第3話 揺らぐ心


リビングの静寂が、今でも耳に残っている。


母の姿が消えた家の中は、驚くほど広く感じられた。まるで、そこにあったはずの温もりがすっぽり抜け落ちてしまったように。


咲月はベッドの上で膝を抱えながら、あの日のことを思い返していた。


母が家を出るとき、父は何も言わなかった。


「お父さんとはもう無理なの」


母はそう言った。絞り出すような声だった。


「ごめんね、咲月……」


寂しそうに笑う母の横顔。


咲月はただ呆然と立ち尽くしていた。


「……浮気、してたんだって」


母のその言葉に、現実が音を立てて崩れた。


(お父さんが、浮気?)


信じられなかった。


家族を支えてくれていた、あの優しかった父が。


咲月がまだ幼かった頃、風邪をひいて熱を出したとき、夜通し看病してくれたのは父だった。母が出張で家を空けていたときには、慣れない手つきで料理を作ってくれた。ぎこちなくて、でも温かかった。


家族のために一生懸命働いて、私たちを守ってくれている――ずっとそう思っていたのに。


(全部、嘘だったの?)


咲月は、ベッドのシーツをぎゅっと握りしめた。


母が出て行って数日が経っても、父とまともに話す気になれなかった。


何を言えばいいのか、わからない。


「咲月……」


仕事から帰ってきた父が、ぎこちなく声をかけてくる。


「……」


咲月は返事をしなかった。


冷たい空気が流れるリビング。


父の目は、どこか申し訳なさそうだった。でも、それが余計に苛立たしい。


(何? 謝れば済むとでも思ってるの?)


声に出さずに、心の中で呟く。


家族が壊れる原因を作ったのは父なのに。母を泣かせたのは父なのに。


そのくせ、寂しそうな顔をするなんて、勝手すぎる。


「……もういいから」


そう言って、咲月は自分の部屋へ戻った。


目の前で父が何を言おうとしていたのか、それを知る気にもなれなかった。


(男の人って、結局そういうものなの?)


誰かを愛して、優しくして、それでいて平気で裏切るものなの?


______________


大学の講義が終わり、咲月は廊下を歩いていた。


周りの友人たちは楽しそうに会話しているけれど、その声もどこか遠く感じる。


(翔は違う……よね?)


考えたくなかった。でも、一度芽生えた疑念は、そう簡単には消えてくれない。


ふと、視線の先に翔の姿が見えた。


廊下の向こうで、誰かと話している。


その相手は、見たことのない女の子だった。


長い髪をゆるく結び、穏やかな笑顔を浮かべている。翔は真剣な表情で話を聞いていた。


(誰……?)


咲月の足が止まる。


周囲にはほかの学生もいるのに、二人だけが別の空間にいるように見えた。


翔は相手の言葉に小さく頷き、優しく微笑んでいる。


女の子も、少し安心したような表情を浮かべた。


ただそれだけのやり取り。


それだけなのに――胸の奥がざわつく。


(別に、ただ話してるだけ。)


そう思うのに、心が落ち着かない。


翔のあの優しい笑顔。


(私以外の人にも、あんな顔するんだ……)


父の浮気を知ったときの記憶が蘇る。


きっと母も、こういう何気ない光景から違和感を覚えていたんじゃないか。最初は信じたくなくて、でも、どこかで「もしかして」と思ってしまって――。


(翔も、同じ……?)


そんなはず、ない。


そう言い聞かせるのに、疑いは消えてくれない。


「やっぱり……男の人って、そういうものなの?」


目を逸らし、咲月は歩き出した。


翔に問いただすつもりはなかった。何か聞いてしまえば、きっと面倒なことになる。そうなるのが嫌だった。


(別に、私には関係ない。)


そう思うことで、自分を納得させようとする。


でも、翔の顔を思い浮かべても、以前のような安心感はもうなかった。


ほんの少しずつ、心のどこかが冷めていくのを感じる。


(翔はきっと私を裏切ったりしない。)


そう言い聞かせるたびに、ふと頭をよぎる。


(でも、もしそうだったら?)


その疑いが、少しずつ、心の中で膨らんでいった。

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一片の光が照らす、過ぎた季節の記憶 @Natsuis

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