第4話 愛され方が、分からない.4
いつの間にか、駆け足になっていた。
一日の締めくくりである、帰りのホームルームの終わりを知らせるチャイムが鳴ったときは、私はまだ靴箱あたりを早足で移動していたはずなのだが、階段を上がり、廊下に出てからはすっかり走り出していた。
軽く息を切らしながら、教室へと向かう途中、ファンらしき生徒たちに声をかけられたが、今は忙しいと、振り払うようにして追い抜いた。
手に掴んだ紙切れが、風を受けてばたばたと揺れる中、やっと教室へと辿り着く。
花月は今までで一番教室を遠くに感じていた。
まだほとんどのクラスメイトが残っている中、急いで時津の姿を探す。別に急ぐ必要はなかった。
用事がなければ彼女は、放課後には資料室に行くので、決していなくなりもしないし、会えないこともないはずだから。
それでも花月の動作は機敏にならざるを得なくなっていた。
クラスメイトの視線が突き刺さる中、一人、興味のない様子で鞄に教材を詰め込んでいる時津を見つけた。
ほっと胸を撫で下ろし、深呼吸して落ち着いてから時津の席のそばに移動する。
数メートル近づいたところで、彼女も花月の存在に気付いたらしく、瞳だけで挨拶してきた。
声を出せ、声を。本当に、時津胡桃は人気アイドル花月林檎に挨拶が出来るという幸せが…、あぁ、もうそんなことはどうでもいい。
「胡桃ちゃん、ちょっと」
時津が返事をするよりも早く、彼女の手を掴む。
非難がましい言葉を時津が並べるが、そんなものを気にする余裕はない。
ついでに言うと、ざわめきに満ちたクラスメイトたちの声と姿も、今の花月の意識からは弾き出されていた。
諦めたように手を引かれるままになっていた時津は、資料室に入って、花月がその扉を閉めたところでようやく抵抗を見せた。
「花月、いい加減離して」
繋いだ手を眼前まで持ち上げられ、花月は軽く謝る。だが、すぐに軽口を叩いた様子から、彼女がたいして反省していないことは明確だった。
「これって、もしかして、スキャンダルかなぁ。パパラッチに二人の愛の逃避行を撮られたり」
「はぁ、もういいから離して」
そう言いながらも、無理やりには解こうとしないのが、何とも時津らしい。
相変わらず私のありがたみが理解できていないみたいだ。
だけど、さすがに、さすがに今回は泣いて喜ぶだろう。時津胡桃。
「ふふ、これを見てもそんな態度が出来るのかなぁ?」
ひらひらと手に握っていた紙切れを、時津の顔の前で揺らす。
「何それ」と乱暴な手付きでそれを奪い去った彼女に、一瞬だけムッとする。
だが、いつぞやのとき以上に驚愕の色へと染まっていく時津の顔を見ていると、すぐにそれも吹き飛んだ。
時津に見せたのは、例の映画の試写会のチケットだった。
そこにはちゃんと主演女優として花月林檎の名前が印字されている。そして、原作者のところには時津が敬愛する筆者の名前もある。
誇らしげに微笑した花月は、すっかり魂が抜け落ちている時津の体を引きずって、定位置の窓際へと連れて行く。
初めて彼女とここで遭遇したときよりも、随分冷たい日差しになっていた。
「凄い…、花月、選ばれたんだ」ようやく現実に帰って来た時津がうわごとのように呟く。
「ま、私が本気出したらこんなものよね」
ふふん、と胸を張り、時津が躍るように喜ぶ姿を見せるのを心待ちにしていた花月だったが、予想とは裏腹に、時津は残念そうに小さく息を吐き、名残惜しむように指先を動かして、チケットを私の掌に押し当てた。
てっきり喜んでもらえると思っていた花月は、落胆したように暗い目をして時津の表情を見返した。
「正直、羨ましいな」
「何が」期待を裏切られたような、不貞腐れた口調で聞き返す。
自分をコントロール出来ていないな、と客観的な自分が自分を評価する。
「会えるってことでしょう?先生に」
「…うん?うん」
「おこがましいけど、私も一度会ってみたいと思うから」
「会えばいいじゃん」時津の言っていることがよく分からなくて、突っぱねるような言い方になる。
「いや、会えるわけがないでしょう…。私は花月と違って、芸能人でもなんでもないんだから」
唇を尖らせ、拗ねたようにぼやく彼女の横顔に、ようやく今何が起こっているのかピンとくる。
「あー…、なるほどねー」
「何?何がなるほどなの」
「これ、胡桃ちゃんのだよ」風に揺れる木の葉のようにチケットを揺らす。「え?」
ぽかんとした表情の時津に、今度は誤解がないように説明する。
配役が決定した際に、試写会のチケットを何枚か貰ったこと。
これがそのうちの一枚で、元々時津にあげるつもりで持ってきたこと。
さらに、少しだけなら先生に会わせてあげられる予定であること。
間延びした口調でたっぷり時間をかけて、それらを説明したところ、時津は、初めは他人事のように呆然と聞いていたのだが、話が終わって彼女の空いた片手に無理やりチケットを握らせたあたりで、ようやく我に返った様子で口を動かした。
「え、ちょ、わ、私の?え、えぇー…」
よく分からない言葉を断続的に発していた彼女は、握っていたチケットをまじまじと見つめてから、ぱあっと瞳を輝かせ破顔した。
その表情を至近距離で見ることとなった花月は、初めて目の当たりにする時津の、年相応の愛らしさにぎょっとした。
か、可愛い…。こいつ、美人系のくせにこんな顔も出来るのか。
何だか押し負けているような気持ちになって、とにかくこちらのペースに持ち込もうと声を発しようとしたとき、途端に時津が私の体を抱きしめた。
長い手で絡め取られるようにして、一回りほど小さい花月がその柔らかな牢の中に閉じ込められる。
あまりに不意に訪れた人生初の柔らかみに、思考がかき乱され、パニックになりかける。そのうえ力の差は歴然としていて、両手で引き剥がそうとしてもびくともしない。
「く、胡桃ちゃん、苦しい…」首が締まっているのか、顔も熱くなってきた。
「あぁ、花月、ありがと、ありがとう!凄い、本当に楽しみ。夢じゃないよね?ね?」
「離して、は、離せ…」
「あ、ごめん」
不意に花月を抱きしめていた手を解除したため、両手に力を込めていた花月は、その勢いのままお尻から床に激突した。
この野郎、と荒々しく呼吸を整えながら時津のほうを睨みつける。
「ちょっとぉ――」
視線を彼女の足元から、顔にかけて上らせたとき、しゃがみ込んだことで緩まった胸元から白い肌が顔を覗かせているのが見えた。
「ごめんって、大丈夫?」
あ、見えそう…。
白い鎖骨を縁取った先に、青い下着の紐が見える。
後少し屈んでもらったら、雪のような斜面がその美しさをさらすことになるだろうと予測がつく。
湧き上がる情動が、私の背中を酷く乱暴に突き上げた。その衝撃に何とか耐えて、ぐっと視線を逸らす。
無防備で、穢れを知らない。
自分がどう見られる可能性があるかなんて、時津胡桃は何一つ考えていない。
同性だからかもしれないが、甘すぎる。しかし、それでいて時津胡桃らしいと花月は思った。
錯綜した思考を悟られないように、小言を言いながら立ち上がるも、ほとんど時津は上の空だった。
「どうしよう…、私、お洒落な服なんて持ってないし…。どんな恰好で先生に会えば良いのかな」
「何でもいいと思うよぉ?別にぃ」
「そういうわけにもいかないんだって、あぁ、本当にどうしよう…」
あーでもない、こーでもないと迷う時津に、今度は不満が込み上げてくる。
「あのぉ、胡桃ちゃん。もうちょっと私に感謝してもバチは当たらないと思うよ?」
「もちろん、感謝してるって。花月、本当にありがとう。何か、花月にお礼しなくちゃね」
満面の笑みで感謝を口にされ、それ以上何も文句が言えなくなったところで、花月はこっそりとため息を吐き出した。
「まあさぁ、お礼はいいよー?胡桃ちゃん、喜んでくれたみたいだしぃ、ついでにハグも貰ったし」
その言葉は本心だった。
そもそも花月は、他人から何かを与えられる、ということに過剰な期待をしないタイプの人間だった。
愛されることこそ、彼女にとって誰かから得られるものの中で、最上級の贈り物だったわけだが、その定義は曖昧で、抽象的である。さらに加えると、花月は、その行為を時津にはまるで求めていなかったのだ。
時津胡桃は、私に興味がない。つまり、周囲の人間の一切にも。
だから、人避けとしても、憩いの場としても誰よりぴったりだった。
その事実が、何故だか今は酷く花月を苛立たせた。
自身の予期せぬ感情のうねりを、内心不思議がりつつも、不自由に捉えていた花月だったが、その直後に時津が顔を赤らめたのを見て、釈然としない衝動に駆られた。
「先生に会える、うわぁ…、こんな幸せなこと、あっていいのかな…」
…何だ、その顔。
知っている、私は知っている。その表情を。
花月は出来る限り自分を落ち着かせつつ、窓枠に腰掛けて、床に座り込んだ時津を見下ろした。
「えっとぉ、胡桃ちゃんさ、あの作者さんのこと、好きなの?」
驚きに肩を跳ねさせた時津は、何も答えなかった。それが答えだとも言える。
おかしい。そんなの、おかしい。
だって、時津胡桃は…。
「あ、愛してるって感じ?」
声が裏返りそうになって、心臓がきゅっとなる。だが、言葉を口にするのをやめても、まだ心臓の様子はおかしかった。
「ば…、馬鹿、やめてよ…恥ずかしい」
顔を赤らめ、膝の間に頭を突っ込む時津。
時津胡桃は、人を愛することに関して、欠陥を備えた人間だったはずだ。
だから、私のことも愛せない。興味もない。
それが、違った?
私のことはどうでもいいけど、あの女物書きのことは愛してるって?
…は?
ふざけんな。
いいわけないじゃん、そんなの。
「胡桃ちゃん、やっぱり、お願いしたいことあるんだけど…、聞いてくれる?」
自分でもぞっとするぐらい、普段どおりの声が出た。
舌っ足らずで、間延びした、スイーツみたいに甘い声。
今考えると、随分毒々しい色の声だ。
時津は、そんな毒虫みたいな女がそばにいて、しかも、その頭の中は、沸騰しそうな怒りや悔しさ、羞恥、そして、破壊的な支配欲によって埋め尽くされているということを知らなかった。
想像のしようもなかったといって良い。
それだけ花月は、その感情の嵐を表面に出さなかったのである。だから、彼女は何の疑いもなく首を縦に振って言った。
「もちろん、これだけのことをしてもらったんだから、何でも――」
最初に浮かんだものは、柔らかいな、という陳腐な感想だった。
次は、ねじ込んだ舌先から感じる、異様な熱への興奮、それから次に、思いのほか筋肉質ではない時津胡桃の肩の感触。
何が起きているのか、まるで見当もついていない様子の時津を尻目に、少々強引に彼女を冷たい床に押しつける。
そのときになってやっと、時津は何か声にならない声を上げていたが、耳を貸さず、馬乗りになって上からまた口付けを落とした。
ざらりとした舌の感覚、舐め上げた歯茎の、ぞっとするほど性を感じさせるリアルな形。
抵抗を試みているのか、それとも頭が真っ白になっているのか、どちらとも分からない微妙な手足の動きと、鼻だけで行われる風が抜けるような息遣いに、花月はますます自分の昂りが抑えられなくなっていった。
変な声出すなよ、時津胡桃。
っていうか、私を愛せよ、変な女じゃなくて、私を愛せ。
元々誰もいらないなら、それで構わない。許す。
でも、誰かが欲しいっていうんなら、他の誰でもない、私じゃなきゃ駄目だろ。
馬鹿にするな、冗談じゃない。
自分を誰にも明け渡すな。
そうじゃないなら、私のものにならなきゃ駄目だろ、時津胡桃。
私自身の呼吸も覚束なくなったところで、ようやく胡桃が私の体を押し上げた。
馬乗りになったまま、上から見下ろす彼女の顔は、形容し難いいくつもの感情によって彩られていた。ただ、少なくとも明るい色ではない。
「な、何するの、花月」
声が震えている。それすら今の私にとっては劣情の炎への薪にすぎなかった。
「いいじゃん、胡桃ちゃん。ちょっとぐらい、さ」
「や、め」
「減るもんじゃないって、ねぇ、胡桃ちゃん」
もう一度、花びらみたいな唇にキスをしようと上半身を折り曲げる。
「やめて、おかしいって、花月!」
ぐっと、押し返された瞬間、私の中で渦巻いていた禍々しい気持ちの全てが、濁流のように喉を突き破って飛び出す。
「おかしいのは胡桃でしょ!」
怒号に、胡桃の体が怯み、抵抗が止まった。
「あの女が、胡桃のために何をしてくれるの?してくれないじゃん、一方的に胡桃が憧れてるだけじゃん!だったら…、私を愛せよ!」
怒鳴りつけた勢いで、彼女の制服の一番上のボタンを引き千切る。
あらわになった白い首元、鎖骨を見て、劣情が加速し、思わずかじりつく。
甘い、どんな花やスイーツよりも甘い匂いにあてられて、くらくらする中、無意識のうちに白い肌に強く吸い付いた。
品のない音が鳴ると同時に、胡桃はいよいよ身の危険を感じたのか、全力で体を動かし、私の軽い体を弾き飛ばした。
肘が近くの椅子にぶつかり、鈍い音を立てると同時に、痛みで、ほんの少しだけ冷静さが戻ってくる。
ハッと、自分がしていたことの恐ろしさに気付き、花月は勢い良く時津のほうへと顔を向けた。
そこには、変わらず、読み取り難い表情をしたまま、こちらを睨みつけている時津の姿があった。
彼女は花月と目が合うや否や、唾を吐き捨てるかのように言った。
「馬鹿…!私は、私は…、あなたを…!」
彼女は言葉の途中で涙ぐむと、荷物と死骸みたいなボタンを置いて、はだけた姿のまま資料室から走り去っていった。
あなたを…何だろう。
信じていた?愛していた?
友達だと思っていた?善人だと思っていた?
分からない、分からない。
違う、私は、ただ…、胡桃ちゃんが…、何だろう、胡桃ちゃんが、一体何だって言うんだろう。
欲しいものは、いつだって私の手の中に転がり込んできたはずなのに。
愛も、地位も名誉も、全部。
そうだ、欲しいもの。胡桃ちゃんが、私は欲しいだけだ。
愛されたい、だけだ。
あれ、今まで…どうやって、欲しいものを手にしてきたんだっけ。
おかしい…、
愛され方が、分からない。
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