第2話 このパン工場、普通じゃない
明け方のひんやりとした空気の中、ヘンゼルとグレーテルは、指定された真新しい白の作業着に作業帽を被り、王都郊外のパン工場内へと足を踏み入れた。
その工場の名は――――<プロテイオス・ベーカリー第一工場>
赤茶けた煉瓦と黒ずんだ漆喰が混ざり合う、古びた平屋の建物だ。
煙突の先からは細い白煙が静かに立ちのぼっている。
壁の継ぎ目には苔がこびりつき、鉄製の扉は何か硬いものがあたったかのようにところどころ凹んでいる。
一見すれば、ただの民営パン工場だ。
二人は前日、工場潜入のために機関が用意した偽の雇用契約書で短期スタッフとして雇われていた。
表向きはパン工場の補助スタッフであるが、"マッチョ売りの少女の確保"と、"違法マッチョの生産拠点"を探るための潜入捜査である。
軋む音を響かせながら重厚な鉄扉を二人が開ける。
事前のブリーフィングによればその先には作業場が広がっているはずだった。
だが、その場は作業場と呼ぶにはあまりにも異様だった。
蒸気の満ちた空気。
うっすらと白く煙る床。
巨大な捏ね台が列をなし、その上やら下やら空中で。
筋肉隆々の男たちが、パン生地を殴るように捏ね続けている。
「ソイッ!!!」
「テイッ!!!」
「ハァッ!!!」
「ソイヤアアアアアアアアア!!!」
「テイヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
四方八方から飛び交う、魂のこもった掛け声。
床が揺れ、空気が震え、白い粉塵が舞い上がる。
それはもはやパン作りなどではない。
――――パンとの死闘だ。
まるで、長年戦場を渡り歩いた猛者たちが、生地と生死の闘いを繰り広げているかのようであった。
この凄まじい光景を見て、グレーテルが顔を強張らせる。
「……言っていいですか?」
横に立つグレーテルが、小声で話す。
その声はいつも通り淡々としていたが、わずかに眉根が寄っていた。
「あぁ、なんだ?」
ヘンゼルは半歩前に出ながら視線を巡らせる。
彼の目もまた、わずかに細められていた。
「見るからに普通じゃありません」
その一言に、ヘンゼルは小さく息を吐いてからうなずく。
「……同感だ。だが、あまり会話はするもんじゃないぞ……俺たちはここで
そのときだった。
不意に、明るく柔らかな声が彼らの耳を打った。
「ああ、新人さんですね。驚きますよね……この光景」
振り向くと、作業帽をかぶった一人の青年が立っていた。
服装はヘンゼルたちと同じ工場指定の白い作業着である。
だが、その衣服には至るところに擦れと裂け目があり、修繕の跡も見て取れた。
新品のように整えられた二人の装いとは対照的に、彼の服には確かな労働の痕跡が刻まれている。
青年は穏やかな笑みをたたえていた。
一見、まともではない工場にいたってまともそうな人間が現れ、一瞬、緊張が緩む。
しかし、忘れてはならない。
この工場は違法マッチョの生成に加担している可能性があるのだ。
人懐こい笑みを浮かべた青年の姿は、どこかほっとさせる雰囲気を纏っていた。
けれど、だからこそ警戒が必要だった。
敵とは、いつも仮面を被ってやってくる。
ヘンゼルはほんの一瞬だけ青年の目を見つめたあと、すぐに柔らかな笑みを作った。
声の調子も、表情も、どこまでも自然に……それでいて一切の隙を見せずに。
「はい、今日からこちらで働くことになりました。ヘンゼルです」
その後に続いて、グレーテルも一歩前に出た。
「こちらの方と同じく、今日から働くことになりました。グレーテルと申します」
グレーテルの口調は丁寧で、ヘンゼルに対してどこかよそよそしさを含んでいた。
それは任務の性質上、仕方のないことだった。
潜入者としてこの場に立つ以上、ふたりは今日ここで初めて顔を合わせた“他人”でなければならない。
どれほど長く共に歩んできたとしても、どれほど呼吸を合わせてきたとしても、
いまこの瞬間だけは、無関係な存在として、すれ違わねばならない。
「ご丁寧にどうも! 僕は副工場長のフラソンと言います。とりあえず、工場長室へどうぞ……工場長が直々に適正を見極めたいとのことですので……」
フラソンはそう言うと、男たちの掛け声が響き渡る作業場の先にある扉へと案内した。
二人は緊張を解かずにその後を付いて行った。
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