第5話 母の歴史〈幼少期〜青春期〉
母は美しく聡明で、気さくで明るく、常に前向き。負けん気の強いところもある人でした。
母の生まれは九州。生家(父方)は造船所を営んでいました。造船所を継いだ祖父が大阪に修行に来ていた時に富山の網元のお嬢さんと知り合いになり、恋仲になり、結婚したそうです。当時はまだ見合い結婚が主流で、恋愛結婚は珍しい時代でした。
二人の馴れ初めについては、遂にどちらも子供達に話す事なくあちらに渡ってしまったので、今となっては全く分からないと、母の弟である叔父が言っていました。
そのお嬢さん、祖母ですね。結婚の許しを親に申し出たとき、曽祖母は「大阪だったら富山から近いし、まあ良いでしょう」と許したつもりが、あっという間に九州に連れ去られ地団駄踏んで悔しがったそうです。
なので祖父は、「毎年お盆には必ず里帰りさせます」と祖母の両親に約束しました。それは祖母が亡くなる少し前、身体が動かなくなり里帰りできなくなるまで何十年も続けられました。
さて、母は四女一男の長女。大切に育てられたようです。
立派な御殿付きのお雛様の前で座る幼い女の子二人のセピア色の写真。向かって右側のくりっとした眼の可愛い女の子は母です。左側は母の従姉妹に当たる方です。このお雛様は、毎年学校行事の為に貸し出しをしていたのだと母ご自慢のお雛様でした。
お雛様と言えば、私が生まれた時に「お雛様を買ってあげて」と祖母から貰った祝い金は、若い夫婦の生活費に消え「あなたのお雛様、食べちゃった」と笑いながら話してくれた事がありました。
「あなたがお嫁に行く時は内裏雛を買ってあげる」と約束していた記憶は遥か彼方に消え去り…幻のお雛様となりました。
二人のお祖母様(曽祖母=祖父の母)は可愛い孫達に兄弟石のアレキサンドライトの指輪をプレゼントしてくれました。太陽光と電灯で青緑から赤紫に色が変わる石です。直径が13ミリほどの石。どのくらいの価値のものかは分かりませんが、出入りの宝石商があったなど、裕福な暮らしをしていたようです。
しかし戦争に祖父を取られ、戦後祖父は無事に帰還したものの持っていた国債は全て紙切れに。造船所は廃業しました。そして今後の生計をどう立てるべきか悩んでいた祖父に曽祖母は、
「子供を育てるなら食品を扱う店をすれば、卸値で食べ物が手に入る」
と進言し、祖父と祖母で食品や雑貨を扱う店を始める事になりました。当時は近辺にそのような店はなく、今で言うところのコンビニの走りみたいな店で、大層繁盛したそうです。
祖母が身体が弱かったので、中学・高校時代には学校によく連絡が来て、「直ぐにお家に帰って下さい」
と先生に言われ、手伝いの為に早退をしていたそうです。当時女性はあまり乗らなかった自転車に乗り、近所から「てんば(お転婆の意味)」とからかわれながらも、持ち前の気さくさでひらりと躱しながらネギ一本からでも配達の手伝いをしました。
店の手伝いに、家事の手伝い。自分の時間はいつも夜十時過ぎから。しかし祖父は母の成績を見て、
「なんだ、こんな成績しかとれないんか?」と。
カチンときた母は持ち前の負けん気を発揮。毎日夜中の二時まで勉強し、遂には学年トップに。卒業式には学年代表で答辞を読みました。母のすぐ下の妹である叔母は在校生代表で卒業式に出席したのですが、答辞を読む母の脚が緊張でブルブル震えていたのをよく覚えていて、私にその思い出を面白おかしく話してくれたものでした。
母は絵も上手で高校では美術部の部長もしていたそうです。良く家計簿の端に綺麗な女性のイラストを走り書きしていたのを憶えています。それなのに、母が描いた絵は全く見た事がありませんでした。
先日、叔母から母の描いた絵を受け取る機会があり、私は初めて母の絵を見ました。木の板に直接油絵具で描いたガーベラとカーネーションの花束。深みのある、とても良い絵だと思いました。今は我が家の壁を彩ってくれています。
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