黄昏堂追憶奇譚 〜路地裏の忘れもの〜
セクストゥス・クサリウス・フェリクス
第1話:届けられなかった花束
夕焼けが古い煉瓦造りの建物に橙色の光を投げかけ始める頃、「よろず相談・黄昏堂」の戸口の風鈴が微かに鳴った。一瞬、風のせいかと思ったが、そこには一人の女性が立っていた。
「あの、すみません…開いてますか?」
戸口に佇む彼女は二十代後半といったところか。派手さのないスーツ姿は少しくたびれていて、肩を落とした疲れた表情をしていた。けれど、その手に抱えた白い百合の花束だけは、夕暮れの中で不思議と輝いていた。まるで、彼女から滲み出る悲しみを優しく照らすかのように。
「ええ、どうぞ」
蒼太は相手の顔をまっすぐに見ることができないまま、そう応えた。人と目を合わせることが苦手な彼の癖だったが、それ以上に、この女性の目に宿る深い悲しみに圧倒されていた。あの目を直視すれば、彼女の心の痛みが波のように自分に押し寄せてくるような気がした。
祖母はいつも言っていた。「蒼太は、人の心の傷を自分のことのように感じすぎる子なんだ」と。それは褒め言葉なのか、それとも憐れみだったのか。蒼太にはよくわからなかった。ただ、目の前の女性の心の痛みが、既に彼の胸を締め付け始めていることだけは確かだった。
「あなたが…黄昏堂の?」
「はい、
女性は腰かけるようにと勧められた椅子に座り、膝の上に花束を置いた。その指先が微かに震えているのが見えた。
「私、佐々木美佳といいます。あの…実は特に用事があるわけじゃないんです。ただ…」
美佳は言葉を切り、店内を見回した。古い木の棚、埃っぽい本の匂い、そして隅に置かれた古びた柱時計。時計はチクタクと静かに音を立てながら時を刻んでいた。その音が、静かな店内でふたりの間に流れる時間をより鮮明に感じさせた。
「毎年この日は、ここを通るんです。でも今日は…なんだか立ち止まりたくなって」
美佳の声は小さく、どこか上の空だった。まるで彼女の半分は今ここにいるが、もう半分はずっと過去に取り残されたままであるかのように。蒼太はカウンター越しに彼女を見ながら、黙って頷いた。強いて質問を重ねたりはしない。それが黄昏堂のやり方だった。
「今日は…元恋人の命日なんです」
美佳は花束の百合に触れながら、ようやく語り始めた。四年前、元恋人の健太が交通事故で亡くなったこと。それ以来毎年、命日に白い百合を持って墓参りに行くこと。墓前で立ちすくんでしまうこと。
「でも、いつもお墓の前に立つと、声が出なくなるんです。『これで良かったのかな』って思って…」
美佳の声は震え、途切れた。そのか細い声に、四年分の後悔と罪悪感が詰まっていた。
「私のせいじゃないかって…」
震える声で、彼女は思いがけない言葉を
突然、蒼太の脳裏に一瞬の光景が走った。雨の中を走る少女の後ろ姿。「待って!」と叫ぶ自分の声。そして突然の轟音。
蒼太は目を強く閉じ、その断片的な記憶の欠片を振り払った。今はこの女性のことに集中しなければ。
「佐々木さん…」
「もう少し、お話を聞かせていただけますか?」
蒼太は静かに尋ねた。美佳は少し驚いたような表情を見せたが、やがて小さく頷いた。その目には、長い間口にしたくても言えなかった思いを、やっと誰かに話せるという
---
「健太とは大学のサークルで知り合いました」
美佳の言葉は、まるで古い写真アルバムをめくるように、徐々に過去へと遡っていった。同じ文学サークルで知り合い、いつしか恋に落ち、卒業後もずっと一緒だった日々。彼女の表情は、思い出話をするうちに少しずつ柔らかくなっていった。しかし、そのぬくもりは、これから語るべき悲劇を前に、余計に痛々しいものに見えた。
「あの日は…私の誕生日でした。健太から『夕方には必ず会いに行く』って連絡があって、待ってたんです。でも…来たのは警察からの電話でした」
美佳の目から一筋の涙が流れた。それは四年の間、何度も何度も繰り返された涙の跡をなぞるように静かに頬を伝った。
「横断歩道を渡っている時に、トラックが…。病院に着く前に…」
美佳の語る事故の詳細は断片的だった。蒼太は黙って頷きながら聞いていたが、彼の頭の中では美佳の言葉が映像となって展開していた。雨の日の横断歩道。スピードを出したトラック。身体を吹き飛ばされる青年。道に散らばる何か。警察の電話を受ける震える手。それらの映像が、蒼太の脳裏に次々と浮かび、そして消えていく。
「でも、それだけじゃないんです」
美佳が顔を上げた。その目には、今まで抑えていた感情が溢れていた。
「あれは…私の誕生日だったから。私が『会いたい』って言ったから。健太は急いで来ようとして…もし私が言わなかったら、健太は今も…」
彼女は言葉を詰まらせ、両手で顔を覆った。しかし、その指の間からは涙が溢れ出し、止めどなく流れ続けた。
蒼太は自分の胸が締め付けられるような思いになった。美佳の自責の念が、まるで実体を持った波のように彼に押し寄せてきた。健太の死が自分のせいだと思い込み、四年もの間、その罪悪感を抱えてきた彼女の痛みが痛いほど伝わってきた。
蒼太は再び、断片的な記憶の閃光に襲われた。少女の名前を呼ぶ自分。振り向かない彼女。そして交差点での大きな衝撃。次の記憶は病院のベッド。「
「だから…僕にも分かるんです」
蒼太は、思わず言葉にしていた。美佳は涙の向こうから彼を見つめた。
「人を失った後の、あの『もし自分が』という思いが、どれほど心を蝕むか」
蒼太はそれ以上は語らなかった。言いかけて止めた言葉の重みが、かえって部屋の空気を満たした。
「佐々木さん、僕にできることがあれば」
蒼太は思い切って言った。普段なら決して口にしないような積極的な申し出だった。しかし、美佳の持つ「自分のせいで大切な人を失ってしまった」という思いは、彼自身の心の傷と重なり、黙っていられなかった。
「本当に…よろしいですか?」
美佳は涙に濡れた顔を上げ、蒼太を見つめた。その目には、微かな希望の光が灯っていた。
---
初めに蒼太が訪れたのは、事故現場だった。平凡な住宅街の交差点。特に危険な場所には見えない。しかし、蒼太がその場に立つと、微かな違和感が胸をよぎった。何かがここに残っている。言葉にならない感情の
「あの若い人の事故ですか」
声をかけてきたのは、近くの小さな八百屋の年配の女性だった。
「あの日はね、雨が降ってたのよ。私、丁度店の前で雨戸を閉めようとしてたから、はっきり見えたの。可哀想に、お花が道に散らばってて…」
女性の言葉を聞きながら、蒼太は事故の瞬間を鮮明に想像していた。雨で滑りやすくなった道。見通しの悪い交差点。健太の姿。そして…
「花束…落ちてましたか?」
「ええ、きれいな青い花が特に印象的でした。珍しい色だから。全部ぐちゃぐちゃになってたけど…」
蒼太の心に、ある確信が芽生えた。
地元新聞社のアーカイブで事故記事を探す手は、ほとんど絶望的だった。蒼太は薄暗い資料室で、古い新聞を一枚一枚めくっていく。埃っぽい紙の匂いが鼻をつき、黄ばんだページは触れるたびにかすかな音を立てた。窓から差し込む午後の光に、舞い上がった埃の粒子が金色に輝いている。
やがて見つけたのは、わずか数行の記事だけ。
「23歳男性、西村健太さん。青信号で横断中にトラックにはねられ死亡」
蒼太は言葉を失った。誰かの人生の終わりが、こんな無機質な一行に縮められてしまう。この文字の向こうには、健太という人の笑顔も、夢も、美佳への想いも、何一つ見えてこない。
「陽菜のことも…こんな風に書かれていたのかな」
思わず呟いた言葉が、ひっそりとした資料室に吸い込まれていく。
資料室を後にした蒼太は、古びた街灯の下でしばらく立ち止まった。初夏の夕方だというのに、空気には冷たさが残っていた。彼は深く息を吸い込み、路地裏の匂いを感じる。油と湿った石の匂い。そして遠くから聞こえてくる商店街の喧騒。この街の日常は、美佳の止まった時間とは無関係に流れ続けていた。
この調査が、単なる「依頼」を超えた何かに変わりつつあることを、蒼太は感じていた。美佳の痛みは、彼自身の傷と重なって、胸の奥で鈍く疼いていた。
「青い花…」
蒼太は足を動かし始めた。美佳の話と八百屋の女性の証言に出てきた「花」。特に「青い花」という言葉が、何かを告げているようだった。
直感に従って、蒼太は足早に事故現場付近の花屋を訪ね歩いた。一軒、二軒と当たりが外れ、降り始めた小雨に肩を濡らしながら、三軒目の小さな花屋「フルールの風」にたどり着いた。
花屋に入ると、季節の花々の香りが蒼太を包み込んだ。薔薇やカーネーション、ユリの甘い香りが混ざり合い、湿った土の匂いとともに鼻腔をくすぐる。店内は花々が放つ微かな色彩で満たされ、灰色の雨の日に鮮やかな対比を作り出していた。
「いらっしゃい」
眼鏡をかけた中年の男性が、カウンターから顔を上げた。
「ああ、西村健太さんなら覚えてるよ」
花屋のマスター・安田は、眼鏡の奥の目を細めて懐かしそうに言った。彼の手は花の茎を切るハサミを持ったまま、一瞬動きを止めていた。
「彼はね、特別な花束を注文したんだ。青いバラとカスミソウのブーケ。普段はあまり置いてない青いバラを特別に取り寄せたんだよ」
安田の表情が曇った。ハサミを置き、眼鏡を外して目元を押さえた。
「それがこんなことになるなんて…事故の知らせを聞いた時は本当に…」
安田は言葉を切り、深いため息をついた。店内に流れる静かな音楽が、彼の言葉の余韻を優しく包み込む。
「彼はね、照れくさそうにしながらも目を輝かせて言ってたよ。『今日は彼女の誕生日なんです。サプライズでプロポーズするんです』って」
蒼太の胸に、鋭い痛みが走った。健太は美佳の誕生日に、特別な花束を持ち、プロポーズをするために向かっていたのだ。その花束は事故現場に散らばり、美佳の元には決して届かなかった。そして、健太が伝えようとしていた「永遠の愛」という言葉も。
「青いバラって…何か特別な意味があるんですか?」
「青いバラは『不可能を可能にする』『奇跡』という花言葉があるんだ。それから『叶わぬ恋』という意味もある。でもね、最近は品種改良で青いバラも作られるようになった。不可能が可能になったってわけさ」
安田は続けた。
「彼は照れながら言ってたよ。『青いバラは彼女の夢の花なんです。雑誌で見て、一度でいいから貰ってみたいって言ってたんです』って」
「どんな様子だったか、今でも目に浮かぶよ」
安田は遠い日を思い出すように目を細めた。彼の言葉が、蒼太の頭の中に鮮やかな情景を描き出す。
「青いバラの花束を受け取って、それはもう嬉しそうな顔でね。ちょっと照れくさそうに頬を掻きながらも、目がキラキラしてたんだ。『これで決めてきます!』てさ。」
安田の声には、若者の未来を祝福していた当時の温かい気持ちと、その後の悲劇を知る現在の切なさが混じり合っていた。
「青いバラを中心にした、本当に綺麗な花束だった。特別な日のための、最高の贈り物だったはずなんだ…」
その健太の笑顔と希望に満ちた姿を想像すると、蒼太は胸が締め付けられる思いがした。彼はその瞬間、未来に待つ悲劇など微塵も感じていなかっただろう。人生の輝かしい瞬間の、すぐ隣に潜む残酷さ。蒼太は言葉を失った。
「花束だけじゃなく、彼は指輪も用意していたみたいなんですよ」
安田は思い出したように言った。
「ここで花を受け取った後、『これから指輪を取りに行くんです』って言ってたから」
最後に蒼太が訪れたのは、事故現場に近い古い書店だった。
「西村健太さんのことですか」
年配の店主は物思わしげに頷いた。
「そういえば、その日はうちの店の防犯カメラに映ってたかもしれないね。確認してみようか」
埃をかぶった事務所の奥から取り出された古いハードディスク。デジタルの記録が過去を切り取って保存している皮肉を感じながら、蒼太は店主と共に画面を見つめた。
その映像は、雨に滲んだ窓ガラス越しに見る世界のように霞んでいた。解像度は低く、雨の日の薄暗さもあって、ほとんど判別できない。
「ほら、ここだよ」
店主が指さす画面上の小さな影。確かにそこには、花束らしきものを抱えた若い男性の姿があった。蒼太の胸が早鐘を打ち始めた。
映像の中の男性—健太は歩きながら一瞬立ち止まり、何かを確認するように、ポケットから小さな箱を取り出していた。
「これは…」
蒼太の声が震えた。その箱には、かろうじて宝石店の名前らしきものが刻まれているのが見えた。
一瞬の出来事だった。映像の中の健太は、小箱を見つめ、そして少し微笑んだように見えた。その後、彼は再び足早に雨の中へ消えていく。
その数分後、彼の命は奪われたのだ。
想像すると息ができなくなりそうだった。彼は恋人への特別な贈り物を胸に、未来への希望に胸を膨らませていたはずなのに。蒼太の目の奥がじんと熱くなった。
全ての点が繋がった。健太が美佳に伝えようとしていたのは、プロポーズの言葉だったのだ。彼女の夢だった青いバラの花束と、結婚指輪を持って。届けることのできなかった「永遠の愛」という約束。
---
美佳が再び黄昏堂を訪れたのは、それから三日後のことだった。
三日間、蒼太は美佳のことを考え続けていた。彼女の痛みが、まるで自分の中に住み着いたかのように感じられた。行きつけの蕎麦屋で食事をしていても、古書店で本を眺めていても、彼の心の片隅には常に美佳の悲しみの影があった。普段は人との関わりを避けがちな蒼太だが、今回ばかりは違っていた。「何かできることはないだろうか」という思いが、彼の内側から湧き上がってきていた。
黄昏堂の柱時計がチクタクと音を刻む静かな午後、蒼太は迷った末に決断した。青いバラの花束を注文したのだ。安田のもとに出向き、美佳の話をした上で、「あの日、健太さんが持っていたのと同じような花束を」と頼み込んだ。
そして今、ドアが開き、美佳が再び店に足を踏み入れた。前回よりも少し緊張した面持ちだった。希望と恐れが入り混じった表情。
「調べていただけたんですか?」
美佳の言葉に、蒼太の心は大きく揺れた。彼女に真実を告げることで、その傷が深まるのではないか。それとも何か救いになるのだろうか。蒼太は、自分自身のためではなく、目の前の人のために何かをしたいという、純粋な思いに突き動かされていた。
「はい」
蒼太は静かに頷き、これまでに分かったことを丁寧に語り始めた。健太が花屋に立ち寄っていたこと、特別な花束を注文していたこと、そして防犯カメラに映っていた小さな箱のこと。
美佳の顔から血の気が引いていくのが分かった。彼女の手が震え始め、座っていた椅子の肘掛を強く握りしめた。
「青いバラ…」
彼女は震える声で繰り返した。
「私、一年ほど前に雑誌で見て、冗談半分で『こんな花束、一度でいいからもらってみたいな』って健太に言ったことがあるんです。でも高価だし、本気にしてるわけじゃなかったのに…彼、覚えてたんだ…」
美佳の声は途切れがちだった。その目から、大粒の涙が溢れ始めた。
「あの時、健太は…何を言いたかったんでしょうね」
蒼太は少し考えてから、花屋のマスターから聞いた健太の言葉と、防犯カメラに映っていた小さな箱のことを告げた。
「佐々木さん、彼はあなたにプロポーズするつもりだったんです」
蒼太の言葉が、静かな黄昏堂に響いた。
美佳は何も言えなかった。ただ、彼女の目に浮かんだ涙が、その瞳の中で光を集めて揺れていた。それは、これまで彼女が流してきた涙とは明らかに違うものだった。後悔や自責の念ではなく、初めて知る健太の最後の想いに触れた驚きと、切なさと、そして深い愛おしさ。
しばらくの沈黙。
美佳の肩が小刻みに震え始め、やがて声を殺してすすり泣いた。その泣き方は、長い間抑え込んでいた感情の堰が、一気に崩れ落ちるようだった。言葉にならない声だけが、夕暮れの空気に溶けていく。
柱時計が静かに七時を告げ、チーンという音色が美佳の存在を優しく包み込んだ。
やがて、彼女の泣き声が少しずつ落ち着いていく。深い息を何度か繰り返し、美佳はようやく言葉を取り戻した。
「私はずっと…」
震える声。握りしめた拳。
「四年間ずっと…健太に申し訳ないと思って生きてきたんです」
美佳は顔を上げた。涙に濡れた顔には、どこか決意のようなものが浮かんでいた。
「もし私が誕生日のこと言わなかったら、あの雨の日に彼が外出することもなかったはずなのに…」
蒼太は立ち上がり、カウンターの裏から一つの花束を取り出した。青いバラとカスミソウの小さなブーケ。亡き健太が用意したものとそっくりな花束だった。
「彼が、どんな想いでこの花を選んだのか、僕には想像しかできませんが…」
蒼太は花束を美佳に差し出した。美佳は震える手でそれを受け取った。
「私にとっては、ただの我がままな一言だったのに…彼にとっては、そんな私の些細な願いも大切だったんですね」
美佳の涙は止まらなかったが、その瞳には新しい光が宿っていた。
「健太…ごめんね。ずっと、ずっと、あなたの本当の気持ちに気付かなくて…」
彼女は花束に顔を埋めるようにして言った。
「私の誕生日のために急いでたんじゃなくて、私を幸せにするために来てくれてたんだね。私のせいで死んだんじゃなくて、私のために生きようとしてくれてたんだね」
美佳の言葉は途切れがちだったが、まるで四年間、彼女の胸に閉じ込められていた言葉が、一気に溢れ出すかのようだった。
「ずっと、どう考えたらいいのか分からなくて。毎年お墓に行っても、『ごめんね』って言うことしかできなくて…でも今…」
美佳はゆっくりと顔を上げ、涙に濡れた瞳で蒼太を見つめた。
「今なら、『ありがとう』って伝えられる気がする」
その瞬間、蒼太の目にも涙が浮かんだ。十二年前、幼なじみの陽菜を失った日から、彼もまた「もし自分が」という思いに苛まれ続けてきた。陽菜に手を伸ばせていれば、彼女を引き止められていれば、あの交差点で彼女の代わりに自分が…。そんな「もし」の連鎖が、彼の中で絡み合い、心を縛り続けていた。
だから、美佳が健太への罪悪感から少しでも解放されるのを見るのは、蒼太自身にとっても深い救いだった。
「あなたのせいじゃなかったんですよ」
蒼太は、普段は決して口にしないような直接的な言葉を告げた。それは同時に、過去の自分自身に対する言葉でもあった。
「彼は、佐々木さんを幸せにしたくて向かってたんです。あなたの誕生日だったから、特別な日にしたかったから。それは、愛する人へのごく自然な気持ちです」
美佳は静かに頷いた。その涙に濡れた瞳には、長い間彼女を縛っていた鎖が、少しずつ解き放たれていく光が灯っていた。
「これで良かったのかな…って、ずっと思ってたの。でも今なら少し分かる気がします。健太は最後まで私を愛してくれてた。その想いを知ることができて、私は幸せです」
彼女はゆっくりと花束に視線を落とし、青いバラの花びらを優しく撫でた。
「健太、私に会いたくて、特別な贈り物を持って来てくれてたんだね。私のことを思い続けてくれてありがとう…」
美佳はまるで健太に直接語りかけるように言った。その声には、四年間押し殺されていた感情の全てが込められていた。悲しみ、後悔、そして深い愛おしさ。
蒼太は黙って見守った。時に、言葉より沈黙の方が、人の心を癒すことがある。祖母はそう教えてくれた。
「ありがとう」
美佳が静かに口にした一言は、蒼太に向けられたものなのか、健太に向けられたものなのか。おそらくは両方なのだろう。
「あなたのおかげで、やっと健太の気持ちがわかった気がします」
彼女は立ち上がり、花束を胸元で抱きしめた。まるで大切な命でも抱くように、そっと。
「これから、お墓に行ってきます」
美佳の瞳は、まだ涙に濡れていたが、その内側から光が差しているようだった。
「今日こそ、きちんと話せる気がするんです」
彼女の表情には、まだ深い悲しみと喪失感はあった。それは簡単に消えるものではない。けれど、重い罪悪感から解放された清々しさが、彼女の姿勢を少し軽やかにしていた。
蒼太は黙って頷き、ドアまで彼女を見送った。
「佐々木さん」
「はい?」
「花言葉…」
蒼太は言葉を選ぶように一瞬躊躇った。
「青いバラの花言葉、知ってますか?」
「いいえ…」
「『不可能を可能にする』『奇跡』と…」
蒼太は最後の言葉を口にするのを少しためらった。
「…『叶わぬ恋』」
美佳は一瞬驚き、そして静かに目を伏せた。再び上げられた顔には、優しい微笑みが浮かんでいた。
「叶わぬ恋…」
彼女はその言葉を反芻するようにつぶやき、そして青いバラに視線を落とした。
「でも、健太の想いは確かに私に届いたんですね。四年経って…少し遅くなったけれど」
彼女は微笑み、そしてもう一度深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました。あなたが話を聞いてくれなかったら、私はきっとこれからも…」
「いいえ、お役に立てて良かったです」
蒼太は頭を下げ返した。そして初めて、彼は美佳の目をまっすぐに見ることができた。
美佳が店を出た後、蒼太は窓辺に立ち、沈みゆく夕日を見つめていた。
届けられなかった花束。果たせなかった約束。伝えられなかった想い。
それでも、時間を経て、その想いは確かに相手の心に届いたのだ。
蒼太は、自分が美佳に見せた青いバラの花束を思い出した。それは、彼が花屋で特別に注文したものだった。なぜそこまでしたのか、彼自身にもはっきりとした理由はわからなかった。ただ、健太の言葉を聞いた時、「彼女の目の前でもう一度、あの花を咲かせてあげたい」と強く思ったのだ。
蒼太は柱時計の横に立ち、窓辺に立ち尽くす自分の姿を窓ガラスに映して見た。薄暗い照明に照らされた自分の顔は、どこか遠い思いに沈んでいるように見える。
美佳が吐露した悲しみと、解放された安堵。その両方を目の当たりにした今、蒼太の中で何かが変わりつつあった。人の痛みに触れることは、自分自身の痛みに向き合うことでもあるのだと。
彼は懐から一枚の古い写真を取り出した。小学生の頃の自分と、明るい笑顔の少女が写っている。陽菜だ。十二年前の春、彼女は交差点で車にはねられ、亡くなった。最後に二人で口論をした直後のことだった。
「陽菜…僕も、いつか伝えられるかな」
蒼太は写真を見つめながら静かに呟いた。これまで彼は、他人の感情の波に飲み込まれることを恐れ、人との深い関わりを避けてきた。しかし、美佳の痛みと向き合うことで、彼自身も少しずつ変わり始めているのかもしれない。
蒼太はポケットに写真を戻し、柱時計を見上げた。
「おばあちゃんがいつも言ってた。『時間は全てを癒すわけじゃない。でも、正しい場所に運んでくれることがある』って」
柱時計はチクタクと、穏やかな音を刻み続けていた。蒼太はしばらくその音に耳を傾け、そして黄昏堂の灯りを少しだけ明るくした。もうすぐ夜が来て店じまいの時間だが、今日はもう少しだけ、この温かな光の中にいたい気分だった。
「いつか僕も…届けられなかった言葉を、伝えられる日が来るだろうか」
その問いに答えはなかった。ただ、夕暮れの優しい光が、古びた黄昏堂の床に、長く伸びた影を作っていた。そして蒼太は、今日はじめて、その影が少しだけ短くなったように感じたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます