籠の中

宮塚恵一

「あ、光った」


 俺の隣で果穂が静かに呟く。少しだけ蒸し暑い闇の中、色鮮やかな花火が夜空に咲き誇る。それから、どうんと大きく音が鳴り、一瞬だけの空の花はすぐにぱらぱらと散っていく。


「そんな、雷じゃないんだから」


 夏祭りの花火に対しての果穂の言葉に、俺は少し笑ってしまう。それを見て、果穂はムッと眉間に皺を寄せて俺を睨んだ。


「えー、何か問題ある?」

「いや、別に。ほら、また上がった」


 俺はこれ以上果穂の機嫌を損ねる前にと、夜空を指差す。俺も果穂も、次々に夏の空を彩る花火をじっと見つめた。高校最後の夏休み、ここで勇気を出さないといけないと、俺は唾を飲む。


「なあ、果穂」

「なに? りゅうくん?」


 心臓が高鳴る。お互いに声が震えているのと、果穂の横顔がほんのりと赤くなっているのが分かる。俺はぎゅっと目を瞑った。瞳の裏側に、果穂との思い出が巡る。高校に入って、たまたま同じクラスになって、学祭の準備係になった。それで一緒に帰るようになって。一目見た時から可愛いと思っていた彼女との接点が増える度、俺は天にも昇る気持ちになった。そんな彼女を夏祭りに誘って、他の友達の輪から抜け出して、こうして二人で夜空に咲く花火を見ている。


「好きだ」


 俺は目を開けるのと同時に、勢いに任せて口を開いた。これ以上言葉を悩んでいても、後悔するだけだと思ったから。


「付き合ってください」


 体全身が震えている。自分の気持ちを口にするってのは、こんなに大変なことだったんだっけ。俺の言葉を聞いて、果穂がこちらを向く。それから、大きく息を吐きだして、俺と同じように唇を震わせながら口を開いた。


「私も」


 時間が一瞬にも永遠にも思える。幸福なこの一時が、ずっと続いて欲しいと願う。


「私も好き」



🍀


隆也りゅうやもスミに置けないな」


 Webカメラの向こう側で、克樹かつきが笑った。金曜日の夜、俺と克樹は昔から一緒にプレイしているFPSシューティングゲームのマルチプレイに潜りながら、こうしてお互いの近況報告をする。とは言っても、中学3年の春から克樹は家に引き篭もっているから、克樹に俺が一方的に学校であったことや、悩み相談をすることが多い。果穂を夏祭りに誘うのも、克樹が背中を押してくれた。


「克樹のおかげだよ」

「いーや、お前が良い男だからだよ」


 克樹が俺を見てニヤニヤと笑う。明らかにからかいを楽しんでいる笑顔だ。

 夏祭りの告白が成功して一週間が過ぎていた。俺と果穂が付き合い始めて、何が変わったということもあまりないが、果穂に想いを伝えられたこと、彼女も同じ想いでいてくれたことがはっきりと形になるというのは、それだけで幸福だ。


「キスはしたのか?」

「ばっ……!」


 画面の中で、俺の操作しているキャラが敵プレイヤーの銃撃を浴びて倒れる。克樹の問い掛けに完全に手元が狂った。


「そういうのは、その、まだ……」

「おいおい、今時の若者がそんなんで良いのかよ」

「今時とか若者とか関係ねえって。まだ、つ、付き合ってから一週間だぞ?」

「そのくらいの時期が一番距離が縮まるだろ、知らんけど」

「うっわ、無責任」


 しどろもどろになる俺を見て、克樹が楽しそうに笑う。画面の向こう側にいる克樹は、昔と変わらない。昔から整った顔立ちだったが、最近更に輪をかけて格好良くなっていると思う。今の克樹がウチの高校にいたら、きっとモテるだろうに。それでも、克樹は外に出ることはできないでいる。けれど高校に通うことはできなくても、通信制の授業を受けて、俺より勉強もできる。俺も勉強をサボっているわけじゃないのでそのことは正直、かなり悔しい。


「克樹、ホントありがとな」

「何がだよ。それは俺のセリフだろ」


 ニヤニヤと口を歪めていた克樹の顔が、一瞬で真剣なものになった。それからカメラ伝いに俺を見て、わざとらしく咳払いをする。


「俺みたいな引き篭もりのクズに付き合ってくれる隆也にこそ感謝だよ」

「克樹はクズなんかじゃないだろ」


 克樹の自分を卑下する言葉に、俺は食い気味で反論する。克樹が引き篭もり始めたきっかけは、妹の死だ。二つ年下の克樹の妹が、学校の屋上から落ちて死んだという事件は、克樹を外の世界と断絶させる理由として充分だった。

 それでも全部を諦めないで、今できる最大限を模索する克樹を、俺は親友として尊敬している。克樹が頑張っている姿を見ているからこそ、俺も色々なことに対して、一歩踏み出せる。


「ほら、しっかり動けよ」

「おう。そっち任せた、隆也」


 何だか照れ臭くなって、俺はゲーム画面に集中する。克樹の方も、特に何を言うでもなくゲームの中で銃を構える。俺もそれに続こうとしたところで、ピロンとスマホの通知音が鳴った。果穂からだった。


『日曜日、楽しみだね!』


 そんなメッセージに続けてハートマークいっぱいのスタンプが送られてくる。週末、果穂とは遊園地に行く約束をしていた。俺はそれを見て思わず顔が綻んで、画面の中ではまた操作キャラが倒れる。


「集中!」


 そんな俺に対して、克樹の呆れたような、それでいて楽しそうな声が響いた。



🪵


 コンクリートが、赤黒い液体で染まる。視界がボヤけて、その気味の悪い液体を垂れ流しているモノが、何重にも見える。背後からは果穂の啜り泣く声が聞こえてくる。うるさい。ハアハアと疲れ果てた吐息も聞こえる。うるさい。その吐息は、俺のすぐ近くから聞こえてくる。違う。これは俺の息だ。


「ゴボッ」


 ボヤけた視界の向こうで、血を垂れ流していたモノが痙攣する。打ち所が悪かったのか、ドクドクと体液を流しているにも関わらず、時折呻き声のような響きと共に、それはビクビクと動きを止めてくれない。一瞬、ボヤけていた視界がバチっと元に戻る。俺でも明らかに致死量とわかるだけの血を流している克樹がそこにいる。


「う、うぐう」


 俺は思わずその場で膝をつく。胃の中から、夕飯に食べたラーメンがごっそりと腹の外に出て、俺はそれを勢いよく吐き出す。吐瀉物がべちゃりと克樹な体にもかかった。俺は克樹と一緒に遊んでいたゲームのことを思い出す。散々遊んでいたソフトのセーブデータが壊れて、復旧できなくなったことがあった。あの時も、目の前が真っ白になりそうだった。何かの間違いだと自分を誤魔化して、夢だったら良いのにと、時間を昨日に巻き戻せたら良いのにと、涙が込み上げそうになったところに、克樹は親身になって慰めてくれて「また一緒にやっていこうぜ」と言ってくれた。


 ──そんな克樹は今、俺の前で情け無く、ビクビクと体を震わせている。頭からはドクドクと流血が止まらない。その下半身は汚物に塗れて、排泄物の臭いがツンと鼻を刺激する。それに気付くとまた吐き気に襲われた。


「りゅうくん……」

「話しかけないで」


 果穂に話しかけられ、思わず強い口調で拒絶した。どうしてこうなってしまったのか、頭の中を悔恨の念がぐるぐると回る。



🔥


 克樹から「今日は外で隆也と会おうと思うんだ」と連絡が来たのが、何時間か前のこと。俺は克樹のその申し出に、心から喜んだ。克樹がまた部屋の外に一歩踏み出せるなら何でも良いと、その時は思った。俺は心躍らせながら、待ち合わせ場所へ向かった。中学の頃の通学路の路地が、克樹の指定した場所だった。他人の目が怖いからと、日が沈んだに克樹と会うことを約束してその場に向かう俺を待っていた光景に、俺は言葉を失った。

 克樹が見慣れた路地で、誰かとキスをしていた。急に飛び込んできた光景に俺は思考を停止する。克樹は俺に気付くと、その誰かから離れて俺に手を振った。


「待ってたよ」

「克樹、お前……」


 克樹とキスをしていた誰かが、こちらを振り向く。その顔を見て、俺は更に混乱した。

 ──そこにいたのは、果穂だったから。

 果穂もすぐに俺に気付いた。その顔から血の気がさぁっと引いて、青白くなっていく。そんな果穂を見て、克樹は心底汚らしい物を見るかのように顔を歪めると、急に彼女の背中を蹴飛ばした。


「お前……ッ!」


 俺は思わず克樹に飛び掛かった。克樹は抵抗せずに俺に掴まれる。そして今度は俺の眼をじっと見つめた。


「わかんねえのか、隆也」

「何が」

「こいつはクズだ」


 克樹は俺にスマホの画面を見せる。それは果穂とのメッセージ記録だった。克樹からの誘いに、俺にするのと同じように果穂が応えている履歴がチラリと見える。


「りゅうくん、違う……違うの」


 青白くなった顔と唇を震わせて、果穂が涙を流す。克樹はそんな彼女を見て、鼻で笑った。


「何が違う。お前、気付いてないだろ」

「え?」


 果穂が顔をぐしゃぐしゃに濡らしたまま、克樹を見る。克樹は唸るような声を上げた後、果穂を睨みつけた。そして鼻息を荒くして、叫ぶ。


「妹が死んだのは、お前のせいだ!」



⚫︎


 克樹の妹、優希ゆきを屋上から落としたのは、果穂が当時付き合っていた彼氏とそのグループによるイジメの一貫だったと克樹は語った。克樹と俺は地元の公立中学に進学したが、優希は私立受験に合格して、共学の進学校に通っていた。果穂もそこの卒業生であることは、俺も克樹に聞いて初めて知った。果穂もあまり中学の頃の話はしたがらなかったし、俺もそれを察してあまり話題にはしなかったからだ。けれど、もしかしたらこうなる前に、それを知ることができていれば、何か別の道もあったろうか。


「克樹……」


 あまりの気持ちの悪さと吐き気に襲われ続け、頭の中が逆にスッキリとしてきた。俺は立ち上がり、目の前にある克樹の死体を見下ろす。もう痙攣はしておらず、流血も収まってきて、微動だにしなくなった。

 克樹が豹変した様子で果穂を蹴飛ばして、俺に興奮気味で果穂のせいで優希が死んだのだと語ったあの後、克樹は鞄の中からナイフを取り出した。研がれてすぐなのか、ピカピカと刃の輝くそのナイフを持ち出して、克樹は果穂に襲い掛かった。俺は初め、呆然とその様子を見ていた。克樹が言っていたことも頭に入ってこなかったし、今目の前で行われている凶行の理解ができなかった。


「ただでは死なせない。苦しんで苦しんで苦しんで、苦しんでもらわないと、妹も浮かばれない。なあ、そうだよな、隆也!」


 俺にそう語り掛ける克樹の目は、大きく見開かれていた。あの目はきっと、俺に同意を求めていたのだと思う。克樹は手とナイフで果穂の服を切り裂き、裸にひん剥くと、涙を流しながら下半身を露出した。泣き叫ぶ果穂と、獣のように咆哮する克樹を見て、俺が咄嗟に取った行動は、ナイフを持った克樹にもう一度飛び掛かることだった。俺はナイフを持ったままの克樹と取っ組み合った。昔だったらきっと、克樹の方が力は上だった。けれど、引き篭もっていた克樹の力は衰えていて、俺もそれがよくわかっていなくて。

 ──俺は克樹を止めたい一心で克樹を突き飛ばした。克樹が手からナイフを滑り落とす様子は、俺の目には丸でコマ送りのようにスローに見えたのはきっと、その後の最悪の展開を考えてしまったからだ。

 そして事実、そうなった。

 克樹は足を滑らせ、勢いよく頭を壁に打ち付けた後、そのまま地面に落ちていったナイフの切先に背中から押し込まれた。


「あ」


 と、俺も克樹も思わず声をあげた。克樹の心臓にナイフが刺さって、壁に強く打ち付けた頭からはダラダラと血が流れていった。そのまま克樹が泡を吹いて痙攣を始めるまで、そう時間は掛からなかった。

 人間は脆い。脆すぎる程に。


「りゅうくん……」

「わざとじゃない」


 壊れたスピーカーみたいに俺の名前を呼び続ける果穂に、俺は呟く。


「果穂もそうだろ」


 俺は果穂の中学時代を詳しく知らない。だから、克樹の言うことの全ては信じられない。それに、克樹が見せてきた履歴のことも深く掘る勇気は今、俺にはない。


「馬鹿野郎が」


 俺は克樹の背中から、ナイフを抜いた。血塗れのそれを俺は果穂に向ける。果穂はビクリと体を震わせて、首を激しく横に振った。俺に対して、怯えているその事実の意味も、俺は考えたくなかった。俺は苛々を覚えて、ナイフを地面に叩き落す。


「逃げよう」


 俺は果穂の手を取る。果穂は驚いた調子だったが、俺に引っ張られるままだった。俺と果穂は路地から出る。逃げられなんてしない。そんなことは馬鹿な俺でも分かっている。だから、警察にも後から連絡しないと──。分かってる。分かってると俺は自分に言い聞かせた。けれど今は、今だけは思考を閉ざして。俺は、果穂の手を強く握り締めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

籠の中 宮塚恵一 @miyaduka3rd

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ