第28話 JB16 飯田橋
JB16 飯田橋
「初動が良かったのだと思います」
集中治療室から出て、別室で向き合う医師は、そう言った。机をはさんで医師の前には、美悠の両親、そしてその少し後ろに、哲哉が座った。
「信濃町でしたっけ。現場近くのクリニックの医師と看護師が、初期対応にあたったことが大きいと思います。でなければ、ちょっと、うーんと…」
「命を落としていた」、といいたかったのだろうか医師は、と、哲哉は想像した。
「運ばれる前は意識レベル
医師はいちどモニターに身体を向けたが、少し考えて、画像を映し出し説明することはやめようと思ったようであった。
「ともかくも」
医師は続けた。
「現場の応急処置と、その方たちの救急隊への的確な伝達のおかげで、われわれも状況を把握したうえで準備を整え、救急車を待つことができましたから」
たぶん、と医師は言った。
「記録から、救急車の中でサチュレーションは八十パーセント台だったんですね。酸素飽和度です。非常に危ない状態。でも、酸素ボンベで、よくがんばったなあ」
初めて医師に笑みがこぼれた。その顔を見て、美悠の母親が、わっと泣きだした。
「先生…、ありがとうございます…」
「いや、おかあさん。これからなんですよ。後遺症の程度がまだ明らかでないので、これからなんですよ」
「…はい」
ICUの美悠は、さまざまなチューブにつながれていた。人工呼吸器を使用しているので、両手は固定され、その手首には血圧測定のチューブが取り付けられている。尿もカテーテルで袋にためられているその痛々しさに、哲哉ははじめ、大きなショックを受けた。
えくぼがくっきり出たふくよかな頬は、青あざで腫れ上がり、その反対側の頬はこけている。短くてもいつも整えられていた髪は、運ばれてきた当初、糊でくっつけたようにへばりつきあっていた。その後、看護師たちにていねいに清拭をしてもらい、直視できるようにはなったものの、別人のような姿に、この先どうなるんだろうか、と哲哉は、足元から奈落に落ちていく浮遊感にも似た恐怖を感じた。
なんで自分を犠牲にしてまで、と思った。
指輪を見に行っただけだったのだ、青山に。
前日、美悠は哲哉に告げていた。
「あたし、指輪なんてあんまりしたことがないから、嬉しいんだ。でもてっちゃんに選んでもらって、ダサくて気に入らなかったら嫌だから、まずは自分で見に行ってくるよ。それで、気に入ったのを、ふたりで買いに行こう!」
美悠は楽しそうだった。指輪、あんまりしたことがないんだ―。そう言って照れていた。
こんな自己犠牲、あるんだろうか、と、目の前の美悠の姿を見て、楽しげだった彼女と対比する。そうして哲哉は、家へ帰ってもなかなか寝つけない日々を過ごした。
「哲哉くん、仕事もあるんだから、いいんだよ、毎日来なくたって」
美悠のおとうさんはそう言ったが、哲哉にとっては彼らのほうこそ心配だった。近くに宿をとって、一週間とすこしになる。おとうさんたちこそ、ここはぼくが見ていますから、いったん休んでください、と言ってみたものの、ふたりは疲れた顔に、弱々しい笑みを浮かべただけだったのだ。
それでも美悠は、良くなった。
喉のチューブが外れ、鼻カニューレにかわった。血圧測定のチューブもはずされ、看護師がパルスオキシメーターで計測する程度になった。
ほどなくしてICUから、一般病棟にうつされた。その頃には、くたびれたおかあさんがいちど山梨へ戻ったり、おとうさんが、向島の親せき宅で宿泊できるようになった。
疲れのたまったおとうさんがいったん山梨へ帰る際、言ったことばが、哲哉にとっては生涯、忘れられないだろうことばとなった。
「哲哉くんの酸素が、美悠を助けたよ」
眼下に中央線が走る。上り列車だ。その手前に、下りの総武線がパンタグラフを滑らせながら通り過ぎていく。
北向きに窓のついた個室から、日が差せば濁った深緑の外濠の水面が、多少きらきらするのを、哲哉は飽きずに眺めることができた。
頭を東側にして、美悠がベッドの上で、ベッドテーブルに向きあって、おかゆをすくっている。
「食べさせてあげようか」
以前だったら敏しょうに反応した美悠だったが、今はゆっくりと哲哉に顔を向ける。少し麻痺の残るくちびるの左端が上がって、「自分でやる」との答えが返ってきた。
折れた胸部周辺と足の骨がくっつくのを待って、リハビリに入る予定だという。搬送されてから一ヶ月とちょっと、経っていた。
ベッドテーブルの上に、美悠がぼとっとこぼしたおかゆを、ティシューでふき取りながら哲哉は、ケアされて肌色のよい彼女の顔を見つめる。それに気がついた彼女は、笑おうとするがやっぱり顔が引きつってしまうようだった。でも、なんともないや。哲哉はそう思う。
「てっちゃん…」
「なに」
「あのひとたち…。あのひとたちはどこかな」
あのひとたち? 哲哉は美悠の言わんとしていることをさぐりあてようと、逆に質問をしてみる。
「美悠が助けた人たち?」
はて、という顔を、彼女はした。それから美悠は、「うーん」と言って、それよりも、あの人たちだよ、と繰り返した。
「事件にあった人たち?」
「事件にあった、…人たち?」
美悠は哲哉のことばを、オウム返しにした。そうか。事件だなんて、わかっていないもんな美悠は、と哲哉は考え込んでしまう。それではあの人たちって、いったい、と哲哉が考え続けていると、美悠がひとつひとつを正確に思い出したいというように、ゆっくりとことばをつないでいく。
「山梨のひいおばあちゃんや、向島のおじいちゃんがいたんだよ」
「どこにっ?」
うーん、という表情をして美悠は、「わからないけれど」、と答えた。
「だからあたし、嬉しくなってそっちへ駆けていこうとしたら、みんながしっしっ、って…」
ぎこちなく、右手で追い払うゼスチャーをしながら美悠は、「それでもあたし、そっちへ行きたくて」、と言った。
「だからね、ついていこうとして、前を歩いていた女のひとに」
「女の人っ?」
「うん、女の人…」
「だれ? どんな人?」
「どんな人、って、髪が肩くらいまでで、少しウェーブしてる人」
「看護師さん?」
「看護師さん…。そうなのかな…。でも、淡い花柄のワンピース、着てたよ」
五十歳くらいで、優しそうな、でも、ときには気が強そうな、日本のマダムみたいな感じの人。
「…」
「その人についていこうとしたら、その女の人、振り返って、『あなた、こっちじゃないわよ』って」
ひいおばあちゃんもおじいちゃんも、来るな、来るな、っていうし、その女の人も、こっちじゃないわよ、を繰り返すし、あたし悲しくなっちゃって、それでも追いかけようとしたら、ヤーレンソーランっていうじゃない?
「ヤ、ヤーレン、ソーラン?」
「そう。なにあの、ヤーレンソーランって?」
こっちが聞きたいな、と、哲哉は思った。それでも美悠は夢心地の顔をして、
「どっこいしょー、どっこいしょー。ソーラン、ソーラン、って。たくさんの手が伸びてくるんだもん」
と、両手で糸を
「どっこいしょー、ヤーレンソーラン、って言われるたびに、くるくる巻かれちゃうのよ」
「ま、巻かれちゃう…」
「そうなの。うふふ。やあねえ、さかなじゃないんだから」
あ、頭が…? 哲哉は心底心配した。でも美悠はまるで昨日、現実におこったことのように、それでひっぱられちゃったの、あたし、と言った。どんどんどんどん、そっちへ引っ張られちゃったの。
「それから空気が口と鼻にいっぱい入ってきて、手が…」
美悠は哲哉に手を伸ばした。哲哉はその手を両手で受けとめた。
「そう、そう。この手。この手があたしの手を握ったと思う」
それは確かだ。哲哉は思った。哲哉の両手を、美悠はほおずりした。
「そうよ。この手が、あたしの手を握ったのよ」
あの人たちは、みんな無事だったよ。
「もうおなかいっぱい」と言って、食事のトレーを押しやると、ベッドを倒して横になった美悠の顔を見ながら、哲哉は心のなかで彼女に話しかけた。
骨折した白杖の女性は、つい先日退院し、今はリハビリのために通院しているそうだ。
加害者は…。彼は、とてもでないけれど、入院費や、その他を、訴訟で請求できる相手でもなさそうだった。山梨のおとうさんはそれを承知していて、なんとか、最善の方法を見つけるよ、と言っていた。
あの女の子は…。
今でも耳に残る彼女の声。
「もしもし、もしもしっ。あのっ、あのっ。助けてッ。助けてくださいっ!」
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