1 二年生・一月(1)
キンコンカンコン。
四時限目の終わりのチャイムが鳴り、教師の授業終了の合図が済んで、なんとなく自由に動いてヨシみたいな雰囲気になった瞬間、あたしは堂々と教室を飛び出した。
廊下を早足くらいの速さで急ぐと、背後であたしに続いてクラスメイトがついてくる気配がある。みんな揃いも揃って、何食わぬ顔をしているはずだ。トイレですけど? 購買行くんですけど? 先生に呼ばれてんだが? 部活の昼練だが? チャリ鍵かけたか見に行くだけだが? 誰からも問われもしない理由を抱えた連中があたしの後をつけてくる。
なんだか自意識過剰みたいだけど、本当にそうなので困ってしまう。
困るといっても、あたしが人気すぎて困っちゃう、なんてナルシスト的な恍惚じゃなくって、差し出したちゅーるに猫たちが夢中になってるみたいな、もうそんなにいっぱい来たら困っちゃうよ~、って困りながらも満更でもない感じ。
廊下を少し往って渡り廊下を通り、隣の校舎へ。最短経路を意識しながら大股で進み、一段飛ばしで階段を下りていくと、お昼休み開店ホヤホヤの購買があった。他の生徒の姿はない。あたしは素でガッツポーズした。
「よっし、一番乗り!」
「あら、今日はエラい速いね、
購買のおばさんが目を見開くほどの好タイム。後ろから腕を直角にした競歩スタイルでやってきた男子生徒があたしがいるのを見て「兎褄だーっ!」って表情を一瞬浮かべ、すぐ真顔に戻る。窓の外ではポニーテールの女の子が全力疾走でやってきてガラスに張り付き「碧子だーっ!」という表情を浮かべて、すぐ真顔に戻る。その他、遅れてやってきた面々も同じような、「兎褄じゃん」と肩透かしをくらったような顔を浮かべ、すぐ真顔に戻る。いや、兎褄と違って一番乗りを目指してたわけじゃないですけど? そういう無関心フェロモンムンムンの真顔たちが、あたしの後ろにずらーっと並んでいく。
ははは、二年六組の立地の良さをナメるなよ。
あたしは負け犬たちを嘲笑いながら、大人気で蒸発するように売れるレインボーなゲーミングパンと、ぎっちり惣菜が詰め込まれたトロイの木馬パン、ねじりハチマキみたいなドーナツ、それから一枚三十円のクリームサンドクッキーなのに何故かマカロンの味がする脱法マカロンを買い占めると、その場を後にした。
下駄箱で靴を履き、中庭に出る。三つの校舎に囲まれたそこは日中に陽がよく差し込み、風も通らないので、よく晴れた真昼なら冬でも普通に過ごせるくらいぽかぽかしている。
あたしは小綺麗なベンチに腰を下ろした。校舎に挟まれた場所なのであちこちから視線を感じる。妄想ではなく本当に見られている。中庭に面した数十枚の窓ガラスの向こうには、あたしを見下ろすたくさんの眼差しがあって、隠そうともしない。
好奇心旺盛だな。あたしは内心、ニヤニヤしながらスマホを取り出した。
この端末はうちの学校──私立
一見、太っ腹なに見えるけど当然のように深刻な欠陥がある。中身は管理権限フル稼働でガチガチにロックされており、みんながやりたいアプリは何一つ入れられない。ゲームも動画もサブスクもSNSもおトクなクーポンアプリもインストール不可で、ネットも校内で飛んでるWi-Fiにしか接続できない……ぶっちゃけ、幼児向けのおもちゃのスマートフォンの方が光るし音も出るし、見てて楽しいくらいだ。
しかも「校内では原則支給品を使うべし」ということで、私物スマホを持ってると没収される。二十一世紀も四分の一を過ぎようとしている世界でマジか? これがマジ。電源を入れた状態で持っていると校内の監視システムに検出、特定され、サイバー担当の教員に捕まってパクられる。持ち込み事態は制限されてなくて電源さえ切っていれば平気だけど、時代外れの規則を適用するために最先端技術を使わないで欲しいよなあ、と呆れている。
とまあ、校内の通信環境は凄惨なもんだけど、締め付けの強い権力には必ず反抗勢力が存在する。うちの学校には「情報メディア部」という屈強なハッカー集団がいて、この制度が始まってまもなくそこのOBかOGがこの規制をかいくぐり、稼働するようなSNSを作ってしまった。その名も「Larva」。ラルヴァと読んで、ナントカ語で「幽霊」という意味。その名の通り幽霊のように稼働する裏SNS的なもので、仕組みは意味不明だけど、世曜高生に支給されたスマホのブラウザからしかアクセスできないようになっている、世曜の裏世界だった。
あたしはゲーミングパンを囓りながらラルヴァを開く。ラルヴァは基本的に匿名投稿で、トピックと呼ばれる主題を立て、そこにリプライする形で各々が思い思いに書き込んでいく、掲示板とマイクロブログの中間みたいなデザインをしていた。
──購買ダービー速報。一位兎褄、二位
真っ先に飛び込んできたのはそんなニュース。ラルヴァはいろいろ締め付けの厳しいこの高校の数少ない娯楽で、じいちゃんばあちゃんのテレビ、二十代女性のディズニープラス、三十代男性の筋トレ、ガキんちょどものYouTubeみたいなものだった。
──「兎褄? なんで?」「ドドド大穴じゃん」「購買ダービー引退したんじゃなかったの?」「最近出てなかったのにいきなりどうしたんだ」「斎藤字が違う」「予想できてたヤツいる?」「脱法マカロン全部買ってった、ありえんわ」
最新の投稿を見て、あたしは見せびらかすように脱法マカロンに舌鼓を打った。クッキーのくせに過剰な甘さが口の中いっぱいに広がる。ざまみろ、と言わんばかりにパクパク食べた。
──「兎褄ちゃん脱法マカロンパクパクで草」
さっそくラルヴァに報告されている。これがこの学校の常だった。個人名出しまくり、本人が見てるのも構わず報告は当たり前。ここで求められるのは、興味関心を満たすものかどうか、それだけだ。
かつて
多分、そういう逆立ちしたリテラシー意識があるからか、陰湿なイジメなんかはない。そういうのはつまらん、と世曜高校の人たちはびっくりするほど頭がいいのでみんな了解しており、適当にはしゃげるゴシップの温度を感得して、なかなか一線を越えることはない。
しかし、深淵を覗けば深淵と目が合い、ミイラ取りはミイラになりがち、出る杭はボッコボコ、校内でちょっとでも目立ったことをすれば好奇の視線が殺到する。まさに今のあたしのように。
それが心底から嫌な世曜高校の生徒たちはリアルではモブに徹する。別に何の興味もねえけど? 別に脱法マカロンいらんかったけど? 自分は何かに心動かされたりしてないけど? 表向きはそういう態度を醸し出すことで、ラルヴァの住民たちは自分の匂いを覆い隠し、背景になろうと徹する。本当の
「んふふ……」
一方のあたしはこうして話題の中心になることが面白くってしょうがなかった。あたしについて喧々諤々しているラルヴァを見ると、身体も心もガキんちょだった頃、動物園でモルモットに餌をあげる体験に行った時のことを思い出す。プイプイプイプイと甲高い鳴き声の動物が大量にむらむらと、あたしの手元の餌めがけて殺到してくる、あのなんとも言いがたい愉楽──それに似たものが、ここにある。
と、エキサイトしていると、ふいに細い指があたしのスマホをすっとつまんだ。
「あっ」
そのままトンビにパクられるようにスマホは連れ去られ、放擲、ぽーんと放物線を描いて近くの植え込みへ飛んでいき、乾燥した土にズボッと突き刺さった。
「あーっ! 小さき生命のお墓みたいになっちゃったじゃん!」
「……ローズピンク色の墓なんて趣味悪」
狼狽するあたしをそう言って見下ろすのは、朝烏麻路──あたしの付き合っている女だった。流麗な銀髪のハーフツイン、黒のロングトレンチコート、怜悧で切れ長の眼差しと大人びた声音。それから、艶やかな銀色を感じさせる匂い。
「碧子、これからは私といる時、スマホ見ないで」
「はい」
そんな良い女に、こんな可愛いことを言われてしまったら二つ返事するしかない。あたしはローズピンクの墓標にきっぱりと背を向けた。麻路はあたしのすとんと腰を下ろすと、手に持っていたお弁当の包みを太股の上で開き始める。
「麻路、今、めっちゃあたしたち見られてるよ」
あたしがゲーミングパンをモゴモゴ食べながら言うと、麻路は一瞬、ぴたっと手を止めてから、なんでもないような体裁でお弁当の蓋を開く。
「もう? ……もしかして、碧子なにかしたの?」
お箸を取りながら訊いてくる。鋭い。
「うん。購買ダービーで一着取った」
「そういうこと……あなたの全盛期は春先だと思ってたけど。まだ衰えてないのね」
「教室の位置が最強だから最短距離で行けば簡単だよ」
「その厚い皮の張った自意識、本当に羨ましい」
麻路は皮肉っぽく言うと、彩色豊かな中味からちいちゃい白身魚の欠片を箸でつまみ、そのちいちゃな口に含んでぽくぽくと咀嚼する。あたしはむくれた。
「あたしたちが付き合い始めたこと、アピールするために久々に復帰しただけなんだけど」
現に今、あたしたちを囲い込んだ校舎の窓からはたくさんの目線が注がれている。ラルヴァ民は大はしゃぎで実況中継しているに違いない。その気配を察したのか、麻路は見たこともない不思議な眼差しであたしを見た。
「……そっか。今日初めて、そういう関係としてここにいるのね」
そういう関係──その秘密めかした言い方にあたしはドキドキする。
「そうだよ。麻路が自分から言い出したくせに」
あたしは麻路との距離をきゅっと詰めた。体温が近づき、ふわんとした銀色があたしの鼻を衝き、心臓が熱く拍つ。
「ね、麻路が前に気になるって言ってた脱法マカロン山ほどあるよ。ほら、あーんしてあげる」
あたしが脱法マカロンをつまみ上げると、麻路は渋い顔をした。
「今、和食の口になってんだけど」
「大丈夫。これ、バカ甘くて全部上書きされるから」
「そんな……むぐ」
あたしは麻路のちいちゃな口に脱法マカロンを押し込んだ。その一円玉専用の投入口みたいな口には入りきらなくて、麻路は目を白黒させながら精一杯の分量を囓り取る。それからしばらくもごもごした後、こらえきれないように小さく笑った。
「なにこれ。甘過ぎ」
「でしょ。秒で売り切れるから手に入れるの大変なんだ」
あたしはハムスターが一生懸命食んだみたいな、麻路のちっこい食べ痕のついた脱法マカロンを口に放り込んだ。あっ、と麻路が小さく声を漏らす。あたしはバリボリ咀嚼しながらニヤついた。
「なに? 自分の分泌物まみれなのが気になった?」
「……品のない言い方」
「じゃあ、や、やだ、間接キス♡ って思った?」
「調子乗りすぎ」
ぷい、と麻路はあたしから顔を逸らすと、恥じらいを誤魔化すようにお弁当のおかずを口にせっせと運び始める。
ああ──良いな、こういうの。
あたしは更にきゅきゅっと麻路との距離を詰めて、その肩に頭を傾げた。ぴくっと麻路の身体が震える。
「碧子……」
「何? 重い?」
「……ううん。平気。むしろ、あなたは軽すぎる」
「へへ、BMI十六切ってるんで」
「それ、文句なしの痩せすぎ……そんな甘いものばかり食べてるのにどうして?」
「体質だし、代わりにもっと大切なものを奪われてる」
「大切なもの?」
あたしは麻路の腕にぎゅっと身体を押しつけると、耳元に囁いた。
「感じますか……? この……薄すぎる胸の……枯れ木みたいな堅さを……」
「うん。二の腕いっぱいに碧子の脈を感じてる」
「なに、どういう表現?」
「そ、それくらいあなたがガリガリだってこと。ほら、もっと肉を食べなさい」
麻路があたしの口にミートボールを詰め込んでくる。麻路向けに最適化されているのか、パチンコ玉くらいのサイズしかない。だけど、旨みがありえないくらいギュッと凝縮されていて、一噛みした瞬間、猛烈なうまみが口いっぱいに広がった。
「うんめーっ! もっとちょうだい!」
あたしはコアラみたいにしがみついたまま、あーっ、と口を開いた。麻路は呆れた表情を見せつつも、あたしの血肉になりそうなものを次々放り込んでくれる。うんまい。普段は適当な菓子パンばっかのあたしにとっては、至福の一時だった。
「これ、あたしたちってどう見ても付き合ってるよね──」
ふと、あたしはそう漏らした。麻路は一瞬、目を見開くと、意地悪そうに目を細める。
「あなたが私に依存してるようにしか見えないんじゃない」
「あの容姿端麗文武両道完璧超人の朝烏さんに、我が校の誇る不良児兎褄が依存?」
「盛りすぎて漢文みたいになってる」
「それは困るな。麻路の方からもあたしへの好意を態度で示してもらわないと」
「態度、ねえ……」
麻路は考えるように呟くと、あたしの頭をふわふわと撫でた。
「碧子、私はあなたのことが好き……好きである……誰が、どう見ても……」
そして、呪文のように繰り言する。そうすることで、この一連の様子を眺めている連中にも、その事実が正しく伝わるというばかりに。
「へへへ……あたしも……」
一方、あたしはその台詞に法悦を抱いていた。赤ちゃんに戻ったみたいだった。一瞬でも油断したらオギャオギャ言い始めてしまうような緊張感すらある。危険領域だった。
そんな風に緩んだあたしの意識の狭間へ、麻路と初めて会った時の記憶が、外を歩いているとふと感じる、パステルカラーをまとった花の香りみたいに蘇ってくる。
あたしは、数ヶ月前のじっとりとした退屈に倦んでいたあたしに教えてやりたい。あたしを殺しかけた女と付き合うことになっているよ、と──。
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