クズ二人、妖怪売ります
鳥居 あきら
第1話 悪ガキと色男(上)
「だ、誰か——」
月が雲に隠れ、街が闇に呑まれる午前一時。しんと静まり返る街の片隅で、一人の女性が路地裏を駆け抜けていた。仕事用に、と履いていた安物のヒールはどこかで脱ぎ捨て、手に持っていたカバンは背後から迫る異形の物に向けて投げてしまった。
「——ッ、はっ、はぁ……」
スーツの下に着ていたインナーが汗を吸って身体を締め付ける。呼吸が浅くなり、酸素が身体を巡らずに、吸った途端に逃れていそうだ。脹脛は痺れ、なぜ走れているのか自分でもわからない。それでも彼女は背後から足音が聞こえ続ける限り、懸命に脚を動かしていた。
雑居ビルの間にある路地裏はゴミ袋やドブネズミの巣となっており、陰鬱とした空気が流れている。その空気に足を引っ張られるように、勢いよく前のめりに転倒した。
「うわっ!」
アスファルトのざらりとした地面が肌へと突き刺さる。スーツの下からは腕や膝から熱を帯びた痛みと真っ赤な液体が流れていく。
立ち上がろうにも全身に力が入らない。彼女の顔は次第に恐怖で埋め尽くされていった。
雲が流れ、月光によって照らされた巨躯が姿を見せる。
「ひっ——!」
思わず振り返ってしまった彼女が見たものは、巨大な蜘蛛であった。しかし頭部は通常のそれとは異なり、牛と人間を合わせたような姿をしている。鼻を突くほどの異臭が立ち込め、視界が滲み始めた。怪物の口が開き、尖った牙と線を引く唾液が彼女へと迫る。
「嫌だっ! やだ! イヤッ!」
会社の飲み会に参加しなければ。終電を逃さなければ。二次会になんて行かなければ。
次々と押し寄せる後悔と共に雫が頬を伝わっていく。目を瞑り、せめて命を刈る牙を見ないようにする。
「——し、死にたく、ないよ……」
ビュン、と風を斬る音が聞こえたと同時に、路地裏に鮮血が飛び散った。
「邪魔だ! どっか行ってろ!」
苛立ちを隠せない声が鼓膜へと飛び込んでくる。
目を開けると、そこには一人の青年が庇うように立っていた。黒いシャツに袴のようなゆったりとしたパンツ。突き刺すような眼光とゆらりと揺れるピアスが月の光を反射している。彼が握る刀からは血が滴り落ちていた。
「紫苑!」と、今度は頭上から声が降ってきた。
「顔に傷を付けたら売り物にならないって言っただろ! 治るの遅いんだから! また愛奈さんに怒られるよ!」
見上げると、雑居ビルの屋上にベージュ色のカーディガンを羽織った一人の男性がしゃがみこむようにして、こちらを見ていた。
夜だというのに黒いサングラスをかけ、長い髪を後ろで縛っている。口から吐き出される白い煙が夜の空に雲を生み出しているようだった。
「あぁ⁉ うるせえぞ溶雪! 人を助けたんだ! これなら文句ねえだろうが!」
紫苑、と呼ばれた青年が怒号のように呼びかけるが、返答はない。その代わりに怪物が絶叫にも似た雄叫びを上げた。
「グゥウウウアアアアアアアアアアアアアアアア‼」
両目に横一文字に引かれた刀傷からは、どす黒い血がだらだらと流れている。そして怪物は、するどく尖った脚を青年に振りかざした。紫苑は脚が己に届く前に、頭上で切り落とす。溢れ出る血液が紫苑に降り注いだ。
怪物は怯まずに反対側の脚を振りかざすが、なにかに当たったかのように紫苑の目前で静止した。脚は空中でぶるぶると小さく震えているように見える。まるで見えないなにかに縛られているかのようだ。
「依頼よりもやや小さいけど、まあいいか」
いつの間にか地上へと降りてきた男性——溶雪が怪物の額に手を当てた。怪物は鬼のような形相で溶雪を見つめるが、刹那、怪物が眩い青色の光と共に消失した。
「終わったー! さっさと帰ろうぜ。腹減った」
そう言って紫苑は持っていた刀を鞘に納める。鍔が鞘に当たる小気味のよい音が響いた。
「この時間で空いているのは牛丼屋か蕎麦屋くらいだけど、どっちがいい?」
何事もなかったように談笑している二人を、彼女はぼうっと眺めていた。
遥かに人間や動物を越えた怪物を、いとも簡単に消してしまったこの二人は何者なのか。
「あっ」と、溶雪が彼女の方を見た。ポケットに手を入れたまま近づいてくる。
「えっと、あの」
「あー、喋らなくていいから」
溶雪は地べたに座っている彼女の目元に手を当てた。骨ばった手が優しく目元を包み込む。そして、そのまま彼女は意識を失った。
紫苑は白んでいく空をぼんやりと眺めながら、煙を吐き出した。ガードレールの冷たさが尻を通して身体の芯へと伝わる。左手に持った缶コーヒーはとっくに冷たくなっていた。
早朝の門前仲町は人がまばらで、しんと静まり返っていた。しばらくすると、サラリーマンや学生でにぎわい始め、昼前には定食屋や甘味処といった飲食店が軒並み暖簾をかけ始めるだろう。陽が落ちれば、飲み屋やキャバクラの艶めかしい彩が街を飾る。総じて活気がある下町、それが門前仲町だ。
けれども紫苑はこの時間が好きであった。空が橙色から青味がかっていき、街がゆっくりと起きるような、ある者には一日の始まりを告げ、またある者には一日の終わりを知らせる、この空が気に入っていた。
「紫苑」
自分の名前を呼ばれ、振り返る。溶雪が右手をひらひらと振っている。
「あの人、大丈夫だったのかよ」
牛鬼に追われ、紫苑と溶雪が助けた女性。眠るように意識を失った女性を運んだ先は『久戸医院』と呼ばれる、小さな病院だった。
「それがねぇ、トラブル発生だ」
溶雪の声はどこか弾んでおり、とても焦っているようには見えなかった。ガードレールに立て掛けてあった刀袋を手に取り、溶雪の背中を追った。
ベージュ色の天井に木製のフローリング。天井からぶら下がっている白熱電球が薄暗い室内を薄っすらと照らしている。今時では珍しいほど古めかしい診察室には四人の男女が顔を見合わせていた。
「貘は仕事をしたぞ」
そう言うのは当院の医院長である源六である。
「それだってのに、どういう訳か患者の記憶が消えておらん」
源六は椅子に深く座り込んで天井を見上げた。それにつられて紫苑と溶雪も天を仰ぐ。
「源六さんの腕のよさは疑っていないさ。だからこそ、記憶が残っているのが不可解なんだよね」
「なぁ、そもそも貘って夢を食うんじゃなかったのか?」
貘。獏とも書く。鼻は象、目はサイ、身体は熊に似ており、悪夢を食べるという幻獣、または妖である。仏教伝来とともに中国から日本に伝わり、鉄や銅を好んで食べるとも言われている。
「あぁ、紫苑はまだ知らなかったね」
溶雪は源六の机に置かれていた琥珀色の石を手に取ると、ぐっと力を込めて握った。そしてゆっくりと手を開いていく。ふわふわとした煙が昇り、次第に形を得て、小さな象のような貘が宙に浮いた。
「源六さんの貘は少し特殊でね。人の悪夢以外にも記憶だったり、感情さえも食べてしまうんだ」
「そんなのありかよ……」
「人に使うことは滅多にないけどね。けど、今回のように妖の存在を知ってしまった人に対してのみ、貘の力を借りる。妖の存在を公表しない、っていう意図もあるけど、誰だって恐怖で満ちた記憶はないほうがいいだろう?」
「……捨てられなかったんですかね、私は」
口を開いたのは紫苑たちが助けた女性。名前は原島葵という。
診察室内のベッドから身を起こし、シーツを強く握りしめている。
溶雪は葵と同じ目線になるように屈むと、サングラスを少しだけ降ろした。綺麗な二重瞼と長いまつ毛が露になり、まるでモデルのような顔つきである。
「こんなことは滅多にあることじゃない。何か心当たりはあるかい?」と、穏やかな声色で話しかけた。それに安心してか、葵の表情が少しだけ和らぐ。
「あ、もしかしたら……。いや、でも」
「心当たりがあるのかい?」
溶雪が葵の顔を覗き込んだ。
「えぇ、でも確証が——」
顔を上げた葵はびくりと肩を震わせ、失礼ならない程度に仰け反った。少しだけ耳が赤く染まっており、目がとろんと溶けている。
「ん? 僕の顔に何かついてた?」
「いえ! ごめんなさい!」
パタパタと火照った顔を手で仰ぐと、自信なさげに話し始めた。
「私の会社は輸入食品を扱う商社なのですが、一週間くらい前に海外出張から帰ってきた社長が、『お土産だ』と言って、置物を持ってきたんです。木彫りで、その土地の神様が彫られている縁起の良いものらしいんですけど、なんだか気持ち悪くて。でも、社長が気に入ってる物のようで、オフィスに置くことになりまして」
「置物、ねぇ」
溶雪の目が細くなった。
「それから体調を崩す社員が多くなったんです。なんだか社内の雰囲気も重くて、欠勤する人も出てきました。でも、ただの気味の悪い置物だし、関係ないですよね」
葵はそう言って、気まずそうに笑った。
「紫苑、どう思う?」
「まぁ、勘だけどよ。十中八九その置物で間違いないだろうな」
「そうだよね。それにしても君、〝十中八九〟だなんて、よくそんな難しい言葉知ってるね」
「バカにすんなよ⁉」
なぁ、と黙って話を聞いていた源六が口を開いた。
「そろそろ診察の時間なんだがね。出て行ってくれないか」
東西線の改札前で紫苑が「あっ!」と声を上げた。
「どうしたんですか?」
「悪い、金貸してくれねえか? 昨日パチ屋ですっちまってさ」
葵は口に手を当てて、信じられないものを見るかのような視線を向けた。
「僕は貸さないからね。むしろ今まで貸したのを返してほしいくらいだ」
ピッ、と軽快な電子音が鳴り、我先にと改札を通った。
「絶対に返すから! なんなら二倍、いや三倍にして!」
両手を合わせながら頭を下げる紫苑を、葵は蔑んだ目で千円札を手渡した。
出勤時間をズレたからか、電車の人はまばらで、すんなりと椅子に座れた。ほのかに温かい座席と揺れるリズムのせいで、目を瞑れば意識が飛んでしまいそうだ。本来ならばとっくに眠っている時間である。紫苑自身、この時間まで起きていることが奇跡に近いと感じているほどだ。
次第に、瞼が落ちていく。
暗い部屋。
すぐ隣には弁当の残骸や、とっくに炭酸が抜けたコーラの缶。閉められたカーテンから差し込む一筋の線が優しく頬を焼いていく。
肋骨が浮き出た腹に触れる。腹の虫が鳴りやんで久しい。その代わりに身体を動かす力もなくなった。
ガチャリ、と玄関のドアが開き、あいつが入ってくる。身体をきゅっと縮こませて、来る衝撃に備える。
早く、終わってしまえばいいと思った。なにもかも、全部。
「——苑、紫苑!」
左右に揺さぶられ、目を開くと、既に飯田橋のホームへと電車が着いていた。アナウンスと共にドアが開いていく。
「いつまで寝てるのさ。ほら、起きて」
「んぁ?」
重い瞼をどうにかこじ開けて、ホームへと降り立った。
長い地下の通路を抜けて、階段を上がると、陽の光が目に飛び込んできた。思わず手で太陽を隱す。
葵の会社は歩いて十五分ほどの場所にあるらしい。車の通りは多く、人通りも多い。そんな飯田橋の街を葵はするすると闊歩していく。
「あの、聞いてもいいですか?」
「ん? どうぞ」
溶雪と葵が前を歩いて、紫苑はその後ろを着いていく。先ほどから葵の視線は溶雪に釘付けとなっており、こちらを一度たりとも見ようとしない。
「溶雪さんは私を襲った怪物を、その、殺したのですか……?」
溶雪はふっと笑うと、
「殺してはいないよ。捕まえただけさ。けどまぁ、誰かさんが殺すほどの勢いで斬りかかったから、危ないところだったけどねぇ」と振り返って、いたずらっ子のように口角を上げた。
「捕まえてどうするんですか?」
葵の目は依然として隣の色男だけを見つめ続けている。
「売るのさ」
「う、売る⁉」
「あの怪物は所謂〝妖怪〟ってやつでね、僕らは妖(あやかし)と呼んでいる。裏の世界じゃ大層な人気があって、コレクションや傭兵代わりに高値で買ってくれる顧客が多いんだ。何体の妖を持っているかで、お互いを牽制し続けるヤクザがいるくらいだ」
「そんな世界が広がっているんですね……」
「見えない影にも世界は広がっているからねぇ。あ、でも今、僕が話したことは他言無用だよ。わかった?」と、溶雪は唇に人差し指をあてた
葵は「はい!」と返事をすると、同じように唇に人差し指をあてた。
溶雪はちらりと紫苑を振り返った。口角は上がっていなかった。
「ここです」
五階建ての雑居ビル。一階にはガレージがあるのかシャッターが閉まっており、ビルの入口には小さな扉が一つ。特段、古くも新しくもない、よくある普通のビルだ。
「今更だけど、俺らが入ってもいいものなのか?」
こういうビルは関係者しか入れないのではなかったか。会社員の見てくれなら通るかもしれないが、全身黒づくめ+刀袋男と、如何にも詐欺師っぽい長髪サングラス男。どう考えても怪しまれる理由しか思い浮かばなかった。
「大丈夫ですよ。社員には骨董品の鑑定士だって言ってありますから。例の置物の価値を調べに来た体でいてください」
自動ドアをくぐり、エレベーターに乗り込む。葵は慣れた手つきで5階のボタンを押した。電子掲示板に示される数字が一つずつ大きくなっていく。
『五階です』
自動ドアが開き、葵はすぐ左手にある扉を開いた。
タイピング音が至る所で鳴っており、みな一様にパソコンの画面を凝視している。
紫苑は会社勤めをしたことがないから、これが普通のオフィスかどうかはわからない。けれども部屋の奥中央に座する置物だけが、この空間から浮いていた。
「紫苑、どう?」
「違和感はある。けど、それだけだな」
置物は木一本から執念を感じるほどの細やかさと丁寧さで、座っている人の形が彫られている。
ただ、不可解なのは顔である。通常の人間の比率よりも遥かに顔だけが大きい。それでいて目がくっきりと丸く彫られている。あんな置物と少なくない時間を共に過ごしていたら、気分が悪くなるのも頷ける。
「ってことは、ただの気持ち悪い置物ってことになるね」
「なんだか釈然としねえ結末だな」
眠気と疲労がピークに到達したのか、紫苑は大きな欠伸をした。
「ねむい……」
「夜中から働き詰めだからね。今日はもう引き上げようか」
溶雪が「葵さん」と呼びかけた。
「今日はこちらで失礼します。現状ですと、あの置物が原因かどうかはわかりません。なので、また日を改めて、より詳しい者と伺ってもよろしいですか?」
「はい、もちろんです。むしろ会社まで来てくださり、ありがとうございました。もしよければ、コーヒーでも飲んでいってください」
そう言って葵は窓際にあるソファへと勧めた。既にマグカップが二つ置かれている。
「いえ気持ちはありがたいのですが、この後も用事が詰まっておりまして……」
「いえいえ、ぜひ休んでいってくださいな」
「そうですよ。さあさあ」
「美味しいコーヒーですよ?」
「ほらほら座った座った」
気づけば二人の後ろに社員が数人、入口にも他フロアの社員だろうか、当初の人数の二倍は優に超える人が室内にいる。そしてその全員が、紫苑と溶雪を見ていた。
「こりゃ一体、なんーー」
後頭部に鈍い衝撃。転倒しないように足に力を入れるが、背中から迫る複数人の重さによって床へと打ち付けられる。
「てめぇ、ら……」
視界が閉じていく。溶雪が何かを叫んでいるのが見えたが、声は聞こえなかった。
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