喫茶店のナポリタン
休日の午後、カズとリョウはなんとなく街を歩いていた。
特に目的はない。ただ天気がいいし、適当に散歩しながら昼飯を食べられる店でも探そうか、そんな気分だった。
春の気配が近づいているとはいえ、まだ肌寒い風が吹く。二人はマフラーを巻いて、並んで歩いていた。
「なんか、よさげな店ないかなー」
「いつも行ってるとこじゃなくて?」
「いやー、せっかくだし新規開拓したくね?」
カズが首を巡らせながら言う。リョウは「まあ、いいけど」と返しながら、特に店を探す素振りも見せずに歩き続けた。
商店街を抜け、大きな通りから一本入った静かな路地に入る。ふと、カズが立ち止まった。
「なあ、あれ……」
彼が指差した先に、古い喫茶店らしき建物があった。
木製の扉と小さな窓。窓際には観葉植物が並び、控えめなカーテンがかかっている。
しかし、どこにも店名の看板がない。メニューの張り紙すらない。
「……店、だよな?」
「たぶん」
「でも、看板ないぞ」
カズは首を傾げながらも、扉の前に立つ。ドアノブに手をかけると、軽く押しただけでゆっくりと開いた。
中からはコーヒーの香ばしい香りがふわりと流れ出ている。
「……入ってみる?」
「よし、行こう」
二人はそっと店内へ足を踏み入れた。
*
中は驚くほど落ち着いた雰囲気だった。
木目調のテーブルと椅子が並び、壁には古い映画のポスターやレコードが飾られている。
レトロなペンダントライトが、やわらかい光を落としていた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥にいたマスターが静かに声をかける。
白髪混じりの短髪に、黒いエプロン。無駄な動きのない落ち着いた仕草が印象的だった。
「どうぞ、お好きな席へ」
客は他にいないようだった。
カズは窓際の席を選び、リョウもそれに続く。椅子に腰を下ろすと、どこか懐かしいような安心感に包まれた。
「すごいな、この雰囲気。めちゃくちゃ良い」
「古いけど、ちゃんと手入れされてるな」
しばらくすると、マスターがメニューを持ってきた。
開くと、驚くほどシンプルだった。
・ナポリタン
・コーヒー(ホット・アイス)
「選択肢、少なっ!」
「はは、逆に迷わなくて済むな」
二人は顔を見合わせて、小さく笑った。
「ナポリタン、と、コーヒーも二つで」
「かしこまりました」
マスターは淡々と注文を受け、カウンターの奥へ戻っていった。
*
店内には穏やかな時間が流れていた。
カウンターの向こうでは、静かに調理の音がする。トントンという具材が刻まれる音、パスタが踊るように炒められる音。
ふと、甘酸っぱい香りが漂ってきた。
「……なんか、すげえいい匂いする」
しばらくして、ナポリタンが運ばれてきた。
白い楕円形の皿に、鮮やかなオレンジ色のパスタがこんもりと盛られている。白い楕円形の皿に、鮮やかなオレンジ色のパスタがこんもりと盛られている。
ふんわりと立ち上る湯気には、炒めたトマトソースの甘みとスパイスの香りが溶け込んでいた。
麺に絡まっているのは薄くスライスされたピーマンと玉ねぎ、輪切りのソーセージ。見るからに美味しそうだった。
「粉チーズとタバスコもこちらに置いておきますね」
「ありがとうございます」
「うわ、うまそ……」
カズは早速フォークを手に取る。くるくるとパスタを巻き取り、口へ運んだ。
「……ん!!うまっ!」
甘めのケチャップのどこか懐かしい味わい。酸味と甘みが絶妙に絡み合い、ほんのり香るバターのコクがそれを引き立てている。
もちもちとした太めの麺に、野菜の歯ごたえ。炒めたことで少しだけしんなりとしつつも、噛めばシャキッとした歯ざわりが残る絶妙な火の通し加減だ。
リョウも一口食べて、目を丸くした。
「……ナポリタンって、こんなにうまかったっけ?」
「なんかさ、家でもナポリタン作れるけど、こういう店の味って出せないんだよな」
「たぶん、火加減とか炒め方とか、ちょっとしたコツがあるんだろうな」
リョウはそう言いながら、じっと皿を眺めた。
ただのナポリタン。だけど、喫茶店のナポリタンには、家庭では再現できない“何か”が詰まっている。
それが何なのかはわからないけれど、食べていると妙に心が落ち着いた。
二人は夢中でフォークを動かし、あっという間に皿の上からナポリタンが減っていった。熱々だった麺は、時間が経って少し落ち着いたが、それでも味は変わらず濃厚で、最後まで飽きることなく食べられる。
カズはフォークをくるくると回しながら、ふと顔を上げ、マスターに話しかけた。
「あの、このお店って、前からここに?」
マスターは少しだけ目を細める。
まるで記憶を手繰り寄せるように、一瞬視線を落としてから、静かに頷いた。
「ええ、もう五十年になります」
「五十年!?」
カズが驚きの声を上げる。
店内を見回してみるが、そんなに長く続いているようには見えない。
確かに古いけれど、家具も内装もどこか洗練されていて、くたびれた感じがしない。
リョウも少し驚いたように口を開く。
「ずっと、ご家族で?」
「はい。父の代から続けていましたが、十年ほど前からは私一人でやっています」
マスターの穏やかな声が、静かな店内に響く。
「でも、ここ十年くらいは常連の方しか来ないので……看板も、外してしまいました」
その言葉に、二人は思わず顔を見合わせた。
カズは改めて店の外観を思い出す。確かに、扉の上にも壁にも、店の名前は書かれていなかった。普通なら、そんな店に気づくことすら難しい。
「じゃあ、もう新しいお客さんはあんまり?」
「ええ。でも、それでいいんです」
マスターはどこか遠くを見るような目をしながら、静かに微笑んだ。
それは寂しげでもなく、ただ淡々と事実を語るような表情だった。
「もともと、うちは宣伝もあまりしませんでしたし……こうして、偶然見つけてもらえるのは、むしろ嬉しいことです」
カズはなんとなく照れくさくなり、鼻の頭を指でこすった。
偶然見つけた店で、こんなに美味しいナポリタンに出会えるなんて思わなかった。
「でもこんなにウマいのに勿体なく感じちゃうなぁ」
すると、マスターは少し目を細め、柔らかく笑った。
「こうして気に入ってくれた人がまた来てくれるなら、それで十分ですよ」
その言葉は、どこか重みがあって、静かに心に響いた。
商売として店を続けるのではなく、本当に好きなものを、好きな人に提供するためにやっている——そんな風に感じられた。
リョウはナポリタンの最後のひと口をフォークで持ち上げ、じっくりと味わいながら飲み込む。
トマトの甘みが舌の上にじんわりと広がり、噛むたびに小さな余韻を残していく。
この店の料理には、ただ美味しいだけじゃない、どこかあたたかいものが詰まっているように思えた。
カズも皿の最後のソースまで綺麗にすくい、満足げに息をつく。
「うまかったー……これ、また食べたいな」
「その時は、また来てください」
マスターの静かな言葉に、カズは嬉しそうに頷いた。
外の喧騒とは切り離されたようなこの店の空気が、なんだか心地よかった。
時間がゆっくりと流れ、二人はしばらく余韻を楽しむように、静かに食後のコーヒーに手を伸ばした。
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