第4話 歪んだ愛情と嫉妬

母は、玄関で靴を履く私の背中に冷たい声を投げた。


「おばあちゃんの家でも、ちゃんと迷惑かけないでよ。あんたがいると空気が悪くなるんだから」


私は返事をせず、ただ玄関の戸を開けた。家の中に残る湿った空気と、かすかな煙草の匂いが背中にまとわりついてくる気がした。


祖母の家は、古い平屋だった。駅から歩いて十五分ほど、風の通る坂の上にぽつんと建っている。

母からは「冷たい人」「昔から妹ばかり可愛がってた」とよく愚痴を聞かされた。

事実、祖母は若いころから叔母の方を溺愛していたという。長女である母には厳しく、叔母にはいつも甘く接していたらしい。


けれど、玄関を開けた祖母の顔は、そんな印象とは違っていた。


「よく来たね。暑かったでしょう」


祖母はそれだけ言って、私の荷物を受け取ると、黙って居間へと案内してくれた。


背後に、冷たい視線が突き刺さる。

叔母だ。母の妹で、独身のまま祖母と同居している。

リビングの椅子に座り口角だけを引きつらせるように笑って言った。

いつ見ても意地悪な笑顔だ。


「お姉ちゃんの娘ってだけで、なんか残念って感じするわ。よく来れたね。図太いわ、ほんと」


祖母が「やめなさい」と短くたしなめたが、叔母は鼻で笑った。


私はその視線の意味が分からなかった。ただ、妙な違和感だけが心に残った。


夕方、縁側で冷えたスイカを切ってくれた祖母は、私の隣に静かに座った。蝉の声が遠くで聞こえる。


「ここは静かでしょう」と、祖母が言った。「あんたの声も、ちゃんと聞こえる」


祖母は私にだけ、声をかけ、手を差し伸べてくれる。

その優しさが、叔母にとっては棘のようだったのかもしれない。


夕食には、祖母が煮物や味噌汁、炊きたてのごはんを出してくれた。

どれも素朴だけれど温かくて、体の芯までしみわたるような優しい味がした。

口に入れた瞬間、なぜか涙が出そうになる。私のために誰かが心を込めて作ってくれた食事なんて、いつぶりだろう。


家では、母が作ることはほとんどなかった。

キッチンにはいつもコンビニのお惣菜のパックが無造作に置かれ、食卓にはカップ麺や、買ってきたままの冷たい揚げ物が並ぶだけ。

私はいつも黙って箸を動かしていた。

どれも味は濃くて、なぜか空っぽになる気がした。

何を食べても同じ様な味に感じた。


祖母の料理を食べるたび「生きていてもいい」と、小さく思えた。


いま、私が料理を好きで作るのは、きっとこの祖母の味が胸に残っているからだ。

うまく言えないけれど、「大丈夫だよ」って言ってもらえているような気がして、あの味を忘れたくないと思った。


その夜、布団の中でこっそり祖母の部屋のラジオの音を聴いていた。昭和歌謡がかすかに聞こえる。

どこか悲しくて、涙が勝手にあふれて止まらなかった。


翌日、庭で小さな鳥を見つけた。

「あの鳥、最近毎日来るんだよ」と祖母が後ろから話しかけてきた。


「自由でいいな…」


気づけば、私の口からこぼれていた。


祖母は、少し間を置いて言った。


「鳥もね、すぐには飛べないんだよ。でも、羽ばたく練習はできるのよ」


その時だった。

奥の部屋で叔母が大きくため息をついた。わざとらしい音だった。


「ほんと、甘やかすのが好きね、お母さん。そうやって私ばっかり可愛がってたくせに、今さらこの子に母親ごっこ? 勝手なもんだね」


祖母は静かに言った。


「この子が必要としているなら、私はそれに応えたい。それだけよ」


「お姉ちゃん、あれでもお母さんに認めてほしくて必死だったのにね。今じゃその娘に取られて皮肉だわ」


その言葉に、私の胸がきゅっと締めつけられる。

そうだ、母はきっと、祖母が私を気にかけていることをよく思っていない。

「昔はあの子ばっかり可愛がってたのに、今さら何?」そんな思いが母の心の中にあっても不思議じゃない。


でも、私は何も奪ったつもりはなかった。

ただ、少しの温かさに触れたかっただけなのに。


帰る日、祖母は私に薄いノートと鉛筆を手渡してくれた。


「つらくなったら、ここに書きなさい。言葉はあんたを守ってくれるから」


そのノートの1ページ目には祖母の家の電話番号が書かれていた。


私は「ありがとう」と小さく呟いた。


電車の窓の外、遠ざかる祖母の家。

その中で生まれた複雑な空気と、でも確かに感じたぬくもりが、胸の奥に小さな灯りとなって残っていた。


祖母がいてくれたことが私の心の支えとなった。


私は、まだ一人では何もできないけれど。

それでも、一人で歩き出せる日は必ず来る。

そう自分に言い聞かせ窓の外を眺めていた。


次の駅が、母が迎えに来る駅だ。


足元がすっと冷たくなる感覚がした。

またあの家に戻る。


祖母の優しさを思い出せば思い出すほど家の冷たさが怖くて仕方なかった。


でも


カバンの中には、祖母がくれたノートと鉛筆がある。

私の中に小さな力を残してくれた。


電車が駅に滑り込む。

扉が開いた先に、冷たい表情をした母が大切そうに妹を抱いて立っている姿が見えた。

少し離れた場所に無表情の父が車に乗っていた。


本当に帰りたくない気持ちでいっぱいだった。

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