第2話 悪ガキと色男(下)


「うっ……」


 目を開いても、瞼の裏側と変わらない闇が広がっている。どこからか漂う異臭が鼻を刺し、思わず顔を顰めた。椅子に座らされてはいるが、手首は細いなにか、恐らく結束バンドに縛られ、自由は利かない。どうにか外そうと試みるが、余計に手首に食い込むだけであった。

「また随分と眠っていたね」

 暗闇に埋もれて姿は確認できないが、溶雪の声が左から聞こえた。

「なぁ、もしかしてこれって、詰んだか?」

「認めたくはないけどね」

「クソが……」

 背凭れに体重を乗せ、天を見上げる。後頭部がずきずきと痛む。

「ったく、なんのための用心棒なんだか。眠気で勘が鈍ったかい?」

 溶雪の挑発に乗る気分にもなれない。光すら届かない部屋で監禁された末路は簡単に想像がつく。頭上、それも天井の先でうろつく不快な気配がそれを物語っていた。

「けど今なら妖力の探知は完璧だぜ」

「もう遅いんだよ、バカ」

 徐々に目が慣れていき、うっすらと部屋の輪郭を掴み始めた。思ったよりも部屋は広く、紫苑と溶雪が座っている椅子以外のものは置いてなさそうだ。

「ここは、どこだ?」

「おそらく地下室だね。部屋の広さが設計図に合った地下室と同じくらいだ」

「設計図?」

 そんなもの見た覚えがない。

「君が電車で寝ている間にここら辺のテナントを扱っている不動産勤務の娘に送ってもらったんだ。会社の場所は葵さんから聞いてたしね」

「相変わらずの人脈だな」

「その代わりにデートの約束を取り付けられたけどね」

 なんとも羨ましい話だ。ここから出られたのなら、の話だが。

「さて、」と、溶雪が立ち上がり、ドアへ向けて歩き始めた。思わず声を荒げる。

「おい! なんで立ってるんだよ!」

 背中で縛られていた結束バンドがプツリ、と解けた。さわさわとした、毛玉のようなものが触れる。

「仕事は真面目にするものだね」

 紫苑の手の上では数時間前に捕えた妖——牛鬼がちんまりと乗っていた。ミニチュアサイズになった牛鬼がぴぃぴぃと鳴いている。潰れた目を見て、少しだけ罪悪感を覚えた。

「小さくできるなんて知らなかったぞ」

「言ってないからね」

 パチン、とスイッチが押され、白熱灯の光が部屋を照らした。


「おい、これって……」


目に飛び込んで来た景色に、思考が止まる。

「悪趣味が過ぎるね」

 溶雪も顔を顰め、口を手で覆った。

 六面の壁には所余すことなく、夥しい量の血痕。先ほどは闇に紛れて見えなかったが、壁際には一足だけのヒールやネクタイの切れ端、朽ちたランドセルが無造作に転がっている。

 爪が食い込むほど拳を強く握って、紫苑は壁を殴った。拳を中心として亀裂が入り、粉くずがはらりと床へと散らばった。

 血が滴る拳を意に介さず、紫苑は溶雪の横を通り過ぎて、ドアノブに手をかけた。鍵がかかっているが、強めに回すと簡単に扉は開いた。



 やった。成績ドベの私が上物を二人も捕えられた。一人は妖力の欠片もないが、もう一人は十分すぎるほどの塊だ。さらに男が持っていた刀。これは相当な額で売れるし、持っているだけで他の妖を牽制できる。私たちの地位は別格となる。社内での評価は鰻上り間違いなしだ。出世だって夢じゃない。

「葵! よくやった!」

 社長が私の背中を勢いよく叩いた。

「はい! ありがとうございます!」

 他のみんなも笑顔で私を取り囲んだ。いつもと違って明るい雰囲気が社内を包みこむ。

 正直、ダメかと思った。

 昨日の飲み会では散々な言われようだった。六人同時に捕えた部長の武勇伝や、陰陽師を騙し討ちした後輩の話を延々と聞かされた。自分よりも優れた人の話を聞くのは苦痛だった。言葉の裏側に『お前よりも俺の方が出来る』と、暗に透けた自慢が私の心を深く沈めていった。

 いつもなら飲まない量の酒を飲み、ふらふらと酩酊しながら帰路に着いていた時に、牛鬼は現れた。私たちより遥かに強い牛鬼からは逃げるしかなった。酔っているせいか、人の身から変わる事もできず、ただカバンを振り回して路地裏を駆けずり回るしかできなかった。

 もう私は、死ぬかと思った。ここで最期なのだと。何も為せず、ただ一人、誰もいない街の片隅で終えるのだと、そう思った。

 けれども、天は私を見放さなかった。

 こちらの世界に精通した男が二人、牛鬼をいとも簡単に捕えた。

 殺される。

 そう思ったのも束の間、気づいたらベッドの上で治療を受けていた。医師も男たちも私の正体には気づいていない。人の身を解かなかったことが幸いしたのだ。

 しめた。

 こいつらは気づいていない。さらに馬鹿正直に私の話を信じてのこのこと着いてきた。後はもう簡単だ。取り囲んで、いたぶって、捕えてしまえばいい。

「心臓は葵が食っていいぞ」

 部長の言葉に私の心は踊った。人間は心臓が一番美味い。噛んだ時に溢れ出る血液が最高だ。面がよかった長髪の男の心臓を抉ることを想像しただけで、唾液が溢れ出した。

「早く食べたいですね!」

「男は久しぶりだなぁ」

「おい! 酒はまだか!」

肉には日本酒が一番だ。今日は表の仕事もやめて、このまま宴だ。

 ドアが開き、スーパーの袋を抱えた新人が入ってきた。袋から覗く一升瓶が照明をきらきらと反射している。

「お待たせしました!」

 おぉ、と社内が湧きたつ。

今までの苦労は無駄じゃなかったのだ。これでようやく、私もみんなの力になれた。

 新人が何かに躓いたかのように倒れかけた。

 ひゅっ、と風を斬るような音がして、新人は私のすぐ横を通り過ぎ、オフィス奥の壁へと吹き飛ばされた。割れた一升瓶から漂う香りが辺りに漂う。

 さらに、刀袋が宙を舞い、入口の扉へ向かって飛び上がった。

 社員全員の視線が入口へと向く。

 そこには、男二人が立っていた。



 ざわざわと騒ぎ出すオフィス内。溶雪が紫苑に刀袋を手渡す。

「さんきゅ」

「世話がかかる用心棒だよ」

 紫苑は刀袋の緒を丁寧に外し、中から日本刀を取り出した。黒い鞘に赤い柄。三尺一寸の刀を腰に携え、すらりと刀身を抜く。白い刀紋が艶めかしく輝いた。

 それを見た社員たちは血相を変えて、スーツを脱ぎ始めた。身体からは茶色の毛が生え始め、指先の爪は伸び、人の顔から猿の顔へと変貌を遂げ、唸る声が空間にこだまする。

「正体は狒々だったか」

「狒々? 猿みてぇだけど」

 おおよそ十六体の狒々が殺意を宿らせた視線を向ける。

「似てはいるけどね。それと僕は一体ずつしか相手できないから、よろしくね」

「はいはい」

 二人の間に緊張感はない。けれども、隙もなく、狒々たちは踏み込むことが出来なかった。

 一瞬の静寂。秒針の音だけが響く。


「「「ウォオオオオオオオオオオオオオ!」」」


 デスクの上の書類が空中に舞い、怒号と共にひと際背の大きな三体が爪や鋭利な牙を向けて襲い掛かった。

 上段から振り下ろされた一閃が先頭の狒々を一刀両断。血飛沫が飛び散る。続いた一体も左下から薙ぎ払うように放たれた一撃で巨体を上下に分けた。

「ぐぅっあぁ」

 三体目の首は黒い縄で縛られており、白目を剝いて床に伏せた。

 紫苑が一歩、歩みを進める。

「てめぇら、人を喰ったんだ」

狒々が二人の周りを取り囲んだ。


「——ケジメはつけてもらうぞ」


 紫苑は荒々しく燃える目を狒々に向け、片手で握った刀を振りかざした。


 無機質なオフィスの壁に血飛沫が飛び散っていく。宙を舞う腕や首が無造作に床へと落ちていく。

「死ネヤァ!」

 繰り出さられた爪と刃が交差し、火花が飛び散る。紫苑が狒々の側頭部を鷲掴みにし、壁へと打ちつけた。脳震盪を起こした狒々は白目を剝き、意識を飛ばす。その隙に一太刀で首を断った。

 切られた首から溢れる血が床へ到達する前に、また違う狒々の体の一部が吹き飛んでいく。夥しい量の血液を浴びながらもなお、紫苑は刀を振り続けた。そこに剣術など高尚なものはなく、ただ本能の赴くままに刃を振り続ける。その様子は、血を求め続ける修羅の如く、縦横無尽に戦場を駆け続け、数多の命を絶ち続ける。

 紫苑の周囲を五体の狒々が囲む。どれも紫苑の身体を優に超える高さだ。鋭い爪が頭上から振り下ろされる。風を斬る音と共に、ピアスが揺らめく。羽織ったシャツがひらりと浮き、描かれた円系の太刀筋。五体の狒々はもれなく、腹から血を吹き出し、お互いの身体を紅く濡らした。


「あっちは派手だねえ。そう思わないかい?」


 溶雪が靴の下にいる狒々を見下ろした。縄で縛られた狒々が呻く声が微かに聞こえる。

「ん? 何か言ったみたいだけど聞こえないな。まぁ、いっか」

 手を狒々の額に当てると、白い光と共に姿は消え、その代わりに琥珀色の石が床に落ちた。

 右から口を大きく開けた狒々が四肢を駆使して凄まじい速度で襲い掛かる。溶雪はそれを一瞥すると、掌を向け、小さく言葉を放つ。


「——天妖呪縛・紐縛り」


 掌から噴出した黒い縄が蛇のように身体に巻き付き、毗位は勢いよく床へと倒れ込んだ。

「テメェエ、何ヲシタ!」

「ただ縛っただけだよ。最も、妖専用の縄でね」

 天妖呪縛。縄などを用いて目の前の妖・魔・人間を拘束する妖術の一種。この術を使う者は『妖縛師』と呼ばれ、古くからこの国で妖を捕えてきた。しかし、この術を会得すると引き換えに妖力を探知することが出来なくなる。対象を拘束することに己の妖力の全てを用いるため、他者の妖力を感じる余力がなくなるためである。

 だが、それが故に天妖呪縛の拘束は強力。術者自身の妖力が強ければ強いほど、その拘束は力を増す。

「もう商品はいらないかな」

 溶雪は縄を思いっきり引っ張り、放った。それは鞭のように紫苑目掛けて飛んでいく。

 まるでバッターが軽快にヒットを打つかのように、力むことなく、紫苑は飛んできた狒々の首を切断した。縄に結ばれていた身体が黒い灰となって消えていく。

「テメェラ、一体ナンノツモリダァ! 俺ラノ後ロニ、誰ガイルノカ知ッテイルノカァ!」

 社長、と呼ばれていた人間——狒々が両手の爪を急成長させ、手頃なナイフほどの長さへと変貌する。体躯も他のモノより大きく、天井に頭が付きそうなほどだ。

「知らねぇし、興味もねぇな」

 刀を一振りし、刀身に付着した血を払った。真っ直ぐと狒々を見上げ、切っ先を頭部へと向ける。

「フザ、ケルナァアアア!」

 凄まじく恐ろしい速度で繰り出される両の爪の刺突。爪と呼ぶにはもはや言葉足らず。それは紛れもなく、二振りの刀剣に等しかった。

 紫苑は右手をぐうっと後ろに反らし、遠心力と共に振り切った。ぶつかり合う刃と刃が火花を散らす。金属がぶつかり合うような音がオフィス内に響き、床へ天井に傷が募っていった。

 応酬が幾度も続いた刹那、紫苑の身体は狒々の懐へと入り、右腕を斬り飛ばした。飛ばされた右腕が鮮血を撒き散らしながら、灰となって消えていく。狒々の断末魔が鼓膜を突き刺した。

「ナンデダ! 血ガァ、血ガ止マラネェ!」

 残された左腕で止血を試みているようだが、依然として流れ続ける。

 妖は本来、武器というものが通じない。妖力が通った武器でなければ傷つけることはできても、即座に回復されてしまう。もし仮に、妖力が通っていたとしても、その強さが妖に負けるのであれば、やはり妖の回復力が傷を凌駕する。

 紫苑に妖力はなかった。元々、妖術が扱える家系に生まれたわけでなければ、妖と交わった血筋でもない。けれども、彼には〝刀〟があった。


「ソレハ、破邪ノ太刀ノ力カァアアアアア!」


「ご名答」

 紫苑は床を蹴り、即座に狒々の両太腿に横一線の傷を負わせた。


 破邪の太刀。その名の通り、邪を破る太刀。平安時代に三条宗近によって打たれ、代々持ち主を変え、時には刀の長さが変わったとしても、受け継がれてきた妖刀である。その力は、持ち主に強制的に妖力を与え、妖には通常の倍以上の傷を負わせる。妖が持てば凶悪な刀となり、陰陽師が持てば強力な戦力となる。それが故に、この刀を狙うモノは多かった。


「グゥッアァアアアア!」

 もはや声にもならない叫びを上げながら狒々は紫苑に向けて突っ込んでくる。だが、その動きは紫苑に届くことなく、止まった。狒々の表情に焦りが浮かぶ。

「そろそろ終わりにしなよ、紫苑」

「あぁ、溶雪」

 視線の先には縄で縛られた狒々。必死に身体をよじって抜け出そうとするが、動けば動くほど縄が身体を締め上げていく。

 刀を鞘に戻すと、左足を引き、身体を前方へと屈め、眼前の狒々を捉える。その目は酷く静かであった。一瞬の静寂。紫苑は低姿勢の状態で床を蹴り、


「我流——蜘蛛里硝子」


 無数の斬撃が狒々を襲う。刀身に電灯の明かりや血液が反射し、まるで砕けた硝子が舞っているようであった。狒々の身体の至る所からドス黒い血液が溢れ出し、短い断末魔と共に黒い灰となる。そして空気に混じるかのように消えていった。

「ひっ」

 部屋の隅には葵が身体を縮めるようにして蹲っていた。

「君にどんな思惑があったのかは知らないけど、少なくない数の人を喰らったのだろう。それに僕らに恩をあだで返すような真似をした。覚悟はできているよね?」

「ご、ごめんなさい……! 私も脅されていて」

「嘘だな」

 紫苑は切っ先を葵へと向ける。

「用心棒がそう言うなら、間違いないね」

「そ、そんな……」

「そう言えば、紫苑。これ見て」と、溶雪は紫苑にスマホの画面を見せる。そこには注文リストが映し出されていた。天狗に座敷童、つるべ火、など多くの妖に報酬金が掛けられている。こいつらを欲している人間はどれも醜悪な欲望を満たす道具としか考えていないのだろう。

 けれども、金を落とすのも彼らだ。だから紫苑達は自らの商売にルールを設けた。下手をすれば己の命さえ危うくなるルールを。

「あ、そうそう。この人、覚えてる?」

「えーっと、あぁ、金持ちのおっさんか。不動産経営だかやってる」

「その人のリスト見て、ほら」

「うっわ、相変わらずの変態だな。けどまぁ、ぴったりか」

 二人の目が葵へと向けられる。見つめられた獣はひっ、と仰け反った。

「ちょっと痛いけど我慢しろよ。できるよな。だって、あんなに人間を喰ったんだから」

 紫苑の持つ刀が振り下ろされた。


 目の前に差し出されたトレーの上には牛度うんと味噌汁。どちらもほのかに湯気が立っている。思わず垂れそうになった涎をぐっと押し込んだ。


「「いただきます」」


 米と牛肉、玉ねぎを箸に取り、小さな牛丼を完成させる。慎重に口へと運び、文字通り噛み締める。

「うっまぁ……」

 ほのかなコメの甘みとあまじょっぱい牛肉と玉ねぎが口の中で踊り、あっという間に全身へと染み渡っていく。これだけで働いた価値があるってものだ。

 ふと隣を見ると、七味で真っ赤にした牛丼を溶雪が頬ぼっているところだった。

「……それ、美味いのかよ」

「美味しいよ。汗もかくからデトックス効果もあるし」

 他の何かに悪そうだな、という言葉は味噌汁と共に流し込んだ。

 スマホのバイブ音がして、溶雪はスマホを取り出した。画面を見るなり溜息を吐く。

「どうしたよ」

「あの娘からだ」

「あー、不動産の?」

 あのビルの間取り図を送ってくれたという子。あのおかげで自分たちがいる場所が分かり、快適に全フロアの狒々を殺すことが出来た。そんな恩人からデートの誘いでも来たのだろうか。

「いや違う子。この辺りで働いているラウンジ嬢なんだけど、仕事が終わったから会えないかって」

 今度は紫苑がため息をついた。何故か、いや理由はハッキリしているのだが、隣のバカ舌はやけにモテる。モテるどころか至る場所に女を作る天才だ。

「紫苑はこの後どうするの? 店に戻る?」

「あー、そうだな」と、紫苑は天井を見上げた。白熱灯の明かりが目に染みる。

「ジジイの墓参り行ってくるわ」

「そう。十之助さんによろしく伝えといてね」

 あっという間に七味牛丼を食べ終えた溶雪は立ち上がり、カウンター奥に「ご馳走さまでした」と、言葉を投げた。

「刺されるなよ、色男」

「そっちこそ叱られるなよ、悪ガキ」

 そう言ってにやりと笑うと、溶雪は店を後にした。


「ジジイ、あの人らのとこで世話になってから、もう随分と経つよ」

 柄杓で掬った水を墓石へとかけていく。水が滴った場所が色濃くなった。

 ジジイ——十之助が好きだった紙パックの日本酒を供え、手を合わせる。

 穏やかな空間に流れる風とどこからか聞こえる生活音。

 ゆっくりと目を閉じれば、あの夜のことを思い出す。


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