中本『銀の檻にて』

 大学生になってから、急に思い出すようになったことがある。

 あの家の玄関の、段差の低いたたきの冷たさとか、あの子の部屋のチェストの上に置かれていた小さな金属製の檻とか。

 その中で動いていた、灰色の毛玉みたいなハムスターのこと。名前は、銀次といった。


 どこかで似た匂いをかいだのだと思う。

 古い金属の匂いに、ほんの少しだけ麦茶のような甘さが混じった匂い。

 それがきっかけで、遠くに置いてきたはずの記憶の棚が、音を立てて開いた。


 たしか、銀次が死んだのは、春の終わりだった。

 その子――彼女の名前を、いまはもう思い出せないけれど、たぶん漢字一文字の、あっさりした名前だった――が、自室で、膝をかかえて、小さな檻を見つめていた。

 私はただ、その隣に座っていた。

 彼女が何を言っていたのか、正確には覚えていない。

 でも、声の粒子が、まるで光と匂いみたいに、記憶のどこかに沈んでいる。


 檻の中には、もう何も動いていなかった。

 止まった回し車。ぬれたティッシュ。とても静かだった。


 私は何も言わなかった。言えなかった。

 彼女のその声が、誰にも向けられていないように思えたから。

 それはまるで、自分の胸の奥を、そっと撫でるみたいな話し方だった。


 たぶん私は、その時間のなかにいたことを、ずっと忘れたまま、ここまで来てしまったのだと思う。

 忘れていたのは、彼女の名前であり、銀次の死であり、でも、言葉を聞いていたという手触りだけは、残っていた。


 銀次は、私のものではなかった。

 世話をしていたのは、あの子だった。

 名前も、たぶん彼女がつけた。


 私は、ただ見ていた。

 放課後に彼女の家に遊びに行くと、すぐに靴を脱いで、廊下を歩いて、金網の音が聞こえる部屋まで行った。

 彼女はいつも、手を洗ってから、そっと檻の鍵を外して、銀次を取り出していた。

 手のひらに乗せたまま、何か話しかけるみたいに、顔を近づけていた。


 私は、それを少し離れたところから見ていた。

 銀次の目は丸くて黒くて、まぶたのような皮膚の奥で、つねに呼吸をしているように感じた。

 毛並みは、やわらかくて、少しだけ濡れていた気がする。

 彼女の指先が、ほんの少しだけ震えていたのも、覚えている。


「さわってみる?」と、ある日言われたことがある。

 私は首をふった。こわかったのか、失礼だと思ったのか、よく覚えていない。

 けれど、その声のあとで、銀次の体がふわりと持ち上げられたのを見た。

 彼女の両手が、少しだけ重たそうに見えた。


 彼女は、銀次をしゃべらせるようなことはしなかった。

 たとえば「おなかすいたの?」とか、「あそびたいの?」とか、そういう台詞を言わせて、擬人化したりはしなかった。

 ただ、「よかったね」とか、「きれいだね」とか、ひとりごとみたいに、声をかけていた。


 その静けさを、私はよく覚えている。

 誰かが誰かに声をかけるとき、その声が空間に溶けていくまでの“ま”のことを、私は銀次の檻のそばで初めて知ったように思う。


 廊下に、小さな餌のかけらが落ちていた。

 ほんの少しだけ粉になっていて、うっすらとした足跡のようなものが混じっていたように思う。


 ケージの扉が、片方だけ開いていた。

 鍵がちゃんと閉まっていなかったのか、それとも彼女が閉め忘れたのかはわからない。

 ただ、その日、部屋の中に銀次の姿はなかった。


 回し車は動いていなかった。

 チップの間に埋まっていることも、毛布の陰に隠れていることもなかった。

 床に這いつくばって探しても、銀次が通れそうな隙間には何もいなかった。


 彼女は、何も言わなかった。

 私の記憶の中で、彼女は、そのケージの前で、じっと座っていた。

 顔も伏せていなかった。泣いてもいなかった。

 けれど私は、その沈黙の中で、“何かを失った”ことだけは、はっきりとわかった。


 何も見つからなかったその日、彼女は、いつものように私に「帰っていいよ」とも、「まだいて」とも言わなかった。

 私は、空気を吸うのが怖くなって、音を立てないように廊下を歩いた。

 靴を履くとき、かかとの音がいつもより大きく感じた。


 外に出ると、風が吹いていた。

 春の風だったと思う。埃の匂いがして、草の葉がすれていた。

 私はその風の中に、銀次がもう戻ってこないことを、勝手に決めてしまった。


 銀次は、数日後に見つかった。

 近所の茂みの中で、花壇の影に隠れるように、身をまるくしていたという。

 見つけたのは、通りかかった大人だった。


 彼女は、そのときもやっぱり、何も言わなかった。

 報せを聞いたときも、靴を履いたときも、歩いて茂みに向かったときも、何も言わなかった。

 ただ、見つかった銀次の体を、両手でそっと持ち上げて、タオルにくるんだ。


 そのタオルは、花柄の刺繍がすこしだけほつれていて、端のほうに黒っぽいインクの染みがついていた。

 私が覚えているのは、そのタオルの柄と、包むときの彼女の手の動きだけだった。

 とても静かで、やさしいけれど、何かを終わらせる手つきだった。


 私はその場にいたけれど、何もしていなかった。

 何かを言うべきだとも思わなかった。

 言葉が役に立つとは、まったく感じられなかった。

 それでも、ただひとつ、「これを忘れちゃいけない」とだけは思った。


 ……だけど、私は、その記憶を忘れていた。

 ずっと、なにも考えずにいた。

 彼女の名前も、銀次の顔も、包んでいたタオルの重みさえも。


 今こうして、書きながら思い出している。

 彼女が発しなかった声、タオルの匂い、茂みの草の揺れ、そして、その日、彼女が銀次を両手に包んだときの重さを、私は――今、ようやく、言葉にしようとしている。


 ──私は、あのとき何も言わなかった。

 彼女が銀次を包むのを見ていたのに、「可哀想だったね」とも、「大丈夫?」とも言えなかった。

 言えないまま、時間が過ぎて、学校が変わって、会わなくなって、忘れてしまった。

 忘れたというより、思い出す方法を知らなくなっていた。

 言葉にできないことが、なかったことみたいに、記憶の奥に沈んでいった。


 でも今、ようやくわかった気がする。

 私はずっと、銀次の死を「自分のもの」として語る資格なんてないと思っていた。

 世話をしていたのは彼女で、銀次の声を聞いていたのも、彼女で、私はただ、隣にいた――それだけだったから。


 けれど今、ようやく言葉にできる。

 銀次。あなたはとても小さかったけれど、彼女の時間を、あたためていた。

 彼女の静かな沈黙のなかに、ずっと、いてくれた。


 私は、あなたを語ることで、やっと、あの子に話しかけられる気がした。


 ありがとう。

 さようなら。

 そして――遅くなって、ごめんね。


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