金魚

彩鳥るか

金魚

聞き飽きたアナウンスが流れて、プシューと息を吐く音がして、ドアが横に開いた。

黒色か紺色のスーツか制服を着て、ローファーか革靴を履いた人達が流れ出てくる。みんなホームとの隙間に気をつけて足元を向くと、そのまま下を向いて足早に出ていく。すぐに狭いホームは埋まった。

排出が終わると列の先頭の二人は示し合わせたみたいに足を踏み出した。後ろに並んでいた人も続々と乗り込んでいく。


出てきた人を避けながら徐々に前に進んで、私も中に入った。空気は生々しくて気持ち悪い。入る時にちょっとよろめいて恥ずかしかったけど、誰も私の方は見ていなかった。窓の外は灰色だった。

アナウンスがもう一度鳴って、またプシューと息を吐きながらドアが閉まった。

すると喉の奥に何かが詰まる違和感を覚える。またかと思って、おとなしくしてろと念押ししてそいつを唾と一緒に飲み込んだ。最近これが多くて困っているのだ。


電車が動き出した。よく電車が動く音はガタンゴトンと形容されるが、シューと風を切っている音とか、キーとかいうなんだかよく分からない鳴き声みたいなのもする。生き物みたいで私は好きだ。

電車の窓の外を見るのも好きだ。三年間ほぼ毎日同じ景色を見ているのに、覚えきれなくらい多様な建物が数匹並んでいる。空は真っ白で、雨が降りそうなのに湿度を感じない色をしていた。眩しかった。

電車が止まって、私も周りと一緒に電車から吐き出された。

吐き出す、そう吐き出す。吐き出せたら楽なのになあと、お腹の中の奴に思いを馳せる。


私は胃の中に金魚を飼っている。鮮やかな赤色をしていて、まんまるに太った奴だ。

いつから生きてるかわからないが、私より長生きしているわけではないと思う。ちっちゃい頃は確かにいなかったのに、いつの間にか胃の中で生まれていた。

生まれたては小さくて可愛いもんだったのに、だんだん肥え太り、目玉までギョロギョロと生々しく動くようになった、憎たらしい奴だ。

いつもは胃の中でピチピチと遊んでいるが、たまに自分のウエストを考えずに上ろうとして、喉に詰まることがある。まったく迷惑な奴だが、もうずっと長く一緒にいるせいで誰よりも

私のことを理解している、相棒みたいな奴だ。


駅のホームを人に流された。わざわざ階段を選ぶ流れはなかったので、そのままエスカレーターに流れ着いた。

電車に乗り込むときと一緒だ。一段目を踏み外さないように下を見ながら、タイミングを合わせて持って、そのままの首の角度でスマホを見つめる人たち。みんな同じ動作をするから面白いくらいだ。


私も慣例に倣って、とりあえず下を見つめる。そして目に入る足、ちょっと視線を上げるとその上にも足、足、足。私も流石にダイエットをしなければならない、と私より二段上に立っている女の子の足を見ながら思う。

自分の大根と見比べると差は歴然だ。金魚がまたピチピチと私を茶化して跳ねる。「そんなこと言ってダイエットなんて一生しないだろ」とか多分そんな感じ。さすが相棒、私のことをよく分かってる。

しばらく眺めて性犯罪者と同じことをしている自分に気づく。すっと目を逸らして、自然な操作で定期券を右手に用意する。

エスカレーターを登り切って、人混みに逆らわずに改札に流れ着いて、ピッとしたらもう同じ学校の人がたくさんいる。

改札前で待ち合わせする奴らは大体がカップルで、周りなんか見えないみたいに手を繋ぐ。

顔がかわいくて、足が細くて、色付きリップを塗っただけの女の子は恋人の隣で、とか言いながら朝から楽しそうに笑う。

あまり実感はないが、私も彼女と同じスカートを履いていて、同じJKという職業をやっている。


駅を出ると束の間の開放感を味わえる。金魚もちゃんと胃の中に収まっておとなしくしている。

天気予報では小雨が降るかもしれないと言っていたが、学校に着くまでは大丈夫そうだ。

秋の曇りの日は空気が冷たくて、息を吸っている感覚が明瞭になる。空はやっぱり雪みたいにきらきら光っていて綺麗だと思った。


同じ制服の人間に流れて、学校に着いて、靴に履き替えて、一応持ってきた傘を傘立てに置いて、教室へ行って、友達に「おはよう」と声をかける。

ーーおはよう、××ちゃん。

そこそこ仲が良い友達がにこっと応える。


後はホームルームまで10分間、意味のない会話をするだけだ。

ーー今日めっちゃ曇ってるよね。雨降りそうだし最悪じゃない?

「天気予報だと降水確率50%らしいよ」

ーーまじ?いっそ雨降って欲しいわ。曇りって中途半端だし、なんか憂鬱になるしほんと嫌じゃない?

金魚が喉に詰まる。

「いやまじでそれな」

ーーてか××ちゃん昨日何時間勉強した?

「いや全然だよ。文化祭の会計の仕事忙しくてさ」

ーー嘘つけ!絶対勉強してるじゃん。

じゃあ聞かなきゃ良いのに、と思う。


そんなこんなでチャイムが鳴った。先生が私の意識の外で色々話していて、いつのまにかホームルームも終わっていた。

一時間目が始まって、終わった。

ニ時間目が始まって、終わった。

三時間目が始まって、終わった。

四時間目が始まって、終わった。

五時間目が始まって、終わった。

内容はあんまり覚えてない。友達との会話くらい覚えてない。

世の中の大体は反復作業でできていると思う。似たようなことを繰り返して繰り返して繰り返して、いつのまにか終わってる。

終わった後は何があったかなんて、何も覚えてない。辛かったことも悲しかったことも覚えてないけど、楽しかったことも嬉しかったことも同じくらい覚えてない。

人生を小説にしたら、

起きた、寝た。

起きた、寝た。

起きた、寝た。

の繰り返しで済む。冗長な言い回しも、凝った修飾語も要らない。

もっと言えば、

生まれた、死んだ。

で良いと思う。

小説家は人生をさも面白いかのように描写する。読者は本の中でだけ意味のある人生を体験する。でも、それが現実で起こり得ないことをニーチェの時代からみんな知っている。

金魚が黒歴史を掘り返す。

ーー××ちゃんてちょっと厨二病ぽいよね。

ーーわかるわかる。人生に意味なんてない!みたいな。どんだけひねくれてんのって。

金魚は私を揶揄うのが好きだ。ピチピチと喉の奥をつつくように、「この年にもなって恥ずかしー」と跳ねる。ちょっと恥ずかしくなって、お腹にグッと力をこめてやった。あんまり意味のある報復じゃないけど。



最近の世代はさとり世代とか呼ばれてるらしい。

人生に意味がないと考えるのは現実逃避の一種だ。現状に不自由せず向上心のない若者は、生きる意味が見出せないらしい。

ーーねえ聞いてるの?××さん

「ーはい」

先生の頭上に時計が見える。まだ私たちが席について5分も経っていなかった。

ーー朝のホームルームでも言ったけどね、もう入試まで4ヶ月もないのよ。××さん進路まだ曖昧でしょう?

ーーこの子最近全然勉強してないんです。なのに急に...

母が言いよどむ。

ーー××さん。なんで急に医学部に行きたいなんて言い始めたんですか?

「...えっと」

憎たらしい金魚はこういう最悪のタイミングを見計らって上ってくる。

なんで、なんで。人を助けたいから?憧れたから?何を言っても安っぽく聞こえる。他の人はなんて説明してるんだろう。なんて言えばーー

ーー××さん。ちゃんと喋ってくれないと。

理由が説明できないのに医学部なんて受かる訳もない、と金魚は跳ねる。こういう正論を言われるとちょっとムカつく。

ーーああもう良いです。ごめんなさい先生、お時間いただいたのに。本当に突拍子もない話で、今ちょっと憧れてるとかそういうだけだと思うんです。すぐに諦めると思うので。

金魚が目玉をギョロギョロさせて嘲笑っている感じがする。全部こいつのせいだ。


金魚が跳ねた。

ーーみんな一度は憧れるよなー。わかるわかる。父さんもそうだったよ。


金魚が跳ねた。

ーーなんで××ちゃんは医者になりたいの?

ーー......理由も言えないのに目指してるの?


金魚が跳ねた。

ーー××さんには向いてないと思うけどなあ


金魚が跳ねる。

ーーそれじゃあこの話は終わりで良いですか?

金魚は詰まったまま抜けなかった。




廊下を歩いていると友達がいた。

ーーあれもしかして学校に残って勉強してたの?

「...ああうん。そんな感じ」

ーーいいなー××ちゃん頭良いし、どこでも行けるよ。もう勉強しなくて良いじゃん。てか勉強しないでよ。

「そんな頭良くないよ」

ーーいいなー頭良い人は、恵まれてて。××ちゃんは将来のこと悩んだりしなそうだよね


恵まれてないと思っている訳じゃない。

友人がいない訳じゃない。

親と仲が悪い訳じゃない。

先生が嫌いな訳じゃない。

人生が無意味だなんて本気で思っている訳じゃない。そんなふうに思ってたら医者を目指そうなんて思わない。

きっとあの子は私と同じくらいかそれ以上に、将来が不安で、悩んでいて、困っているんだろうなと思った。私より可愛くて、足が細くて、恋人がいて、それでも悩んでいるんだ。自分より悩んでいる人を見ると、少し息がしやすくなる。みんな悩んでるんだと考えると、少し楽に生きれる。

性格が悪いよなとピチピチされたけれど、別に気にならなかった。多分みんなそうやって少しずつ人を見下して生きてる。


その日私は家に帰って、何もできなくて、すぐに寝た。




雨が降っている。

深夜2時の公園には多分私だけしかいない。


街灯は一本だけ。爛々と光る宇宙人みたいな目がついたやつが一本地面に刺さっていて、公園をぐるっと取り囲む生垣の所々に黒い影みたいなものをつくる。

だいたいこういう黒い影は全部人に見える。寝ている人、座っている人、うずくまってる人、とか。でも動かないから怖くない。話しかけてこないから怖くない。私に関係ないと思えるから怖くない。


ブランコを漕ぐ。

目の中に雨粒が飛んできて泣いてるみたいになった。側から見て私はどう見えるだろう。少なくとも目撃されたら新たな都市伝説の仲間入りをしてしまうかもしれない。


制服が重くなって、髪が顔に張り付く。

スプレーで固めた前髪だけはちょっとだけ原型があるけど、巻いた髪も寝癖もまっすぐストレートになっていた。


上体を前に傾けて、ぐっと力を溜めながら膝を曲げる。

上体を反らして、雲の向こうのお月様に届くまで遠くに、限界まで足を伸ばす。

曲げて、伸ばす。

曲げて、伸ばす。

曲げて、伸ばす。


体が宙に浮くくらい高く、高く。

今なら空も飛べる気がする。

ああでも、雨の中を飛んだら痛いのかなあ。イカロスは太陽に焦がれて堕ちたらしいけど、雨だって碌なもんじゃない。見るだけで憂鬱だし、シャツが濡れるのも靴下まで侵食されるのも大嫌いだ。


曲げて、伸ばす。

曲げて、伸ばす。

曲げて、伸ばす。


使える筋肉全部で動かす。遠心力のまま一周できるかどうか、ギリギリの高さまで漕ぎつけた。ここからが勝負だ。

大きく口を開ける。なんでも飲み込めるくらい大きく。口の先から喉の奥、胃の底のまで空気が通るように、大きく。


曲げて、伸ばす。

曲げて、伸ばす。

曲げて、伸ばす。

曲げて、伸ばす。

曲げて、伸ばす。

曲げて、伸ばす。


単調な運動の末に、スポッと音を立てて金魚が出てきた。

ああやっと。冷たい夜風がお腹の底まで入ってきた。


真っ赤な金魚が夜の公園を泳ぐ。


ゆらゆらと優雅に泳ぐそいつのヒレの動きに合わせて私は漕いで、漕いで、久しぶりに息を吸った。

吸って、吐いて。

吸って、吐いて。

吸って、吐いて。

意味のある繰り返しだ。


金魚は公園を隅々まで泳いで、ふらっと見えないところまで行ってしまった。きっと夜の散歩に出かけたのだ。


夜風が肌に触れて、ぶるっと震えた。不快な感じはしなかった。それに今私は、息がしやすかった。


白衣を着る姿に憧れた。

人の役に立ちたいと思った。

高尚な理由なんてなかった。でも馬鹿にされるようなことなんて何もなかった。


「私は、人を助けたい」


いつのまにか雨が止んでいた。



私は一人で家に帰って、風呂に入って、少し寝た。帰り道に金魚に会うかもしれないと思ったけれど、赤い影は見当たらなかった。


起きて、顔を洗って、歯を磨いて、朝食を食べた。メイクをして、髪を巻いて、前髪を固めて、家を出た。毎日変わらない繰り返しだ。でも自分に自信を持つために必要なものだ。


駅まで歩いて、電車に乗った。みんな毎日を繰り返していた。


学校に着いた。教室に入った。

ーーおはよう

「おはよう」

ーー今日もまだ湿度高いね。しかもめっちゃ寒いし最悪だわ

「ね。でも曇りの日ってちょっとワクワクしない?」

ーーなにそれ。どんなところが?

「うーんなんか灰色の空は憂鬱人生けどさ、一面真っ白で眩しくて、雪みたいにキラキラしてるのは綺麗じゃない?」

ーーあそれはわかる!確かに今日は空綺麗かも


チャイムが鳴って先生が入ってくる。

ーー気をつけ、礼。

「おはようございます」


模試の案内とか、掃除当番がどうのとか言う話を手早く終わらせた先生が最後にもったいつけて言う。

ーーあと進路のこと、まだ迷っていることがある人は躊躇わずに、私でも誰か相談しやすい先生でも相談してくださいね。

こっちを見ている気がした。

ーー気をつけ、礼。

それから間を置かずに教卓まで歩いて、口を開いて、一回だけ息を吸って、吐いた。


「あの、先生」

目を見て、まっすぐに。

「話したいことがあるんです」


金魚なんていなかった。

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金魚 彩鳥るか @hibiscus1128

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