第27話 JB15 市ヶ谷
JB15 市ヶ谷
「おっまえ、遅いよっ」
開口一番、父はそう言った。
「…」
非難のことばを浴びせられて、むっくれている逸平太から紙袋を受け取ると、そのまま隆弘はビルの十一階フロアへ引き返した。その間逸平太は、植え込みのコンクリート端に腰をかけて、携帯で時間を確認する。午前十一時。
十五分ほどして地上に戻ってきた父、隆弘は、逸平太から渡された紙袋に、前日着用していたワイシャツとスラックスを、無造作に突っ込んでいた。手渡されるかと身構えた逸平太だったが、父はそうせず、自分で紙袋をぶら下げながら歩き出した。
いつものパターン。子どものころから。どんどん先へ行く父親と、その背を追いかける子ども。
「あのさあ」
先を歩いていた父が、振り返る。
「外堀通り歩いて、市ヶ谷まで行っていい?」
お? 逸平太は少々驚いた。父が、同意を求めてる。少しばかりうれしくなって逸平太は、だけれどわざと、
「ここ、飯田橋なんだから、
と、駄々をこねるように、提案してみた。
「おまえ、神楽坂、知らねえな」
そう言われて逸平太は、またしても仏頂面に戻る。
「あの辺りはたいてい、夜開くよ。早くても昼十二時前後かな。あとはうちの近所とおんなじ、駅前のチェーン店」
「うーん」
「おまえ待ってる間に、腹減っちゃって、コンビニのおにぎり二個、喰っちゃったよ」
食事に誘ったの、そっちじゃん。どういう計画性してるのさ、と不満顔で逸平太は、父親のあとに続いて、外濠側へ、横断歩道をわたる。
飯田橋駅からくだった一駅先の市ヶ谷までは、南側にJR線、北側に外堀通りが、
「春は桜が、きれいなんだよなあ」
「なんかそれ、高尾かどこかでも言ってなかった?」
外濠の桜並木は崖下に植えられているため、歩道には幹半分が姿を現しているだけで、暑い日差しの日陰にもならない。
「…中央線」
逸平太はあらためて、堀の向こうに行き来する、電車に目をやった。
「おもしろいよな。ぎりっぎりだろ、外濠に」
「あんまり考えたこともなかったけど、言われてみれば、そうだよな」
「中央線を
桜と桜のあいだから、ふたりして外濠を眺める。
「きたねえな」
「よどんでるだろ」
「臭う?」
「いいや。きっと水質浄化に苦心してるんだと思う。流入水がないからね、お濠は」
歩き出しながら隆弘は、右手を指して解説をはじめる。
「濠と反対側の、あっち側の高台はさ、神楽坂だけじゃないんだよ。坂だらけなんだ。いちど覚えたんだよなぁ、名前」
ひま
「歌坂、
「すごいかな…」
「退職したら、東京の坂名人になってやろうかと思った時もあってさ。でも、そういうこと、もう、別の人がやってんの。やってんだよ、すでに」
「うん、かもね」
「つーまんねえな。…つまんない」
「いいじゃん。だれが、なにをやっても。おんなじことだって、その人なりのやり方があるんだから、いいじゃん」
うん、まあ、と言いながら父は、つまんないってのはさ、と続ける。
「おかあさんと、やってみたかったんだよ、そういうの、ってことで…、さ」
逸平太はその時、なんだか父親が、ひとまわり小さくなったような感じがした。
「あ、ああ…。そういうことか…」
ほれ、と言って、父親は堀対岸を指さす。
「あ。病院」
父、隆弘はいちど、歩みを止めた。
「会社帰りときどき、まあ、煮詰まっちゃった時とか、運動不足の時なんかに、飯田橋から市ヶ谷まで歩いてたの。でも、おかあさんあそこに入退院するようになって、それであそこで死んじゃってからは、ここ歩くの、なんだか、できなかったんだよね」
そうだったんだ、と逸平太は思った。
「でもさ、今日、なんかおまえとだったら歩けるな、って感じ」
「へへっ。そう?」
対岸の病院の建物に目をやりながら隆弘は、「まだ半年しかたってないなんて、実感ないな」、と言った。逸平太も同じ感覚だった。
「三年ぐらい経った気がするよね」
「そうだな」
あのさあ、と言いながら、逸平太はもういちど父に確認したいことを口にした。
「おふくろ、安らかだったんだよね?」
父親は逸平太の顔を見た。
「そうだと、思うよ」
病の痛みも、治療の痛みもすさまじかったけれど、あの病院の緩和ケア病棟のスタッフさんたちや、在宅医の青井先生のチーム、それから麻里さんたち、みんなのはからいのおかげで、あそこまでたどり着けたんだと、今は思う、と父親は逸平太に告げた。
「両足にチアノーゼがではじめて、いよいよかなっていう時、会社から近かったから、すぐに駆けつけられた。おまえには悪かったけど」
「いや…」
「その二日前にはさ、五秒くらいだけだったけど、目をあけたんだよ。それでおれと目があったの。単なるさ、身体反応だったのかもしれないけど。だから、耳元でいっぱい話しかけて、彼女の好きな音楽も聴かせてあげられたし」
「良かったね」
「クリスマスイブの新月の満潮時刻、午後四時くらい。産まれる日だよな、ふつう」
「キリストじゃないからさ。いいじゃない。新月だったら、街の灯りがよけいにきれいだったんじゃない?」
「そういうの見ている余裕ない。でも、中央線や総武線が行きかう様子は、病室の窓からよく見えてさ。ああ、みんな、生きてんだなあって」
―みんな、必死に生活してんだなあ、って…。
―おかあさんとは人の紹介で出会って、なんかあんな、上品そうっていうか、ピアノなんか弾いてる人、おとうさんみたいなの相手にしないと思ってたけど。でも、結婚してみたら、あんがい気が強くって、コテンパンにやられちゃうときもあった。そうだなぁ。なんていうんだろうなぁ。夫婦として、合ってたっていうのかな。
まあ、自分のメンツや欲も大きかったけれど、おかあさんに喜んでもらいたいっていうのもあって、杉並の、閑静な住宅地に、ピアノ置けるいい家建てようって。けっこう無理して働いた。社内の競争も仕事のノルマも、すべて厳しくて、こういうの人生か? って、幾度も考えたけど。
おかあさんの理想の…。なんであれ、理想なんだろうなぁ。アルプスの少女ハイジに出てくるペーターに、おとうさんもおまえも、まったく似てないタイプで。でも、父からも母からも一文字も受け継いでない名前付けられた息子は、彼女にとって、そこそこ、自慢だった。だから楽しそうで―。楽しそうだったから、それから自分がひどく忙しかったから、気が付いてやれなかった。
病魔に―。
人は誰でも死ぬ。でも、その社会における平均寿命からちょっと離れちゃうと、本人にもまわりにも、衝撃と打撃が大きいことってあるかも知れないよな。うちみたいに。きっとおかあさんは、やり残したことがいっぱいあるんだろうと思う。きっと、いっぱい、いっぱい、あったんだろうな。
でも、ひとあし先に向かわなければいけないことを、いろいろな後悔と、それと、あまり考えたくないことだけれど、恐怖と一緒に、ひとつずつ自分に納得させていったのかな、と、思うよ。それは、すごく、すごく、大変で辛いことだったんじゃないかと想像するんだ、おれは。だから今さらながら、わが妻は立派だったって―。
でも、死んでほしいわけないじゃん。ずっと一緒にいてほしかったし、なんで今ここにいないんだろうって思うよ。本当は本人だって最後まで納得できなかったし、おれもそう。
だけどね―。
夢みたいだな、すべてが。ひと夜の夢みたいだ。おれもいつか死ぬ。おまえも死ぬ。みんな、みんな、いつかは死ぬ。好きだった人も、そうでなかった人も。協力しあえた人も、敵対した人も。みんな―。
そう語って父は、逸平太に、
「おかあさーんっ、って叫びたくねえ? こっから、病院に向かって」
といきなり、むちゃくちゃな問いを投げかけてきた。逸平太が困惑しながら、「…ない」と答えると父は、こう返答した。
「おとうさんは、妻よーっ、ってやってみたいよ」
「よしてね」
「…うん」
結局、市ヶ谷駅そばの、ロースカツカレーだった。カウンターだけの席は、埋まる直前で、椅子とりゲームのようにふたりは、真ん中の、空いているふたつを確保した。
父親の定年時には、神楽坂の高級料理店で宴会でもひらいてやろうかと、一瞬考えた逸平太だったが、ロースカツカレーさえも券売機で別々に払った父親に対し、果たしてそれが、報いるに見合った行為なのか、迷ってしまう。そんな逸平太に頓着なく隆弘は、
「華がないってのは、さびしいよな」
と、言い放つ。
「え?」
「おまえ、彼女いないの?」
父親はカレーをすんでのところで、よれた半袖シャツにこぼしそうになりながら言った。親には詮索されたくないと、逸平太が押し黙っていると、隆弘が「いないんだ」、と、たたみかけた。
「あんまり、自分ばっか可愛がってると、いき遅れちゃうよ」
逸平太は、反射的に「縦」に握ったスプーンを、かろうじて「すくう持ち方」に握りなおした。
おふくろだったら、五倍にして、言い返してたかな。逸平太は想像する。
親父が死んだら、おふくろと一緒の墓に入る。それでたぶんだけれど、おれも。おれが結婚できたら、妻は同じ墓に入ってくれるだろうか。楽しい墓の中かな。わっはっはっ、ってみんなで笑っていられる墓の中だろうか。
そう考えながら逸平太は、キャベツとカツを一緒くたに、口の中に放り込む。
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