第四章:『星空に紡がれる時の調べ』
夜になると、リリアは屋根の上で星を数え、オスカーは自分の心臓の音を月に合わせて調律した。ルナは二人の間で丸くなり、その体から放たれる柔らかな光が三者を包み込んだ。
「星の数だけ、私は別れを経験した」リリアはある夜、星空を見上げながら言った。「でも、星が空にあるように、別れた人々は私の中にいる」
彼女の言葉には、長い年月を生きてきた者だけが持つ諦観と、同時に深い愛情が込められていた。彼女はかつて愛した人々の名前を覚えていないことも多かった。しかし、その感情だけは鮮明に残っていた。
オスカーの心臓の音は、夜ごとに異なる旋律を奏でた。時に喜びに満ち、時に悲しみに沈み、時に怒りに震えた。彼はその音を聴きながら、自分の感情が本物なのか、プログラムされたものなのかを考え続けた。
「私の感情は歯車の動きに過ぎないのか、それとも魂の震えなのか」彼はしばしば独り言を言った。「もし私が本当に感じているなら、なぜ私は苦しむのか」
この問いに、答えはなかった。彼の心臓の歯車は、ただ規則正しく回り続けるだけだった。
ルナの体からは常に微かな音楽が流れていた。それは誰も聴いたことのない調べであり、聴く者の心に直接響く不思議な音楽だった。その音楽は、時に慰めをもたらし、時に深い悲しみを呼び起こした。
「ルナの音楽は時の記憶」セレステはある時説明した。「すべての存在が生まれる前から鳴り続けている宇宙の調べ」
ある夜、三人が屋根の上で過ごしていると、突然、空に流れ星が走った。リリアとオスカーは息を飲んだ。この屋敷の空に流れ星が見えるのは、非常に稀なことだった。
「何か願い事をするべきかな?」オスカーは半分冗談で言った。
しかし、リリアの表情は真剣だった。
「願い事……」彼女は言葉を探すように、しばらく沈黙した。「私は……終わりが欲しい」
オスカーは驚いて彼女を見た。
「終わり? 死にたいということ?」
リリアは首を横に振った。
「死ぬということではなく、変わるということ。この永遠の繰り返しを抜け出して、何か新しいものになること」
彼女の目は、星空を映して輝いていた。オスカーはその瞳に、今まで見たことのない光を見た。それは希望だった。
「僕の願いは……知ることだ」オスカーは言った。「自分が何者なのか、どこから来たのか、なぜここにいるのか。そして、どこへ行くのか」
ルナは二人の言葉を聞きながら、星を見つめていた。彼女の願いは、声に出されなかった。しかし、彼女の体から漏れる音楽は、切なく美しい調べを奏でていた。
流れ星は瞬く間に消え、再び普段の夜空に戻った。しかし、三人の心には何かが残った。それは小さな変化、微かな希望のようなものだった。
三人が屋根から降りると、屋敷の廊下でセレステとアリアが待っていた。
「流れ星を見ましたか?」セレステは尋ねた。
「ええ」リリアは答えた。「とても美しかった」
「その星は、偶然ではありません」アリアが言った。「それは兆しです」
「兆し? 何の?」オスカーは尋ねた。
セレステとアリアは互いに視線を交わし、何かを決意したようだった。
「皆さん、ご一緒に」セレステは言った。「今夜、お見せしたいものがあります」
彼らは屋敷の深くにある、普段は入ることのない音楽室へと案内された。その部屋は円形で、壁には古い楽器が掛けられていた。ヴァイオリン、チェロ、ハープ、そして誰も見たことのない形の楽器たち。部屋の中央には一台のグランドピアノがあり、その表面は鏡のように磨かれていた。
「この部屋は……」リリアは呆然と言った。「今まで見たことがない」
「この部屋は、必要な時だけ現れます」アリアは説明した。「そして今、必要な時が来たのです」
セレステはピアノの前に座り、蓋を開けた。鍵盤は通常の白と黒ではなく、何十もの異なる色で彩られていた。
「これから演奏するのは、『時の狭間の歌』です」彼女は言った。「この屋敷が建てられた時から存在する曲です」
セレステの指が鍵盤に触れると、音楽室は突然、星空に変わったかのように見えた。壁も天井も床も消え、代わりに無数の星が彼らを取り囲んだ。それは幻想ではなく、まるで実際に宇宙空間に浮かんでいるかのようだった。
ピアノの音色は、宇宙を形作るような力強さと、同時に繊細な美しさを持っていた。リリアとオスカーとルナは、音楽に包まれ、その中で浮遊しているような感覚に陥った。
やがて星々が動き始め、渦を巻くように集まり、一つの形を作り始めた。それは巨大な時計のようだった。しかし、その針は通常の時計とは違い、複数の方向に同時に動いていた。時計の周りには、彼らが知らない言語で書かれた文字が輝いていた。
「これは……時の門」アリアが説明した。彼の声は音楽に溶け込み、星々の間から聞こえてきた。「全ての時間が交差する場所です」
時計の針が特定の位置に来ると、その中心に小さな光の渦が現れた。その渦は徐々に大きくなり、やがて人の形を取り始めた。それは、白い光に包まれた少女のシルエットだった。
その少女は彼らに向かって手を伸ばし、何かを言おうとしているように見えた。しかし、その言葉は聞こえなかった。渦は再び小さくなり、やがて消えた。同時に、星空の幻影も薄れ、彼らは再び音楽室に戻っていた。
セレステはピアノを弾き終え、静かに蓋を閉じた。
「今見たのは何?」リリアは震える声で尋ねた。「あの少女は……」
「訪問者です」セレステは答えた。「まだ到着していませんが、もうすぐ。流れ星はその前触れでした」
「彼女は……外の世界から来るの?」オスカーは尋ねた。
「はい、そしていいえ」アリアは微笑んだ。「彼女は外の世界からやって来ますが、同時に、時の狭間そのものからも来ます。彼女は……カロカガティアと呼ばれる存在です」
「カロカガティア?」リリアは首を傾げた。「それはどういう意味?」
「古代ギリシャ語で『美しく、善きもの』を意味します」セレステは説明した。「彼女は変化をもたらす者です。訪れる先で、少しずつ、しかし確実に」
ルナの目が明るく輝いた。彼女は久しぶりに声を発した。
「希望……」
その一言は、部屋の全員に響いた。希望――長い永遠の中で、ほとんど忘れかけていた感情。
「彼女はいつ来るの?」リリアは尋ねた。彼女の声には、抑えきれない期待が含まれていた。
「それは誰にもわかりません」アリアは答えた。「時間は彼女にとって私たちとは違うものです。今日かもしれないし、百年後かもしれません」
「でも、もうすぐ」セレステは付け加えた。「屋敷がそれを感じています」
確かに、彼らが音楽室を出ると、屋敷全体が微かに震えているのを感じた。壁も床も、まるで生き物のように息づいているようだった。灯りは以前より明るく、空気はより新鮮に感じられた。
その夜以来、三人の日常には微かな変化が生まれた。リリアは毎朝、東の庭の桜の下で、何かを待つような表情で座るようになった。オスカーは以前より頻繁に屋敷の周りを歩き回り、まるで誰かの到着に備えるかのように、道を整えた。ルナは屋敷の入り口近くで過ごすことが多くなり、その目は常に遠くを見つめていた。
セレステとアリアも、いつもより忙しそうだった。彼らは屋敷の隅々まで掃除し、普段は使われない部屋の埃を払い、食料庫を新しい食材で満たした。
そして、ある朝――東の庭の桜が、千年ぶりに一枚だけ花びらを落とした日。
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