第2話 揺らぎの予兆

日々の中で、二人の間に流れる時間は何気ないものばかりだったが、それがとても愛おしく感じられた。


朝の講義が終わると、二人でお気に入りのカフェに寄り、コーヒーを片手に何気ない話をするのが日課だった。翔はブラックコーヒーを好み、咲月はカフェラテを頼む。そんな小さな違いも、二人にとっては心地よいものだった。


「また教授に目をつけられたんだろ?」


「うるさいな、ちょっと居眠りしただけだって……」


翔がからかうと、咲月はむくれた顔をしてストローを噛む。そんな彼女の仕草を見て、翔は思わず笑ってしまう。


「そんな顔するなって。ちゃんと俺がノート見せてやるから。」


「翔の字、読みにくいんだけどね。」


「おい、それは言うなよ!」


二人の笑い声が、カフェの温かい空気に溶けていった。大学生活は忙しいけれど、一緒にいる時間があれば、それだけで満たされる気がした。


週末には、時々遠出をした。満開の桜を見に行ったり、海辺を散歩したり。翔が撮った写真には、笑顔の咲月がいつも写っていた。


「この写真、いい感じじゃない?」


「ほんとだ。……翔、写真撮るの上手くなったね。」


「まあな。でも、お前がいい顔してるからだよ。」


そんな些細なやりとりも、愛おしかった。


けれど、「当たり前」は、ずっと続くものじゃないのかもしれない。


家族がそうであるように、恋人もまた、変化の中で揺れ動く。


気づけば、ほんの小さな違和感が、咲月の心に芽生えていた。


――家族って、何だろう?



アルバイトを終えた帰り道、咲月は駅の近くを歩いていた。夜の街は、昼間の喧騒が静けさへと変わり、歩道に反射する街灯の光が、まだ少し温かさを残している。


「明日も翔と会えるな。」


ふとそう思い、口元に軽く笑みが浮かぶ。大学生活は忙しく、二人で過ごす時間が少なく感じることもあったが、それでも翔との時間は、確実に心の中で大切な場所を占めていた。


バイト帰りの疲れを感じながらも、翔の顔を思い浮かべると自然と足取りが軽くなる。自転車のペダルを漕ぎながら、ゆっくりと帰路を進んだ。風は心地よく、肌に優しく触れる。もうすぐ家に着く。


「お母さん、今日は早く寝てるかな。」


そんなことを考えながら、自宅のドアを開ける。いつもと変わらぬ静けさが広がるはずだった。しかし――何かが違う。


玄関に、見慣れないスーツケースが置かれていた。


咲月の足が止まる。なぜ、こんなところにスーツケースが? まさか――。


咲月は心臓の鼓動を感じながら、少し足を速めてリビングへと向かう。母の姿を探すと、そこに座っていた。静かに、そしてどこかしんみりとした空気を纏いながら。


「咲月、帰ってきたのね。」


母の静かな声が、咲月の胸に重くのしかかる。


「お母さん、どうしたの?」


何かを予感していたが、その言葉を口にするのが怖かった。


母はゆっくりと顔を上げ、咲月を見つめる。その瞳に浮かぶ深い悲しみが、咲月を立ちすくませた。


「お母さん、どうしてスーツケースを……?」


沈黙が落ちる。母は、一瞬ためらうように視線を落とし、静かに言葉を紡いだ。


「もう、お父さんとはやっていけないの。」


胸が締め付けられるような痛みが襲う。


リビングの隅に目を向けると、父が気まずそうにソファに座っている。その表情から、すべてを察した。


「お父さんが……浮気したの。」


母の言葉が、まるで冷たい水のように咲月の心を打つ。


「お母さん、嘘……?」


掠れるような声で問いかける。父は何も言わず、俯いたまま動かない。


母は、苦笑するように唇をかすかに歪めた。


「もう随分前からだったのよ。気づいていたのに、信じたくなくて……。」


咲月は何も言えなかった。ずっと信じていた家族の形が、こんなにも脆く崩れていくなんて。


「どうして……?」


心の中で何度も問いかける。けれど、その答えは、まだ見つからなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る