通勤電車の恋人 II
櫻井彰斗(菱沼あゆ・あゆみん)
平和だ
初デートとは――
平和だ。
朝、いつものように杏は電車に揺られていた。
窓から見える海もいつものように輝いていて。
学生たちがさっき、大量に降りていったので、車内も少し空いていた。
なんだかまったりと時間が過ぎていく。
平和だ。
課長も浅人も居ない。
……そして、乗ってくるはずの蜂谷も居ない。
どういうことだ、あの男、と思っていたら、電車に乗り遅れたとメールが入ってきた。
でも、帰りは、車で送って帰ってやる、とあったので、ちょっと嬉しいような。
蜂谷と付き合うようになって、二週間。
だが、特に今までとなにも変わりはなかった。
付き合うってこんなものかな、よくわからないけど。
みんなで一緒に食べに行ったり、遊んだり。
今までと大差ないような。
じゃあ、実は自覚がないだけで、今までも蜂谷と付き合ってたんじゃ、と阿呆なことを考えてしまう。
それに、その基準なら、向井はどうなるのだろう。
『付き合っている』はずの人間とやっていることを大きく飛び越えたことをしてしまっているのだが。
いやいや。
今は課長のことは考えまい。
蜂谷と付き合うのだ。
そう決めたんだから。
つり革を握りしめる杏の耳には、
「だから、そうやって覚悟を決めなきゃいけない時点で間違ってるだろうが」
という課長の声による幻聴が聞こえていたが、今は、聞かぬふりをした。
昼休み、杏は近くの公園で蘭たちとお弁当を食べていた。
「結婚式に、蜂谷が遅れて、課長が来るに私は賭けるわ」
と蘭が言い出す。
なんてありそうな恐ろしい話を……。
「でもー、課長、モテますからねー。
そんなに長くは待っててくれないと思いますよ」
と春香が横から言ってくる。
「あのさ、なんで、最終的には課長と付き合うこと前提なの?」
いや、なんとなく……と二人は言った。
「大丈夫。
日曜には、なんと、蜂谷と初デートだもんね」
と勝ち誇って見せると、春香が、
「ええーっ。
高校のときからずっと一緒でデート、初めてなんですかっ?」
と言ってくる。
「……デートと銘打って出かけるのは初めてってことよ」
と言ったあとで、待てよ? と思う。
「そういえば、いつもなんだか、誰が居る!」
近所に買い物、以外で、完全二人切りというのはなかった気がしてきた。
「どうしようっ。
緊張してきたかもっ」
「あのー、あれだけべったり一緒でも、緊張するものなんですか?」
と春香が訝しむように訊いてくる。
「どうしよう。
デートってなにするものなの?」
「……ねえ、あんた、もしかして、他の誰かともデートしたこととかない?」
と蘭が言う。
「当たり前じゃないの。
ずっと蜂谷だけが好きだったのに、なんで他の人とデートしたことがあると思うのよ」
「いやそれは、ほら」
「ねえ……」
と蘭と春香が言葉を濁す。
「なんとなく誘われるってことあるじゃない」
「で、なんとなく出かけたりとか」
「なかった!」
「……ほんっとうに、蜂谷さん一色の青春だったんですねー」
こりゃ気づかないわけだ、と春香は言う。
「え、なにに?」
と言ったが、春香は答えない。
「いえ。
杏さんが今幸せなら、それでいいです」
とよくわからないことを言う。
「杏、誘われてないわけないと思うんだけどね」
と蘭はぶつぶつ言っていた。
「向井課長と出かけるのは平気なくせに」
と言うので、
「課長とは別にデートじゃなかったし。
いや、緊張はするわよ、いつ怒られるかと思って」
と言うと、春香は物言いたげな顔をしていた。
「ともかく、蜂谷にも言っときなさいよ。
なんか特別なことしようとすると、絶対あんたたちは失敗するから、普通に出かけて、食事して、夜景でも見て、帰ってきなさい」
なんか、初めてのお使いみたいだな、と思っていた。
仕事の途中、エレベーターに乗ったとき、向井と二人きりになった。
「そうか。
ついに初デートか。
展開が遅いぞ」
と文句を言ってくる。
いや、貴方にケチをつけられるのもおかしいんですが、と思いながらも、なにか言うと、またややこしいことになりそうなので、黙っていた。
「迷子になるなよ」
と蘭と同じように、子供に言うようなことを言ってくるので、
「なりませんよ。
……たぶん」
と言うと、
「大丈夫か?
お前ら、デートってどんなものかわかってるのか?
どっちもしたことないんじゃないのか?」
と言い出した。
「蜂谷はありますよ」
と嫌なことを思い出してしまう。
「ちゃんと、普通に出かけて、食事して、夜景でも見て、ホテルにでも行って帰ってこい」
ほぼ蘭と一緒だが、なにか増えてるぞ。
っていうか、それがデートというものなら、ほとんど課長とやってますよね、と思った。
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