透明人間は金木犀に恋をする

何某 名無し

第1話

 北野亮は病院の個室から外を眺めていた。目的はない。ただ、やることがない。スマホは手元にあるがSNSもゲームもやり尽くした。人はやるべきことがないと植物のようにじっと動かなくなるようだ。パスカルは「人間は考える葦」だと評したが、やっとその意見に賛同できた。俺が目が覚めてから1週間が経つ。俺は交通事故に遭い頭を強く打ったらしい。らしいという表現は記憶がないから仕方がない。事故当時だけではない、目覚める以前の記憶がない。断片的な記憶の気配は感じ取れはするが、すりガラスで仕切られて輪郭がやっとわかる程度の感覚。到底思い出したとは言えない。だが学校で習ったことなど一般教養な知識は覚えている。不思議なものだ。医者からは記憶には意味記憶とエピソード記憶があって、エピソード記憶の方にだけ障害がでているらしい。そのエピソード記憶も戻るかどうかもわからないと言われた。もしかしたらこのままかもしれない可能性もあるという。しかし、俺はそのことに対して大きな不安はなかった。そもそも失ったものが分からない。知らないものに対しての喪失感を覚える程ロマンチストではない。むしろ俺より周りの人たちの落胆ぶりがすごかった。家族や友人、恋人たちはどうにか記憶が戻ってほしいようだった。失ったものが認識できないということはこういう状況ではポジティブに働くようだ。余計に落ち込まなくて済む。金属が擦れる音と共に病室のドアが開いた。

 「あ、起きてたんだ。おはよー。」

 高木日奈子は手を振りながら病室に入ってきた。一応俺の恋人、らしい。

 「あ、ああ。」

 ぎこちない返答に自分で自分が滑稽に見えた。どうにもこの日菜子との距離感がつかめていない。記憶がない俺にいきなり恋人だと言われても今までどう接してきたのか、これからどう接していいのか見当がつかない。俺の反応に日菜子の表情が少し陰る。俺はこの表情を何度となく見てきた。きっと記憶の失う前の俺と比べているのだろう。俺の知らない俺と比較される感覚を俺は好きになれなかった。それと同時に罪悪感が腹の底を刺激して気持ち悪くなる。

 「今日はね、亮が好きなメロンパン買って来たんだよ。ほら美術館の前にあるパン屋さんの。美術館見に行った後いつも二人で買って食べてたよね。」

 日奈子は必死に俺の記憶を思い出させようとこうやって思い出の食べ物や写真を持ってくる。その献身的な行動に好感は持てるが、こうも毎日来られてはプレッシャーを感じてしまう。

 「ありがとう。美味しそうだ。」

「でしょ?」

俺は笑顔の日奈子に対して嘘を吐いた。全く美味しそうだと感じなかった。匂いも見た目も全く食欲をそそらなかった。日菜子を見ると期待に満ちた表情でこちらを見ている。これも何度となく見た表情だ。止めてくれ。そんなことしても一度も何かを思い出したことなんてなかったじゃないか。俺はメロンパンを口に運んだ。やはりおいしくはなかった。俺は作り笑顔を日奈子に見せた。

「美味しいね。これ。」

「でしょ!」

日菜子は嬉しそうに目を輝かせた。きっとその目に今の俺は写っていない。


日菜子がひとしきり思い出話を話し終えるとまた明日来る約束をして出ていった。病室の扉が閉まったことを確認してからため息を吐いた。肩の力が入っていたことに今気が付いた。三つノックの音がした。「はい、どうぞ。」と答えた。扉がゆっくり開いた。

「おはようございます。北野さん。検温に来ました。」

姿を現したのは看護師の泉さんだった。年齢は俺とよりも少し上に見える。25歳ぐらいか。

「彼女さん。今日も来てたんですね。いい彼女さんですね。」

「ええ、まあ。」

「北野さんと同い年でしたっけ?二十歳かぁ。いいなぁ。」

「そうですか?そんなことないですよ。」

「・・・喧嘩でもしました?」

喧嘩か。ふと彼女とはそんなこともできない関係だと気付いた。そんなことができるほど自分の中で関係を築けていない。

「違いますよ。彼女が帰って寂しくなっただけですよ。」

俺はまた嘘をついた。寂しさなどは全くなく、寧ろほっとしたぐらいだ。

「それ、嘘ですよね?」

泉さんが優しく呟いた言葉に喉の奥が締め付けられる。

「え?なんで?」

俺は情けない声で聞いた。泉さんは少し間を開けて

「当てずっぽうです。」

そう言って笑った。笑っているのにその瞳は泣いているように見えた。この人は金木犀のような人だと思った。清々しい香りの中に言葉にできない切なさがある。香りが去った後もその切なさだけが鼻の奥に残り、忘れさせてくれない。それが彼女の魅力として成立していた。

「でも、その反応は当たりですね。やっぱり喧嘩でもしたんじゃないですか?」

なんと答えればいいのだろう。適当に嘘をついてもバレてしまうのではないかという恐怖心が唇を乾燥させる。

「あ、泉さんいた!どこで油売ってんの。検温まだ終わってないんだから。早く次の病室いくわよ。」

廊下から中年の看護師が泉さんに大声を投げつける。それに驚いた泉さんが身体を小さく飛び上がったのを俺は見逃さなかった。

「あれ?泉さんもしかしてサボってここにきてたんですか?うわー、真面目な人だと思ってたのに意外だなー。」

「いやー、ちょうど用事がこっちにあって…」

「それ、嘘ですよね?」

仕返しとばかりにさっきと同じ言葉を泉さんにぶつけた。泉さんは少し顔を赤らめて

「いじわる。」

とだけ言って病室を走って出て行った。彼女が出て行った病室には切ない残り香が立ち込めていた。きっとそのせいだ。彼女ともっと話していたいと思ったのは。


記憶を無くす前の俺はどうやら友人が多いようだった。毎日毎日違う友人が見舞いに来る。「心配したぞ。」「早く良くなれよ。」「退院したらまた遊びに行こうぜ。」皆優しい声をかけてくれた。人によっては「生きててよかった。」と泣いてくれる人もいた。お見舞いに来てくれる人全員いい人だとは思うが、どうにも好きになれなかった。誰も彼も今の俺なんか見ていない。記憶のなくす前の俺しか見ていなかった。面と向かって会話しているのに無視されている感覚。前の俺は友達が多かったかもしれないが、今の俺はこの世界に一人ぼっちだった。

いや、今の俺を見ていてくれる人がたった一人いた。

「北野さん。午後の検温の時間ですよー。」

笑顔の泉さんが病室に入ってくるときだけが俺か存在する気がした。

「泉さん、また油売りに来たんですか?」

戯けながら言った。

「違いますー。これは立派なお仕事ですー。」

「はいはい。そういうことにしておきます。」

「あー、そういうこと言うんですねー。知ってます?私の報告の仕方ひとつで北野さんを緊急治療室に運ぶこともできるんですよ。」

「物騒なこと言わないでくださいよ。」

「じゃあ私が油を売りに来たこと内緒にしててくださいね。」

「油を売りに来たことは否定しないんですね。」

そう言って二人で笑い合った。生後二週間足らずの俺にとってこの時間だけが俺が俺でいられた。二人で散々笑い合った後、泉さんはポツリといった。

「さっき北野さんを見かけたとき、また元気のない表情をしてたので気になったんですよ。北野さん、面会があるごとに元気じゃなくなってる気がして・・・。それが気がかりで油を売りに来ました。」

先程の笑顔とは違う、包み込むような微笑みで俺を、今の俺を見つめた。全く、この人は怖い人だ。そんな顔で見られたらどうしたって心の扉を開いてしまう。

「みんな、優しいんですよ。俺のために色々してくれて、会いに来てくれて。それは感謝しているんですけど。それは今の俺のためじゃなく、前の俺、記憶を無くす前の俺のためなんだって感じちゃうんですよ。何言ってんだって感じですよね。同じ北野亮なのに。分かっているんです。そんなことはないって。」

泉さんは余計な相槌はせず、真剣に、俺の言葉ひとつ一つを丁寧に汲み取るように聞いている。それがありがたかった。変な励ましなど要らなかった。

「俺、たまに思っちゃうんですよ。今の俺は邪魔者なんだなって。みんな本当は心の奥で記憶を無くした北野亮なんかとっとと死んでしまって、記憶を戻した北野亮に早く生まれ変わればいいのにって。そう思ってるんじゃないかって、そう感じるんですよ。」

記憶の無くす前の俺を知っている人から見れば、記憶を無くす前も今も同じ人物なんだろうが、以前の俺を知らない俺は以前の俺に対して別人格、いや全くの別人に感じていた。

「だから、誰かと会う時に怖くなってしまうんですよね。世の中の全員が敵に感じるんです。皆んな今の俺に早く死んでしまえばいいのにって願っているようで・・・」

そう言い終えると、泉さんの小さいけど肉厚の手が俺の手を包み込んだ。

「そうだったんですね。そのことを誰にも言わずにずっと耐えていたんですね。我慢してたんですね。みんなを心配させないように。えらいです。でも、でもせめて私の前では我慢しないで欲しいです。私は以前の北野さんを知りません。今の優しいけどちょっと意地悪な北野さんしか知りません。だから、私の前では我慢しないでもっと自分の気持ちを曝け出してください。私では力不足ですか?」

「泉さん・・・」

唐突に泉さんのPHSが鳴った。二人とも驚き咄嗟に手を離した。

「はい、どうしました?」

焦った声で泉さんはPHSに出た。気のせいか頬が赤い。もしかしたら俺も赤くなっているのではいか心配になった。

「わかりました。すぐに行きますね。」

そう言ってPHSを切ると

「また油が売ってるのがばれちゃました。」

といたずらな笑顔で戯けて見せた。

「えーっと、じゃあ私戻りますね。」

「あ、はい。」

変な気まずさが会話をぎこちなくさせた。泉さんが出ていった後の病室はやけに静かに感じた。

「何やってんだよ、俺は。」

無音の病室に独りごちた。俺には日奈子がいるのに。

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