カノン
青篝
短編です
いつものようにピアノを弾いていた。
コンクールを目指す訳でもなく、
誰かに褒められたかった訳でもないが、
私はいつもこうしてピアノを弾いていた。
ピアノのことは全て独学だったので、
20年以上弾いてきた今でさえ
人に自慢できる程上手ではないし、
弾ける曲の数だって多くない。
目の前にあるこのピアノだって、
本来は私の物でも私の両親の物でもない。
彼はこの部屋にある楽器は
全部私に譲ると言ってくれたけど、
私が弾けるのはピアノだけで、
音色も聴いたことがない楽器がほとんどだ。
あのギターは弦の数が少ないように見えるけど、
横にあるギターと何が違うのだろうか。
「〜♪」
ポロンと小さく音を鳴らしてみたけど、
それがピアノの音色なのか、
私の頬から落ちた涙の音なのか、
聴き分けることができなかった。
「カノンが好きなんだ。」
いつの頃だっただろうか。
彼がそう言ったことがある。
私の名前を言われたのかと思って
心臓がドキっとしたが、
それが曲名であることを思い出して
すぐに冷静に戻ることができた。
パッヘルベル作曲、カノン。
現代においてもその人気は高く、
結婚式場から葬儀場まで
幅広い場面で流れているあの曲だ。
小学校の音楽の授業で初めて聴いた時から、
自分の名前と同じこともあって
私もお気に入りの曲だった。
彼もこの曲が好きだと知ってから
改めて聴き直してみたが、
落ち着くメロディーのはずなのに
心臓が激しく暴れて大変だった。
彼が言ったのが曲のことだと
頭で理解していながら、
自分と重ねずにはいられなかった。
きっとその時からだろう。
私がピアノを積極的に弾くようになったのは。
「ピアノ、上手になったね。」
彼がヴァイオリンを弾く横で
私も同じようにピアノを弾いていると、
中学校を卒業する頃には
それなりに上達していたが、
とてもコンクールに出られるような
レベルには至らなかった。
別に目指していなかったからいいものの、
彼のヴァイオリンのコンクールを
見に行った時、彼の演奏を支えるように
ピアノを弾く人がいて、醜くも嫉妬した。
だけど、だからと言って、
彼の横で演奏できるように
ピアノを練習する気にはなれなかった。
たくさん練習して、ピアノ奏者として
コンクールに出られるようになったら、
彼は私を音楽的なパートナーとしてしか
見てくれなくなると思ったから。
だから私はピアノが上達しないように、
彼の前以外では一切弾かなかった。
彼のことを考えるだけに留めていた。
いつかきっと、一人の女の子として、
彼に想いを伝えられる日を夢見ながら。
結局、そんな日は来なかったけど。
「あの子、時々ヴァイオリンの練習しながら
歩いてる時があって……。
前から来た車にすら気がつかなくて…。」
私が高校生になった年の冬休み中だった。
違法な薬を使っていた男の運転する車が、
楽器店から帰る途中の彼に突っ込んだ。
警察が防犯カメラやドライブレコーダーを
調べた結果によると、彼の年齢から考えて、
正面から突っ込んで来た車を避けることは
そう難しいことではなかったはずだが、
彼は何か手を動かしながら
目を閉じて歩いていたようで、
避ける素振りすら見せなかったらしい。
涙ながらに話してくれる彼の母親から
事故の瞬間を聞いて想像してみたけど、
悲しいより先に彼らしいなと思ってしまった。
「おはよう。もう練習の時間……?」
家族以外の面会の許可が下りた日、
私は彼の病室を訪れた。
防音室とは違う澄んだ空気と
ミント系の芳香剤の匂いが混ざった病室に、
包帯だらけになった彼はいた。
彼はなんとか一命を取り留めたものの、
脳の一部や全身にダメージを負ったおかげで、
もう二度と楽器を弾くことができないらしい。
誰かがお見舞いに来る度に
彼は楽器を弾きたそうな顔をするが、
誰にもそれを叶えることはできず、
苦しい笑みを浮かべるだけだった。
そして、事故が起きてから
2週間が過ぎたよく晴れた日に、
彼は自ら命を捨ててしまった。
「ホント、馬鹿息子なんだから……!」
サイドテーブルに残された手紙は
彼の家族に宛てた懺悔と感謝の物と、
私に宛てた物だった。
その手紙には、彼の部屋にある楽器は
全て私に譲るということと、
彼がずっと秘めていた想いが綴られていた。
その想いに応えられないことが
何よりも辛くて、彼の両親と共に
私は病室で涙を流すしかなかった。
その際に彼の両親と話をしたが、
私の家に全ての楽器を運ぶのは
物理的に難しく、私が持っていても
埃を被るだけになってしまうので、
買い手を探してもらうことになった。
「君とももう、お別れだね。」
そして明日、ここにある楽器は
彼が愛用していたヴァイオリンを除いて
全て運ばれることになっている。
私がこの部屋でこのピアノを弾けるのも
今日が最後だ。
彼が事故に遭った日から
ここへ来ることはなかったが、
ピアノの前に座ると不思議と
久しぶりな感覚はない。
そっと、鍵盤に指を乗せる。
彼がヴァイオリンを弾く横で、
私も一緒にピアノを弾いていた。
今日は横に彼の姿はない。
けど、今日の私が弾くカノンは、
私のピアノ人生で一番うまく弾けた気がする。
カノン 青篝 @Aokagari
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