6-1 二年生・十月
あたしは朝烏麻路のことが好き。
十月、健翔と話してそんな自分の気持ちを発見したあたしは、朝烏麻路があたしへ向ける鋭い眼差しに心地よさを覚えていた。それは、近所の野良猫ちゃんが逃げずにじっと見つめてくれた時の気分に似ている。あー、見てくれてる。かわいいね、嬉しいなっていう。野良猫も朝烏麻路も、あたしに向けているのは警戒心なわけだけど。
ところで、あたしをそんなに見張って、朝烏麻路はさぞや時間に余裕があるんだと思っていた。才能がある人は羨ましいよ、とかほんのり僻みながら迎えた二学期中間テスト。あたしは完璧な赤点率でフィニッシュしたけど、成績上位者のランキングを見てびっくりした。
いつも堂々と飾られている朝烏麻路の名前がない。いや、あったけど随分と順位の奥まったところ、いつもよりも小さいフォントサイズでちょんと書かれていた。万年最下位なあたしにとって、それでも凄いことには凄いけど、朝烏麻路にしては随分と凋落していた。
ラルヴァを見ると、そのことに言及した投稿がちらほらあった。「朝烏めっちゃ順位落としてるのに気づいた」「テスト日が
朝烏麻路は完璧超人なんかじゃなくって普通の人なんだ、とあたしは実感した。やっぱり成績が落ちたのって、あたしを見張ってたせいかな。だとしたら……複雑な気持ちが心に渦巻く。あたしのことを気にかけてくれたという卑しい嬉しさと、時間を取らせた申し訳なさ。あたしは授業中も補習中も、朝烏麻路のことばかり考えていた。
こんなに顔を見たい日だっていうのに、朝烏麻路はあたしを見に来なかった。こんな日こそ来てくれよ。ラルヴァに書き込んじゃうよ? 「朝烏麻路はあたしに構ったせいで成績下がった」って。やったらどうなるんだろう。まあ、ぶっ殺されるんだろうけど、それくらいの気分だった。
「兎褄さん?」
名前を呼ばれてはっと振り向くと、数学教師の
「あなた、清々しいほどの赤点を取って補習を受けているんでしょ? それなのにぼーっと外を見て、留年候補生としての自覚が足りないみたいね」
「えーっと……いざって時は土下座するんで……」
「世曜のカリキュラムに土下座はなし! 私は追試の点数しか見ませんからそのつもりで」
郷元ちゃんはシャープな声音で言い切った。あたしの成績ってピンポイントで注意されるくらい、ホントにヤバいらしい。一応、単位はこれまでなんとか全部拾えてきてはいるけど、こんな奇跡もいつまでもつかわからない。留年候補の呼び名はあたしにとってシリアスだった。
うちの学校は毎年、留年生はそれなりに出ていて、春先に見覚えのない生徒がクラスにいたりするとか。もちろん、留年生の情報はしっかりラルヴァに晒され、それを苦にしたとは言い切れないけど、気がついたら名簿からその人の名前がなくなることが風物詩になっている。せっかく入った高校なのに退学しちゃうなんてもったいない、って俗っぽく思うけど、単に不出来なあたしと違って、いろいろな事情があったりするんだろう。
そんな思考の流れの中で、あたしは今も隣の部屋で補習を受けているはずの愛沙先輩のことを思った。ぱっと見はダウナーでやる気のない人にしか見えないけど、実際は家庭事情が複雑で、そのストレスから睡眠障害を抱えているらしい。
『アオちゃん、もうこんな面倒なのに関わらない方が良いよ』
半年前、つきまとうあたしが鬱陶しくなったのか、愛沙先輩は誰もいない補習室でそうやって事情を打ち明けてくれた。同じ劣等生組と思って絡んでいたあたしはびっくりした。家族が増えたり減ったするなんてあたしには想像がつかないし、不安な夜、眠くて仕方ないのに眠れない苦しさも考えるだけで恐ろしい。あたしは自分の考えの浅さにすごく凹んだ。
それでも頑張って学校に来て、単位をせっせと集める先輩の姿は胸を打つものがあって、あたしは愛沙先輩に絡むのを辞めなかった。先輩もそのうち、あたしを腸内細菌みたいに思うようになったのか、普通に接してくれるようになった。身の上を打ち明けたのは、単にあたしを試していたっぽかった。つい構いたくなる、クリオネみたいに不思議で可愛い人だから、何かと人に構われがちでそれが嫌なのかも知れない。
あたしはその正直なところがいいなあと思ってるわけだけど、愛沙先輩にはそれ以上にすごいところがある。
愛沙先輩みたいに難しい事情を持った生徒には、学校側も配慮して色んな救済措置を用意してくれる。しかし、愛沙先輩は家庭事情に関係なく実際ダウナーでやる気のない人なので、その特権をフル活用して最小限の労力で卒業を目指しているのだ。だから保健室登校は当たり前だし、テストは平気で欠席して追試も落とし、診断書を盾に制度的なお零れを頂く。やむなく、ではなく、故意にやってる。それくらい愛沙先輩にとって学校生活は「やりたくない」ことなのだ。並の精神力ではとてもできない。
愛沙先輩は表面的に見ればクズかも知れないけど、逆境にめげず、自分のやる気無しスタイルを貫く姿は本当に憧れる。だから、あたしは愛沙先輩のことを尊敬していた。先輩を見習って、あたしだってひとかどのバカとして頑張らなくちゃいけない。赤点ボーダースレスレ、一点、二点の差で明暗がわかれるような、シビアな超低空の世界を勝ち抜かなくちゃ!
そう意気込んでホワイトボードの板書を睨みつけたあたしは、一時間後、無事郷元ちゃんに泣きついていた。
「……全然わかんねえです」
「なら、家に帰ってわかるまで復習しなさい。追試は今日の補習の範囲からしか出ないから」
そう言ってバサっと今日の範囲分のレジュメを手渡してくる。それでできるなら教師なんかいらないだろ、って思っちゃうけど、そもそも学校自体、全生徒に懇切丁寧カッキリバッチリな教授ができるところじゃない。そういうのを望みなら、家庭教師か個別指導の塾が最適解ってことになってしまう。夏休みの時、一時的に塾へ通ったりはしてたけど、あれはとんだ値段がする。両親にはもう負担をかけたくないから、結局、どこまでも自分で頑張るしかないんだけど……あーーーーーーっ! ムリムリムリムリ!
あたしは惨憺な気持ちで廊下を往く。外を見るとすっかり暗くなっていた。秋はすでに深く、日ごと一日が短くなってきている。わけもなく、どうしよう、と心細くなった。
ふと、ある匂いが目についた。金木犀に似た、明るい秋めいた榛色。愛沙先輩だ。あたしが郷元ちゃんに虚しく泣きついている間、他の補習生はみんな帰ったと思っていたから、あの人がまだ居残っていることに安心を覚えた。迷わずそちらに足を向ける。補習室のあるフロアの一番奥、物置みたいな扱いの空き教室。
どうしてそんなところに? って思っていると、また別の匂いが目に飛び込んできた。
闇夜にもはっきりと見える、銀色の香り。朝烏麻路──。
愛沙先輩と朝烏麻路が誰もいない校舎、誰も来ない部屋に一緒にいる。その事実を直感した瞬間、手のひらにじわっと汗を感じた。何その夢のコラボレーション。あわわわわわ、と言語化不能の混乱で頭がクラクラしてくる。
気づいた時にはもう、あたしは空き教室の戸に手をかけて思い切り開いていた。途端に、中の空気がキュッと縮んだような気がした。部屋の中は使ってない什器が迷路みたいに置かれていて、ふたりの姿は見えない。外からバレないように、入り口から見えない位置にいるんだ。でも、あいにくとあたしの鼻と視神経には筒抜けだった。ふたりの匂いが嫌というほど目についてやかましいくらい。
普通に考えて、気づかなかったフリをしてどっかに行ってしまうべき場面だった。でも、あたしはちょっとした予感があって、狩人の縄張りへ呑気に入っていく兎みたいに、フラフラ部屋の中へと入っていった。
もし、朝烏麻路が愛沙先輩と何か、秘密を持ってるなら──徹底的に守ろうとするはずだ。それを脅かす相手があたし、兎褄碧子なら、畢竟、生かすことはしない。
あたしは期待していた。朝烏麻路なら……きっとあたしを殺してくれる。あの、細く見えて筋肉のみっちり詰まった手で、キリキリとあたしの頸動脈を圧迫して、こんなしょうもない現実から解き放ってくれる。そんなことを想像して胸をときめかせていた。我ながら脂ののった変態っぷりだけど、元はといえば朝烏麻路が悪いんだ。
あんたが見つめるせいで、あたし、脳がバグってあんたのこと好きになっちゃったんだよ。
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