第2話

数日後、俺に一時帰宅の許可が降りた。一度自宅に戻れば記憶も戻るのではないかという医者の配慮だろう。そのことに家族や友人、彼女も期待していることがわかった。外出許可は2日間。つまり自宅に一泊して病院に戻ることになる。一日目は家族と、二日目は彼女と友人と過ごす予定になった。その予定に俺の意見は一ミリも入っていない。いや、何も聞かれていない。決まったことを報告されただけだった。そのことに対して腹を立てる気さえ起きなかった。今の俺は蚊帳の外。そういうことなんだろう。

一時帰宅一日目。午前10時、両親が車で迎えに来てくれた。俺は後部座席に乗ると早速母が、

「ねえ、この車、何か思い出さない?この車で色んな所言ったの。伊勢神宮や、富士山、それに・・・。」

と捲し立てる。それを見て父が止める。

「母さん、そういうのは自然に思い出すのがいいんだ。下手なことを言わない方が良い。亮、無理に思い出さなくて良いからな。ゆっくり思い出せばいい。」

「・・・ああ。」

この息苦しい車内に30分揺られて家に向かった。いや、本当は帰ったと言うべきなのだろうな。そんな気は全くしないけど。

俺の家はそれはまあ、立派なものだった。都心の中心部に4LD Kの一戸建て。車庫も3台分の広さがあるし立派な庭もついている。病室が個室だったり、両親の身なりなどから俺の家はそこそこ良い生活をしているのだろうと予測していたが、それ以上だった。庶民的な家なら幾分病室よりも気が休めるかもと期待をしていたが、そんな淡い期待はあっという間に壊された。

その後、よく家族で言っていたという寿司屋に向かった。カウンター席しかない寿司屋で値段は全て『時価』と書かれていた。病院食より信じられないほど美味しかった。一時帰宅で唯一良かったと言える時間だった。両親の期待した目線は気にしないことにした。

家に戻ってから案内された自室は12畳ほどあった。部屋には大型のテレビ、主要なゲーム機は全て揃っていて、高そうなギターや天体望遠鏡まであった。ベッドに腰掛けてみるが何一つ思い出せないし、落ち着かない。こんなことがもう一日続くのかと思うとあの病室が恋しくさえ思えた。

一時帰宅二日目。早朝から友人の林と佐藤が迎えに来た。二人とも俺が所属している大学のテニスサークルの友人だという。二人に連れられていったのはカラオケボックス。毎週のようにここに通っていたと話してくれた。二人はよく歌っていた曲を歌ってくれた。なんとなく聴き覚えはあるがやはり靄がかかったような感覚から脱することはできなかった。昼食は大学の学食に向かった。そこで俺はいつも唐揚げ定食を頼んでいたと言われ、唐揚げ定食を頼むことにした。本当は麻婆定食が食べたかったが。味はまあまあ。

「どう?思い出してこないか?ここの味。」

「うーん。美味しいけど・・・」

「そっかぁ。」

林は明らかに落胆した様子を見せた。やめてくれよ。そんな表情見たら罪悪感を覚えるだろ。

「ごめん。」

つい謝ってしまった。

「あ、いや、気にすんなって。」

林はそう言っているが表情は無理矢理笑っている。そして気まずい空気になる。こうなることは分かっていたから一時帰宅に気が乗らなかった。無責任な期待を俺になすりつけて罪悪感を植え付ける。果たしてこれは一体誰のための一時帰宅なのかわからなくなる。

午後からは日奈子とのデートとなっていた。よくデートしていたという繁華街を二人で歩いた。手を繋いで歩いたが、ドキドキすることもなければ安心することもなかった。ふと先日の泉さんの手に包まれた感覚を思い出す。手と同時に心も包まれるような感覚。ずっとあのままでいたかった。

「ねえ、あそこ!」

日奈子の声で我に帰った。こんな時になんて失礼なことを考えていたんだ。

「あそこのカフェ覚えてる?付き合って初めてデートした所。二人ともカフェラテ頼んだのに亮だけブラックコーヒーが来て、亮ったらカッコつけて『俺ブラックコーヒーも好きだから』なんて言って飲んでてさ。無理してるのバレバレなのに、最後まで飲み切って・・・」

楽しそうに話す日奈子を見て俺はつい「別れよう」と言いそうになってしまった。口から飛び出るギリギリで止まり、飲み込んだ。胃を壊しそうだ。みんな誰も俺を見ていない。誰も今の俺がどう感じているのか、楽しんでいるのか悲しんでいるのか聞いてくれない。俺の気持ちを共感してくれようとしていない。以前の俺に恨みさえ感じる。

「ん?どうしたの?」

日奈子が顔を覗き込む。

「もしかして何か思い出した?」

「いや、ごめん。何も。」

「そっか・・・。じゃあ今度はあそこの公園行こうよ。」

俺は日奈子に手を引っ張られて公園に向かった。繁華街から少し離れた所にある公園は人気がなく静かな所だった。ベンチに座って先ほどテイクアウトしたカフェラテを二人で飲んでいた。

「ここは静かで気に入ってるんだ。ゆっくり話もできるしね。」

「そうだね。ここはさっきよりも落ち着く。」

これは本心だった。俺の言葉を聞いて日奈子は笑った。

「え?俺なんか変なこと言った?」

「ううん。前の亮だったら、『こんな何もない所つまらないから早く行こうぜ』って言ってるからさ、珍しい亮が見れておかしくなっちゃった。」

「俺ってそんなチャラいやつだったの?」

「うーん。チャラいというか行動力の化身って感じ。じっとしていれなくていつも何か行動している感じ。」

「そっか。・・・ごめん。」

「え?なんで謝るの?」

「いや、日奈子が好きな北野亮は今の俺と全くの別人だろ?言ってみれば俺は北野亮ではない何者かだ。そんなやつに付き合わされてると思うと申し訳なくなって・・・」

そう言っている俺の唇に日奈子が唇を合わせてきた。自然と生まれる沈黙。そしてゆっくりと日奈子の唇が離れた。

「勘違いしないで。私は今の亮も好きだよ。もちろん記憶をなくす前の亮も好き。どっちも好き。最近やっと亮が今苦しい思いをしているは気づいていた。きっと記憶をなくす前と今の亮が比べられるのが辛いんだよね。ごめん、私、ずっと前の亮に戻ることを強制していた。」

その言葉はありがたかった。今の俺に気遣ってくれていることはよく分かった。俺は悪い人間だ。それでもこの質問をせずにはいられなかった。

「じゃあ、もし俺がずっと記憶を無くしたままだったらどうする?」

「え?」

「俺がずっと記憶を無くしたままでも恋人でいてくれる?」

「もちろんだよ。」

その言葉の前には少しの間があった。その間が質問の答えだった。分かりきっていた答え合わせ。別に日奈子を責めるつもりはない。至極当然の結果だ。

「ありがとう。さ、そろそろ行こうか。」

こうして俺の一時帰宅は終了した。結果得るものは何もなかった。ただただ現実を突きつけられただけだった。

午後6時にようやく病室に帰って(・・・)これた。病院まで送ってくれた両親を無理矢理帰らせてようやく自分の時間を作れる。俺はこれからどうなっていくのだろう。このまま記憶なんて思い出さなければ良いのに。そんなことさえ考えてしまう。いけないな。ネガティブになっている。いや、そもそもなぜ記憶を戻さないといけないのだろう。というか、記憶を取り戻した場合、今の俺の人格は消えてしまうのか。それならやはりこのままがいいのかもしれない。

急に廊下から大きな音が聞こえた。何かがぶつかったような音。音の原因が気になり病室から半身を出すと

「北野さん、危ない!」

泉さんの大声が聞こえた。次の瞬間、視界に猛スピードで突っ込んでくる車椅子が見えた。人が乗っている。確かこの人は何度か車椅子で暴走していた認知症のお爺さんだ。また暴走しているのか。そんな冷静に考えている間に勢いよく俺にぶつかった。俺は飛ばされ頭を壁についている手すりに強くぶつけた。

一瞬記憶が飛んだ。

気がつくと俺は仰向けに倒れていて泉さんや他の看護師さんが駆け寄ってきていた。いつの間にか右腕には血圧計がつけられて測定されている。泉さんは涙目になりながら話しかける。

「北野さん大丈夫ですか。動かないでくださいね。頭打ったみたいなのでこれからストレッチャーで運んで先生に見てもらいますね。出血はしていないので安心してくださいね。私の声、聞こえてますか?」

「あ・・・」

「なんですか?痛いところありますか?」

「いや、あのー。記憶戻ったみたいです。」

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