第3話 愛され方が、分からない.3

 時津胡桃と花月林檎が仲良くしている、という話題が広まるのに、たいした時間はかからなかった。


 牙を剥き出しにしていた時津が、まるで調伏されたように大人しくなったことは誰の目にも明らかだったものの、それに触れる者はいなかった。


 花月は、そうして周囲が表には出さないものの、興味津々で自分たちを観察しているのが面白くてしかたがなかった。


 時津胡桃と私の関係は、不思議な共生関係といえるものであった。


 私は時津が興味のありそうな話や品物を持ってくる。


 そして時津は、私にとって非常にありがたい人避けとしての機能を果たす。


 自分に押し潰すような人の群れや声は、確かに恍惚を与えもしたが、疲れもした。

 一日中仮面を着けているのでは、窒息死する。


 花月は、息の出来ない美しい水中から逃れ、息継ぎをするための場所として時津を利用していた。


「ねぇ、胡桃ちゃん。私たち、すっかり仲良し扱いだね」


 あえて猫なで声を出して、隣で本を読んでいる時津をからかう。


「ええ、そうね」


 淡白な反応だ。ここ最近、こういう返しをしてくるようになった。それがつまらなくて、私はぐっと身を乗り出しながら首を傾ける。


「光栄?」


「もう、邪魔」


 時津の片手によって逆に押し返されて、花月は頬を膨らませる。


「ちょっとぉ、邪魔ってなぁに?」


「邪魔のものは邪魔。読書中、分かるでしょ」


「わかんなぁい」


「あのねぇ、邪魔はしないって約束だったじゃん」


「私はぁ、邪魔してるつもりないもぉん」


「ああ、そう」時津は興味がなさそうに呟くと、数十センチほど、座ったままで床を移動してから口を開いた。「暑いから離れてよ」


「あー、信じられない。私、花月林檎なんだけど」


「知ってる」


「一目だけでも生で見たい、握手でいいから触れてみたい…っていう人気アイドルなの」


「はいはい」


「私に近づかれて、『離れてよ』なんて言うの、世界中どこを探したって、胡桃ちゃんぐらいだよ?」


「へぇ、凄い光栄」


 半笑いの表情で答えた時津に少し苛ついて、嫌がらせ目的で彼女に体重をかけてしがみつく。


「本当にさぁ、もぉ…」


 汚い文句の一つか二つ、時津胡桃相手なら、もう遠慮なく言っても構わないのではないだろうか。


 時津は、その冷徹に見える性格と佇まいのために、人から避けられることも少なくはなかった。


 しかし、基本的にこちらから、何か、時津にとってマイナスになるようなことをしなければ、彼女は無害である。


 誤解とは恐ろしいものだと他人事のように思いながら、やはり、愛される才能に恵まれた自分と、恵まれなかった者とではこうも差があるのかと痛感した。


 しがみつかれた時津が何も怒らないことが不思議で、彼女のほうを緩慢な動きで見やる。


 すると、彼女は目を見開いて、こちらを見つめていた。


 その片手は不自然な場所まで持ち上げられており、自分と目が合うと、何もなかったかのように速やかに浮かせた手を床についた。


「ど、どうしたの」


「別に」彼女はこちらを見ようともしない。「ちょっと、驚いただけ…、暑い、離れて」


 時津は優しい手付き、というかたどたどしい手付きで花月の体を剥がした。


「ふぅん」と花月はその横顔を観察する。


 本に視線を落としている時津の頬は、ほんのりと赤らんでおり、口元がかすかに動いていた。


 普段なら、機械みたいに文字を追い、速いテンポで頁をめくるその指と目が、完全に固まっている。


 もしや、と花月は半信半疑で思ったことを口にする。


「胡桃ちゃん、もしかして照れてるの?」


「違う、から」今にも裏返りそうな声に、にやりと悪戯な笑みが浮かぶ。


「そうだよねぇ、同性に抱きつかれたくらいで顔が赤くなったりしないよね」


 時津は何も答えない。


 だが、その沈黙は彼女が得意としている、一方的な無視とは違い、声なき言葉は雄弁であった。


「…当たり前でしょ」


「そうだよねぇ?当たり前だよねぇ?」と呟きながら花月は再び、時津と距離を縮める。


 いつか彼女が私にしたように、穴が空くほどその端正な顔を見つめ続ける。


 すると、とうとう堪えきれなくなったのか、時津は大袈裟にため息を吐きながら、立ち上がった。


「花月の距離感がおかしいだけ」背を向けたままで、時津が続ける。「…近すぎ」


 いつもはきっぱりとした口調を一貫している時津が、時折見せる、弱々しさ。いや、可愛らしさ…とにかく、時津胡桃のこのギャップが目の前に曝け出されて、花月は底知れない感情の昂りを感じた。


「ああん、胡桃ちゃん、かーわーいーい!」


 ぎゅっと、相手が躱す間もなく、白い手を掴み、巻き込むように腕を絡ませる。


「や、もう!軽々しく触らないでよ、あなたそれでも芸能人なの?」


「ま、私って可愛いからさぁ、無理もないよぉ」


「こっちの話を聞いてよ!」


「ちゃんと分かってるじゃん、胡桃ちゃん。私、ちょー可愛いよね」


 時津を無理やり再び床に座らせ、怒っているのか、困っているのか分からない彼女を見つめる。


 その視線と、西日をまともに受けた時津は、羞恥を誤魔化すように大きな声を出して言った。


「最近の花月、ちょっと素を出しすぎなんじゃない?みんなが見たら驚くよ」


「まあまあ、いいじゃん。私も仮面つけっぱなしだと肩が凝るんだってばぁ」


「仮面なのに肩が凝るの?」時津が本心から不思議がるように言う。「そう、凝っちゃうの。だから胡桃ちゃんでリフレッシュ」


「うわ、迷惑…。何で私が」


「だって、胡桃ちゃんって最初から私に興味なかったでしょ」


「それはそうだけど、良いの?私が花月の本性晒しちゃうかもよ」


「しないよ。そんなことしても、胡桃ちゃんに得がないもん。何も貰えないし、面白い裏話も聞けない」


 指先を時津の鼻っ面に立てて告げる。


「何か複雑な信頼のされかた…」


 信頼、というのはまた違う気もした。


 私は、時津胡桃という人間のコントロールの方法を学んだだけだ。


 彼女が私と離れない、裏切らない理由を、延々と提示し続ける。そうすることで、私もちょっとしたストレス発散の機会を手にすることが出来ているのだ。


 花月は、時津胡桃が離れない理由としては、切り札級のものを今回持ってきていた。


 正確には少し前から用意をしていたのだが、より現実味を帯びてからと思っていた。


 …じゃないと、もしも彼女をぬか喜びさせることになったら、少し、嫌だから。


 携帯を操作し、とあるメールを表示する。


 それを不貞腐れたような、いじけているような時津の顔の前に持っていく。もちろん、腕は掴んだまま離さない。


 彼女は怪訝な顔をして画面を覗き込んでいたが、すぐに目を爛々と輝かせ、花月に食いつくようにして言った。


「凄い、これって、少し前に先生が出した作品の映画化の話だよね?え、花月、主役なの?」


「ヒ・ロ・イ・ン。まぁ、まだ決まっていないけどぉ。次が最終選考なの」


「…花月って、本当に凄いんだね」しみじみと感心するように呟く時津に、肩を落としながら花月は答える。「えぇ、今更?」


 何度も画面を見返す彼女を見ていると、花月は誇らしい気持ちになれた。


 いくら人気アイドルといっても、簡単に役を取れるわけじゃない。


 私では比較にならないぐらい演技の才能がある人、容姿が整っている人、声の通る人…、強大な競争相手となる人間を挙げれば、枚挙に暇がないほどだ。


 しかも、今回は、そこそこに著名な作者が原作を務めている作品の映画化なのだ。ここから有名になろうと野心を燃やす逞しいライバルたちはそこら中にいる。


 だが、それでも私は、掛けられるふるいの網の目を渡りながらここまで来た。


 どんなに能力の勝る相手だろうと、全員薙ぎ倒しながら、ここまで。


 それが出来るのは、ひとえに、私の愛されるための才能が抜きん出ているからである。


 もちろん、技術や容姿を磨くのは忘れない。

 そのうえで、多少の差は天賦の愛嬌でカバーする。


 人から好まれる術を、私は幼い頃から分かっていた。しかし、媚びるような真似をしないことも肝心だ。


 そうした卑しさは、いずれ自分の足を引っ張る。


 花月が花月である限り、永遠に続くであろう苦労の日々を思い返していると、唐突に、誰かに褒めてもらいたくなった。


 未だに画面に釘付けになっている時津に向かって花月が言う。


「もっと褒め称えてくれてもいいんだよ?」


「うん、凄い凄い」


 時津の眼差しは壊れたみたいに動かない。話を聞いていないのだ。


「今回、結構大変だったんだから。正直、原作は私には難しいから、読み込むのに時間が必要だったし」


「うん」


「滅茶苦茶努力したんだよ」


「うん」


「ちょっとぉ、聞いてないでしょ胡桃ちゃん」


 渇いた音を立て、軽く時津の太腿をスカートの上から叩く。すると、彼女は苦笑いのままでようやくこちらを振り向いた。


「だから、聞いてるし、知ってるよ。花月はいつも誰よりも努力してるし、誰よりも凄い。それぐらいは、私でも知ってることだから」


 困ったような笑顔の時津の、大人びた低いトーンの声が、不意打ちで花月の鼓膜と脳と、心臓を震わせた。


 時津はさらに続ける。


「まあでも、無理はしないように。たまにはここに来て、こうして息抜きしなよ。あ、邪魔はしないでね」


 時津の声は、嘘偽りのないものだった。


 私が今まで耳にして来た、中身のない賞賛ではなく、心の底から私を認め、評価し、案じてくれているものだと直感できた。


 この賛辞には、愛想笑いも謙遜もいらない。


 時津の言葉は、ずっと昔、まだ花月が幼く、子役として活動を始めた頃に母から言われた言葉を思い出させた。


 純粋に、花月を称賛し、可愛がってくれていた母の言葉。


 今は濁ってしまった祝福の言葉が記憶の底から蘇り、そしてまた、新しい形となって花月の前で美しく響く。


 あれ、こんなふうに褒められるのって、いつぶりだろ。


 私、がらにもなくちょっと感動してるみたい。


 だって、みんなは私の出す結果しか見てないし。


 輝かしい舞台の上の私しか、知らないし。


 色んなものに疲れて、孤独と静寂に満ちた場所を求めている私を知るのは、胡桃ちゃんだけだもの。


 気は利かないし、空気も読めない奴だけど。


 嘘を吐いたことは、今までだって一度もなかった。


 私の、分厚い皮だけを笑えるほど必死に愛するようなことも。


 花月はやや俯いた姿勢で、隣に座らせた時津の肩にもう一度もたれかかった。


 普段なら文句を言う時津も、少し唸っただけで、その後ため息を吐いてから黙り込んだ。それから、何枚かの頁をめくる音が聞こえた後に、ぼそりと零す。


「まあ、それなら許す」


「何を?」静かで、慈しみを感じさせる独り言みたいな声だ。「別にいいの」


 もう一言、声を発そうと口をわずかに開く。しかし、ほんの少しだけ吸い込んだ息を戻した花月は、そのまま口を閉ざすことを選んだ。


 胡桃ちゃんのために頑張ったんだよ、なんて…、私は一体何を言おうとしていたのだろうか。

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