第三話 飲んでも、語られない
「ほんとに、形になるんですね……」
頒布前日、宮北は冊子の束を抱えながら、少しだけしみじみと呟いた。
*
四月の下旬寄りの中旬、新歓号が完成し、私と宮北は部誌の頒布をしていた。手元にあるのは、約60部ほど。周囲では、別のサークルが「新歓号どうぞ~!」と呼び込みをしていた。私たちはというと、部名を書いただけの白い紙を机に貼って、ひっそりと立っている。
「二部くださ~い」
二人の仲良さそうな女子大生が、ピースサインを作って話しかけてくる。
「はい。宮北、二部お願い」
「はい!」
宮北は、女子大生二人に二部、手渡した。
あれ、ちょっと待て。今私宮北のことを宮北って呼んでた、自然に。私だけ、距離、近づけちゃってた……? なんだか、罪を犯してしまったような、不安な気持ちになってきた。くるりと、後ろを向いて息を整えようとする。名前を呼ぶことが、何かを引き寄せてしまう気がした。誰かと近づくたびに、あとでそのぶん、なにかを奪われるような感覚がある。
「ふふっ、渡井さん、宮北って今呼びましたね」
「エヘヘ……ソウダネ」
宮北に柔らかく笑いかけられるが、私は固まった笑みを見せた。
「……あの、一部、いただけます?」
そのとき、凛とした声がした。宮北が「はい!」と対応に向かう。私はと言うと、その声の主も怖い人であることを知っていたから、振り向ききれなかった。あー、そっか。四月下旬。海外では長期休みのところも多い。そっか、このタイミングで帰ってくるわよね。
「どうぞ!」
「ありがとうございます。新入生、多かった?」
「え?」
私に話しかけられたのだろうか。『新入生、多かった?』、そんな俯瞰した問いは、新入生本人である宮北よりも、一応二年生である私に向けられていると考えるのがセオリーである。
つい振り返ると、予想通りそこには、我がサークルの硬派な部員である、二島さんがいた。巻き毛気味の黒髪を、赤いリボンで束ねている。まろ眉なのに、少しもおっとりとした雰囲気はなく、不思議だった。
「えっ、あ……はい」
「ふうん……また」
それが何に対しての「また」だったのか、私はわからなかった。来年もこの場に立つのか、あるいはまた、私のことを“見ないふり”するのか――。それは会話ではなかった。でも、会話ではないことに安堵している私がいた。
二島さんは、部誌を脇に、その場から立ち去った。
*
新歓号の頒布が終わった数日後、文芸サークルではささやかな打ち上げが開かれた。
会場は、大学近くのカフェバー。お酒は出るけれど、誰も荒れたりはせず、どこか静かでゆるやかな飲み会だった。部員十数人が卓を囲んでいた。
私は、部屋の端でグラスを持ったまま、宮北が先輩たちと笑っている様子をぼんやり見ていた。グラス、といっても、オレンジジュースだ。まだ二十歳になってないし。てか、二十歳になっても酒と煙草には手を出さないつもりである。だって、自分から自分を壊しに行くのだ。仮初の快楽を享受しているうちに肝臓や肺を悪くしそうで怖い。だから、夢崎さんや中本さんのような煙草を吸っている人を見ると、少しビビってしまう。
オレンジジュースの入ったグラスの冷たさが手にじんわり移る。
……ほんと宮北って、あの子ってすごく社交的だよね。色んな人に話しかけるし。
宮北が笑っているのを見て、ふと数日前の出来事を思い出した。一緒に学内を歩いていたら、少し前を歩いていた二島さんに話しかけに行っていた。私としては、彼女に気づかないフリをしたかったのだが、宮北はそんなことしなかった。私と違って苦手意識が無いのだろう。
『二島さーん!』
宮北は、二島さんとの初対面のときに「あの人は……?」と私に訊いてきたので、彼女の名前を知っていた。
『おはようございます!!』
『おはようございます。あら、あなたは……』
『一年の宮北です!』
『へえ……。宮北さん、何か用?』
『はい、今日の服装、とってもオシャレだなって思います!』
二島さんの服装は確かに、オシャレだった。ボタンを第二のところまで開けている、マスタード色のリネンシャツ。足首が見えるハイウエストのベージュワイドパンツ。つま先の丸いレースアップシューズ。そして髪は、いつものように巻き毛を後ろに無造作に束ねて、差し色の赤いリボンを結んでいる。他人の視線を意識していなさそうなのに、結果的に目を引く装いと言える。
対する、宮北の服装はシンプルなカーキのワンピースだった。その服装が、宮北の輪郭をちょうどよく曖昧にしていた。落ち着いた色なのに、どうしてか目がいってしまうのは、たぶん、本人がまったくそれを意識していないからだと思う。
すごいな。二人とも。
私なんて、柔らかい布のシャツとか、くるぶしの見えないスカートとか……組み合わせに困らないように並べられた棚の前で、「大丈夫そうなもの」を選ぶばかりだ。
二週間単位で、それを着まわしている。
たまに、ちょっとだけ気合いを入れたつもりでも鏡の中の私は、どこか“無理してる”ように見えて、すぐに、カーディガンで隠してしまうのだった。
それにしても。
“はい、今日の服装、とってもオシャレだなって思います!”
い、言えねえ~、私あんなストレートな褒め言葉。しかし、二島さんは機嫌を悪くしないどころか、機嫌良さそうに鼻を鳴らした。
『ありがと。じゃ、急いでいるから』
と、二島さんは自分の髪を片手で払いながら、颯爽と立ち去って行った。
『宮北さぁ……怖くないの? 二島さんのこと』
『? ちょっと怖そうだけど、挨拶したら返してくれたし、いい人だと思います!』
そんなことがあった。その、二島さんは飲み会などは得意じゃないようで、この場にはいない。
っていうか、ほんと、誰かが楽しそうに酒を飲んでいると、私の気分もふわふわと釣られてしまう。そういう体質なのだ。酒を飲まなくても、こんな気分になれるんだから、私の人生にお酒は未登場予定である。
私の横には、夢崎さんがいる。夢崎さんは、何杯目かのジントニック?(先ほど、そう言って注文していた)をストローでゆっくり混ぜていた。ライムの欠片が、グラスの内側で少しだけ光っていた。
そうだ、合評会終盤でのフォローに対して、お礼を言わなきゃ。あの言葉で、空気が良くなったから。ちゃんと、改めて。
「夢崎さん」
「ん?」
「あの合評のときのコメント、助かりました」
「あ~、いいよいいよ」
「ね、夢ちゃんってそういうこと言うんだと思った。昔とは似てもつかないからさ~」
いつの間にか、私の隣には太会さんがいて、会話に割り込んできた。片手にピンク色のカクテルを持っている。やっぱり、太会さんもお酒のこと、強くて好きなんだな。彼女が持っているカクテルも、ピンクで可愛い顔してるくせに、明らかに強そう。度数が。なんか、人間みたいだ。
夢崎さんは突然の割込みに「はいはい」と流した。
そして彼女は、テーブルの端でちびちびとグラスに口をつけている中本さんに「そういや、あたし、去年の中本ちゃんの作品好きだよ」と軽く話しかけた。中本さんは、それに軽く「うん」と、うなずくだけだったが、お酒のせいか褒められたせいか、頬が紅潮していて、その様子が幼子のようで可愛かった。
「てか夢ちゃん、四年生でしょ? もう追い出されていい年なのに、なんでまだこんなとこで暴れてんの?」
「まだ一年分、在庫ありますからね~」
「留年って在庫制なんだ? 初めて聞いたわ」
なんだかアウトローなやりとりに、私は笑っていいのか分からないまま、苦笑いだけしていた。
そのとき、近くから声が飛んできた。
「夢崎さんって、あの頃、太会さんとすごく仲良かったですよね?」
誰かのその一言で、空気がひときわ薄くなった。
「なんか、鳩村さんと太会さんと、夢崎さんいつもずっといたよね」
鳩村……? なんか、どこかで聞いたことあるような……?
あ、そうだ。数年前の部誌。表紙は赤くて、奥付のところにだけ、小さく載っていた名前だ。
「はい、過去の話終わり~。今はこのへんの話しよう? てか宮北、その服かわいくない?」
太会さんが唐突に話題を変える。奥でこちらの様子を覗っていた宮北が「えへへ」と生成りのカーディガンと、ストライプのワンピースを見せた。“飲み会だから気を遣ってきました”感はないのに、なんとなく今日の空間によく馴染んでいた。いつも通り、しかしちょっとだけきれいに見える。たぶん本人もそれに気づいていない。
でも、仕切り直した太会さんの言葉が、かえってどこかに“爪痕”を残していった気がして、私は笑うタイミングを少しだけ逃した。
夢崎さんはグラスを傾けたまま、「仲、良くはなかったよ」とだけ言って、それ以上は何も言わなかった。
「夢ちゃん、今でもあのときのこと、後悔してる?」
場の話題が宮北に移って、外野でちょっとわいわいしているのを尻目に、太会さんが唐突に言う。一瞬、夢崎さんがグラスを持つ手を止めた。
「は?……酔ってます?」
その会話の意味は、私にはまったくわからなかった。ただ、二人の間に、酔いとは別のものが流れた気がした。ちょっと、意味が分からない私には少し、居心地悪かった。
私の向かいの、ずっとスマホをいじっている男川さんを見た。多分、彼女の事だから見ているのはSNSとかじゃなく、部内スケジュールの確認などだろう。まったく顔をあげない。
男川さんって、今の会話聞こえていたのかな。このよくわからない修羅場、どう思ってるんだろう。確か、男川さんと太会さんは、元々同級生だったはずだ。……あと、今は社会人の王字さんも。
そう思っていると、ふと目が合った。彼女はさっと私から視線を逸らして、夢崎さんと太会さんを見て、ほんのすこしだけ顔を歪める。そして、またスマホに視線を戻す。聞こえていたらしい。私はまた、苦笑いした。
私は、空気の詰まったグラスみたいなこの一角から、そっと席を立った。飲みかけのオレンジジュースを片手に、少し離れた椅子へ移る。誰も何も言わなかった。言わなくていいって、全員が知っているような空気だった。
何人かが席を立ち、また別の人が戻ってきて、飲み物のグラスが少しずつ変わっていく。
私もそろそろ、気疲れ的に限界かな、と思い始めたころだった。
「わたしさあ……ほんとはミステリー書きたぁい。あと、バトル……!」
私の向かいで、日本酒を飲んでいた田代さんが、そう急に零した。予想外の告白に、電撃が走ったような心地になる。
「えっ、あの……いつも書いてるの、は……」
「うん、なんか、書けないからさ。そっち。こっち書いてるだけ」
つまり、今書いているのは代替品ってこと……? 私は、なんだか、喉の奥に小骨が刺さったみたいな気持ちになった。しかし、私の中の面倒くさい人が囁く。
――じゃあ、私は?
書けないから書いてる、って。そんなの、ありなんだ。
じゃあ私の書いてるものは、なんなんだろう。少しだけ怖くなった。
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