中に溶け込んでいった。
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