第5話
資料のページをめくるたびに、陽介は自分がいかに「ドナーになる」ということを漠然としか理解していなかったかを思い知らされていた。
腎移植のドナーに求められる検査は、血液型やHLA型の適合を見るだけでは終わらない。それは、単なる「相性」の問題ではなく、身体的にも精神的にもその人が「腎臓を提供することに耐えられるか」を確認するための、極めて包括的な評価だった。
まず受けたのは詳細な血液検査。腎臓の機能だけでなく、肝臓、心臓、血糖値、脂質、感染症の有無など、全身の状態が徹底的に調べられる。陽介の腕から何本もの採血管が並ぶ様子を見て、担当看護師が「これで終わりじゃないですよ」と笑ったのを思い出す。その言葉通り、検査は「これでもか」というほど続いた。
次に行われたのが尿検査と腎機能検査。陽介自身の腎臓が本当に健康で、片方を失っても残りで十分に機能を果たせるかどうか。それを確かめるため、24時間かけて尿を採取し、その中のクレアチニンやタンパクの量を測る検査が行われた。日常生活の中で尿を保管し続けるという奇妙な行為に、彼は思わず苦笑した。
さらに、画像診断。超音波、CT、MRIなどを用いて、腎臓の大きさや位置、血流の状態を確認する。万が一、腫瘍や結石が隠れていたら、それはドナー失格のサインになる。ベッドの上で静かに息を止めながら、陽介は「何もありませんように」と心の中で何度も願った。
心電図と胸部レントゲンでは、心臓と肺の健康状態が調べられる。手術を安全に乗り越えるためには、心肺機能が健全でなければならない。担当医は「術後の回復は、手術前の体力と予備力が鍵になる」と静かに告げた。
内科的な全身診察のあとには、消化器や眼科、歯科などの専門外来も受診した。ドナーが手術後に感染症などに苦しまないよう、身体のあらゆる箇所がスクリーニングされる。虫歯ひとつでも手術のリスクになることがあるという言葉に、陽介は改めて「人の命を預かる」という現実を実感した。
そして、もっとも意外だったのが精神科医との面談だった。医師は、陽介の目をじっと見つめながら問いかけた。
「あなたは本当に、自分の意思で臓器提供を決断されましたか?」
一瞬、心が揺れた。もちろん答えは「はい」だ。だが、それは本当にプレッシャーではなかったのか。家族の期待、罪悪感、愛情――それらが複雑に絡み合う中で、決して単純な答えではないことを陽介自身も理解していた。
精神科医は続けた。「あなたが今後、何らかの健康問題を抱えたときに、『あのとき腎臓を渡さなければ』と後悔する可能性はありませんか?」
その問いは、まるで陽介の心の奥にある小さな迷いを言語化するようだった。けれど、彼はゆっくりと首を振った。後悔するかどうかではなく、それでも自分が選びたい道を選ぶことが大切なのだと、今は思えるから。
検査の最後には、倫理委員会による面談が待っていた。第三者によって構成された委員会は、医師とは異なる立場から陽介の意思を確認し、提供の正当性と安全性を客観的に判断する。その場で問われたのは、愛情の深さではなく、判断力の冷静さだった。
こうしたすべての検査と審査に、数週間が費やされた。その過程で陽介は、自分の身体について今までにないほど深く知ることになった。心拍のリズム、腎臓のかたち、血管の太さ、自律神経の働き――それらがいかに繊細に連携しながら「生命」を維持しているのかを知ることは、同時に「命を預ける責任」の重さを知ることでもあった。
検査の結果は、総合的に見て「腎提供は可能」と判断された。
陽介は、その通知を病院のカフェで読んだ。淡い陽射しが差し込む午後、紙の一枚に刻まれた「適格」という文字に、思わず背筋を伸ばした。
真帆にはまだ、そのことを話していない。
けれど、彼女の「もう少し考えさせて」という言葉には、以前よりもずっと多くの「希望」が混ざっている気がした。
陽介は、コーヒーのカップを両手で包み込むように持った。そのぬくもりが、どこか命の鼓動にも似ている気がしてならなかった。
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