第4話
書斎の扉を閉めた瞬間、家全体の音がすっと遠のいた。壁の時計が淡く時を刻む中、陽介は机に向かい、コーヒーの湯気が揺れるのをぼんやりと見つめていた。
数日前に医師から手渡された資料が、机の上に広げられている。「慢性腎不全」と太字で記された文字。何度目にしても、その言葉の重さに慣れることはなかった。
腎臓――血液をろ過し、老廃物や余分な水分を排出し、体内のバランスを保つ臓器。けれど、その働きが静かに、確実に落ちていた。
慢性腎不全は、決して他人事ではなかった。日本では、人工透析を受けている患者だけでも約34万人いる。成人の8人に1人は、何らかの腎機能障害を抱えているとされる。高血圧や糖尿病を基礎疾患とするケースも多く、誰でもなり得る病だ。病名を知ったとき、自分たちに限っては大丈夫だと信じていた過去の自分に、陽介は静かに怒りすら覚えた。
真帆の体に現れ始めた異変は、今思えばすでにその兆候だった。浮腫、倦怠感、軽い吐き気。それらが重なり始めた頃には、腎臓の機能はすでに限界に近づいていたのだ。
治療法は三つ――腹膜透析、血液透析、そして腎移植。
陽介は、それぞれの方法について繰り返し調べた。
腹膜透析は、患者の腹腔にカテーテルを挿入し、透析液を出し入れすることで体内の毒素を取り除く方法だ。自宅でできる分、生活の自由度は高い。しかし衛生管理の徹底が求められ、細菌感染というリスクもある。真帆のように几帳面な性格ならこなせるだろう。ただ、それだけに、自らを追い詰めすぎるのではないかと、陽介は不安を感じた。
血液透析は、週に三回、数時間ずつ病院で受ける。血液を機械に通して浄化する方法で、確実だが生活のリズムは大きく制限される。治療後には強い倦怠感が残ることも多く、日常生活を支える力を徐々に奪っていくかもしれない。
そして、腎移植。もっとも根本的な治療だが、誰もが受けられるわけではない。ドナーとの適合性、手術のリスク、術後の拒絶反応――すべてを乗り越えなければ成立しない。
だからこそ、陽介は真帆に何も言わずに、適合検査を受けた。血液型、HLA型、クロスマッチ。すべてを終えたのは先週のことだった。
結果は――「適合の可能性が高い」。
その言葉を聞いたとき、陽介の胸には確かに安堵が広がった。けれど同時に、その重みを肌で感じた。自分の身体を差し出すことに対して、迷いはなかった。しかし、それを真帆が望むかは、まったく別の問題だった。
彼女は言った。「わたしのせいで、あなたの身体が傷つくのは嫌なの」と。
当然だと思った。自分でも、もし立場が逆なら同じ言葉を口にしていたかもしれない。
だが、それでも陽介は、腎臓を提供したいと願った。真帆に健康な生活を取り戻してほしかった。それが自己犠牲だとは思わなかった。家族として、当然の選択だと信じていた。
机の隅に飾られた写真に目をやる。家族三人、夏の海辺で撮った一枚。真帆の笑顔が、今よりもずっと柔らかく見える。悠斗の頬もまだふっくらとして、あどけなさが残っていた。
この笑顔を、もう一度見たい。ただ、それだけだった。
陽介はコーヒーを一口すする。すでに冷めきっていたが、その苦味が今の心情に妙にしっくりくる。
書斎の扉の向こうから、誰かの気配がした。きっと真帆だ。まだ眠れていないのだろうか。今日の夕食の後、彼女はぽつりと「もう少し考えさせて」と言った。
その声には、迷いと、わずかな希望が混ざっていた。
簡単な決断ではない。臓器を授けるということは、命を分け合うこと。そして、同時に重荷を背負い合うことでもある。
それでも――と陽介は思う。たとえ真帆が別の選択をしたとしても、自分の覚悟は揺るがない。支えることに意味があるのだと、信じている。
ふと、窓の外に目を向ける。ビルの灯りがまばらに光る夜の街。その中で、確かに生きているという実感が胸の奥に宿る。
陽介は静かに目を閉じた。
これからどんな道を歩むことになっても、家族三人で進んでいけるのなら――それだけで十分だと、そう思った。
書斎の静けさの中で、陽介はふと資料の一節に目を留めた。「腎不全は“新たな国民病”である」——その言葉が重く胸にのしかかる。糖尿病や高血圧の患者が増え続ける現代、腎臓への負担は知らぬ間に蓄積し、静かに機能を失わせていく。自覚症状が現れる頃には、すでに手遅れのことが多いという。かつては特殊な病だったはずが、今や誰の生活にも忍び寄る現実だ。その事実が、恐ろしくもあり、切実でもあった。
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