第6話


 この時期、外が寒いのは当たり前だが、職場も肌寒い。

 暖房は入っているのだが、エアコンの設定温度が二〇度に設定されているため、思ったほどフロア内が暖かくならない。

 環境省は夏季を二八度、冬季を二〇度に設定することを推奨しているのはエコのためであり、消費電力量を抑止するのが目的である。ここで勘違いしている人が多いのだが、環境省はエアコンの設定温度ではなく室温に対して言及している。

 フロアに温度計が設置されていないので、いま何度かわからないが、二〇度を下回っているのかもしれない。仮に、室温が二〇度だとしても、従業員の数が多いと温度の感じ方も様々だ。

 以前、あまりに寒い日があって、多くの社員が寒さを訴えていた。エアコンは各部署に付いているが、個別空調ではなく全体空調である。設定温度は専用のコントロール室でしか変更できない。

 そのため、定時を過ぎるとエアコンが切られる。土日に休日出勤してもエアコンは付いていない。すべてはエコのためだ。大企業だから世間様に恥ずかしくない振る舞いをしなければならない。

 どうしても変えたい場合は総務部に依頼をする必要がある。その日は正社員の誰かが依頼をしたところ、すぐに総務部の人間が職場までやってきた。

「寒い、寒いって何事だ! そんなに寒いなら着込めばいいだろ!」

 突然、キレたおっさんがやってきて、あのときは面食らったことを健吾は思い出した。確かに、寒いなら上着を増やせばいいだけの話なので正論ではある。キレていた人も正社員らしいが、板挟み状態でダブルバインドになっていて、メンタルがやられてしまっているのだろう。

 大きな企業で正社員になれれば、お給料も高くて、生活も安定するというのは間違いではないと思うが、なにかを犠牲にしなければならないのかもしれない。

 健吾は午後からの業務を始めるため、モニタの電源をオンにする。

 OSがスリープモードになっているため、モニタの画面は墨汁を塗りたくったような色をしている。目を凝らすと、モニタのあちこちが白っぽくなっている。無数の埃だ。埃がつくのは静電気によるものなので、仕方がない。まめに掃除していれば埃も付きにくくなるそうだが、毎日忙しすぎるので清掃することをいつも忘れる。それにパソコンは会社の設備であり私物ではないから、キレイにしようと愛着も湧かない。

 埃が白く見えるのは、太陽の光が埃にあたるとすべての波長の光があちこちに散らばる。このことをミー散乱と呼ぶが、ようするに虹の七色がすべて混じって白色になるということだ。雲が白く見えるのも同じ原理である。空が青く見えるのはレイリー散乱による効果である。

 七つの色は波長の長い順に赤色・橙色・黄色・緑色・青色・藍色・紫色である。学生時代に受験勉強で『せき・とう・おう・りょく・せい・らん・し』という語呂合わせは、いまでも覚えている。

 モニタの埃も気にはなるが、あいにく今は清掃用具を持っていない。

 埃を取るのにアルコールを使うのは厳禁である。モニタが痛むのでシミが残る。コロナ禍のときに感染症対策でアルコール消毒が流行ったが、誤ってモニタを拭いた人が多数いたらしい。乾いたティッシュペーパーで拭くのもダメだ。ティッシュは繊維が硬いため、モニタの表面を傷つけるからだ。

 IT業界の人間でも知らない人は知らない。そもそも、コンピュータ関係の仕事に就いているからといって、なんでもかんでも知っているわけではない。「パソコンの調子が悪いからみてくれる?」と言われても、困る。OSを再起動するか、OSを初期化するぐらいのアドバイスはできるが、それで直る保証はない。ハード故障だったらどうしようもない。

 ところが、推測でものを言っているだけでもIT業界の人間が言うと信頼感があると聞いた。だからといって対価なしで頼られても困るが。お金を要求すると嫌な顔をされても困るのだが。

 それにしても、モニタが真っ暗なままでWindowsのロック画面がでてこない。

 キーボードのEnterキーを右手の人差し指と中指で連打する。何も反応しない。マウスを右手で掴み、上下左右にぐるぐると動かす。モニタをみると、宇宙に塵が積もったままだった。

 OSをスリープモードに移行すると、そのまま戻ってこないことが実はよくある。

 スリープへの対応が甘いデバイスが、OSの復帰処理を邪魔することがある。出どころの怪しい周辺機器をつないでいる場合、そのデバイスを取り外すと問題回避ができる場合がある。

 周辺機器のデバイスドライバの不具合が原因となる場合もある。スリープモードから復帰するとき、OSはデバイスドライバのレジュームハンドラを呼び出すが、内部のデータ構造を正しく再初期化できていないバグがあると復帰に失敗する。

「あーこれはダメだ」

 健吾がそう呟くと、背中から声がかかった。

「何がダメなの?」

 振り返ると、コーヒーを片手に持った黒尾が立っていた。

「いえ、パソコンがスリープから復帰しなくて」

「なるほど。よくある話ね。わたしのパソコンも先日、似たような現象が起きた」

 黒尾は「ちょっとここに置かせてもらうわね」と言って、コーヒーを健吾の机の端に置いた。

「もう電源ケーブル抜くしかないかなと思って」

「電源ボタンの短押しはやってみた?」

 黒尾がパソコンの電源ボタンを指さした。

「長押しじゃなくて、ですか」

 パソコンの電源設定がどうなっていただろうか。自分で変えた覚えもなく、設定内容を見た記憶もないので、パッと答えられない。

「短押しがうまく効いたら、OSのシャットダウン処理が走るからディスクデータが壊れることはないと思うわ。アプリを起動したままでデータを保存していない場合は、そのデータは諦めないといけないけどね」

 Gracefull shutdownのことか。そうだ、そういえばそんなのがあったなと健吾は思い出した。

 うんともすんとも言わないパソコンに対して、おもむろに電源ボタンを一回だけ押してみた。モニタのLEDがアンバー色からグリーン色に変わった。画面の中央に「シャットダウンしています……」と表示された。

「あっ、うまく行きそうです。どうもありがとうございます」

 健吾の言葉を受けて、黒尾は微笑んでコーヒーを持って自席へ戻っていった。

 パソコンの電源が完全に落ちて、ふたたびモニタのLEDがアンバー色になる。もう一度、電源ボタンを押す。すぐにBIOSのロゴがでてきて、OSの起動アニメーションが始まった。よかった、パソコンは壊れなかった。上司の助言に感謝する。

 本音を言うと、パソコンをスリープモードにしたくはないのだが、会社からの指示なので逆らえない。電子パーツ屋でマウスをずっと動かしているフリをするUSBデバイスが売っていたから、あれを買おうかとも思ったくらいだ。

 だが、会社が許可していないUSBデバイスを挿すと、緊急通報があがるようになっているので、うかつなことはできない。昨今は企業も情報漏洩に敏感なので、年々セキュリティを強化している。

 会社のパソコンに私物のUSBメモリを挿すという理由としては、職場に恨みがあって悪意をもって情報漏洩させたいわけではない。

 作業量が多すぎる上に、残業規制が厳しいので、自宅に持ち帰って仕事をしなければならないという強迫観念に囚われるからだ。

 従業員に過度なプレッシャーを与えると『少しくらいの悪さをしてでも納期に遅れるわけにはいかない』という思考に走る。案外、管理職や経営陣はこのことに気づいていない。

 かつて北陸にあった製薬会社の睡眠導入剤混入事件は、製造工程にミスがあり、本来あるべき手順を踏んでいなかった。元々は従業員も悪気があったわけではないが、短納期での作業を強制したことで『不正をしてでも納期を守る』という考えに至ったのだ。結果として、その会社は廃業となり、世の中から消えた。

 不正と認識しつつも業務にあたっていた従業員にも罪はあるが、生活がかかっているために給料がもらえないと困る。会社からの指示だから己は悪くない、と思考停止する。なんとなく企業への忠誠心が強い人ほど、そうなってしまうような気がする。

 大手自動車メーカーの子会社である軽自動車を専門に作る企業では、工業認証試験不正があった。短納期でテストが完了できないので、テスト手順でズルをして正しく試験したことにしていた。虚偽の報告をしていたので、外部の人間からはその報告を信じるしかない。子会社の内部告発で発覚したので、やはりひとりの従業員が暴走したわけではなく、組織ぐるみの悪事だったと言える。

 日本では内部告発をすると、もう所属組織にはいられなくなる。和を以て貴しと為す。告発者は正義感をもって世間に対して良いことをしたはずなのに、会社の人たちからは『余計なことをしてくれた』と陰口を叩かれる。会社の経営陣もいい顔をしない。会社に喧嘩を売るには、それ相応の覚悟が必要なのだ。目立つことを極端に嫌がる日本人には、内部告発なんて向いていない仕事だ。

 多くの社員は給料が出なくなることを極端に恐れている。だから不正をしても構わないというのは極論であるが、存外こころの中ではそう思っている人も多いのかもしれない。

 

 健吾は午前中の作業の続きを始めた。

 プログラミングの途中だったはずだが、一瞬どこまで終わったか思い出せなかった。年寄りの物忘れではないと思うのだが、ときどきパッと思い出せないことが増えた。作業量が多いのでキャパオーバーなのだと自己分析している。実際、仕事が多すぎる。

 一週間前に元請けから依頼された機能追加について、見積もりを行っている。

 日頃の生活の中ではいたるところで『お見積もり』に出くわす。

 たとえば、引っ越しをするとき、引っ越し業者から送られてくる見積書に記載されている金額に驚愕する。業者も人手不足だから、賃金も上げている。低賃金にすると人材が集まらないからだ。

 引越し業者は体力を使う仕事なので若い男性が好まれるが、カスハラが酷くてすぐに辞めてしまうという問題もある。引っ越し作業中に新居に汗を床に垂らしたり、段ボール箱が汗で染みたりすると、キレる客が多いらしい。『お客様は神様である』をまさに地で行っている。日本人の中には安い神様が一定数いる。たいしてお金を払っているわけでもないのに、どうしてそんなに相手に強く出られるのか、その心中をむしろ知りたい。

 プログラマであるソフトウェア開発者が行う見積もりというのは、ひとつの作業に対してどのくらいの時間がかかるかを算出することを指す。この時間のことを工数と呼び、単位は人日や人月で表現する。

 工数の単位については、健吾が新人の頃に先輩からはじめて教えてもらった。学校では習わなかったし、普段の生活でも使うこともない。

 業界用語については、当時の先輩から『そんなことも知らないの!』と揶揄されることもなく、丁寧に時間を割いて教えてくれた。感謝の念に堪えない。

 その先輩が、いまの上司である黒尾沙貴なのであるが。

 世の中には、承認欲求を満たすために他人を小馬鹿にする人間が一定数いる。日本人特有のジメジメした文化だと思っていたが、グローバルな文化らしい。こうした人間の醜さは、性格が悪いとか、育ちがよくないとかいった単純な話ではない。人間の防衛本能と社会的序列意識が組み合わさって起こる、人類の構造問題である。

 学生時代は成績ですべてが決まる。ひたすら試験の点数を上げることを強要される。同じクラスの生徒同士で上下関係が決まり、学年全体でも上下で評価される。学校でトップの成績である生徒は、今度は全国で比較される。中学や高校の子どもは繊細で多感な時期だから、いじめが起こるのも自然現象であるから、いじめを未然防止することは不可能だ。流動性の少ないコミュニティでは嫌がらせが起こりやすい。

 社会にでて会社に就職すると、今度は組織内での上下関係があり、社員の中で優劣が決まる。それにより給料や賞与の額面が変動するので、みな必死だ。大手の企業ではエリートの割合が多いが、他人の足を引っ張る人間もいる。

 競争社会なのは資本主義だから当たり前なのだが、何事も成功したら個人の努力として認められる。失敗したら自己責任とみなされる。周りは助けてはくれない。

 自分の周りにいる人間は建前としては仲間だが、敵とみなす人も多い。

 常に上を向いて突き進む人が、生き残れる世界なのだと思う。

 算出する見積もり工数は、元請けに提示する値でもあるから精度が高くなければならない。感覚でざっくりした値を出すことはやめたほうがいい。下請け側から提示した値でスケジュールが確定する。作業が始まり、あとになって実は全然工数が足りませんでしたとなっても、後の祭りとなる。数字が独り歩きするので、一度提示した工数をあとで取り消すのも事実上不可能だ。

 見積もり工数として大きめの値を提示しておけばいいかというと、これがそうでもない。開発する側としてはある程度余裕をもったスケジュールにしておかないと、事前予測不可能な突発的なトラブルが起きると、即座に計画が破綻する。こうした余裕のことをバッファと言うが、元請けによってはバッファが認められないこともある。

 工数というのは結局お金なので、元請け側の予算内に収まる必要があるし、心情的に少ない工数でやりきってほしいという思いがある。どちらかというと『おたくには繰り返し発注をしてきたわけだから、短納期で高品質な作業をしてくれないと困る』というのが元請けの本音なのだ。なんだかんだ言って、お金を払う側のほうがパワーは強い。

 今回依頼のあった機能追加は、既存のソースコードに対してどのあたりに手を入れればいいかは、なんとなくイメージはあるが、自信がない。母体となるソースコードの規模がでかすぎるので、自分が見落としているところ、知らないところがあるような気がする。だいたい、こういうときの直感は正しくて、的を外していない。

 そこで、実際にソースコードを改修してみて動きを調べていく。手間と時間がかかるが、こうした実現性検討で手抜きをすると、あとで痛い目に遭うのは自分たちなのだ。

 一週間かけて、ようやく全体の動きがみえてきた。

 今日の朝からお試しでプログラムの改修を行うべく、プログラミングを行っている。見積もり工数については、元請けへの提示が明後日なので、なんとか今日中に全体の動きを把握して、明日には上司の承認を得ておきたい。

 工数の見積もりは気が重たい仕事ではあるが、誰もが通る道。健吾にとってみれば、開発工程の中で一番楽しいフェーズかもしれない。

 

 さくさくとプログラミングをしてビルドをかける。

 思ったよりもプログラミングの進みがよい。今日は調子のいい日のようだ。頭の回転もいつもより高速な気がする。

 フルビルドを行うと長時間かかるので差分ビルドで行う。それでも一五分は待たされるだろうか。

 いずれのビルドにおいても、CPUの全コアを使って並列実行するので、パソコンがとてつもなく重くなる。ビルド中にワードでドキュメントを編集していたら、ワードがクラッシュして.docxファイルが壊れたことがあった。それ以来、ビルド中は余計なことはしないようになった。人間は失敗から学ぶ生き物なのである。

 ぼんやり待っていても時間がもったいないので、ネットで調べ物をする。

 こういったスキマ時間を活用して学びを得る。

 技術の進化は速いので、常に勉強しなければならない。

 『じゃあ、いつ勉強するの?』という疑問はしばしば話題のネタとしてあがる。業務時間中に勉強するのがよい。足りない分はプライベートな時間を使ってやるしかない。ただ、いまの時代はコンプライアンスがうるさいので、部下に対して『家に帰って自腹で教材買って勉強してね』と言うとパワハラに抵触する。昔と違って、うかつなことは言えない時代になった。

 健吾はFirefoxを起動した。

 AIについて調べたいことがあったので記事を検索する。すぐに探していたサイトは見つかった。情報は海外のほうが速い。情報収集では英語のサイトを読むのがセオリーである。

 ブラウザなんて好きなものを使えばいい。どれもタダで使えるのだから。

 スマホではFirefox Focusを愛用しているが、プライバシー保護に特化したブラウザでシンプルなところも好きだ。

 Firefoxは検索エンジンの切り替えが容易なので愛用している。URL欄の左にあるGというプルダウンメニューから選ぶだけだ。

 時々、検索エンジンをGoogleからDuckDuckGoに変えたいときがある。GoogleはWebサイトの閲覧制限をかけているため、制限なしで検索したいときに困る。DuckDuckGoはダークウェブのアクセスに必要なTorブラウザで採用されていることで有名だ。アングラなイメージがあるが、検索エンジンを使うだけなら何の問題もない。

 デフォルトがGoogleになっているのはMozillaの忖度で、Googleから毎年多額の資金提供を受けているからである。二〇二三年度だと約四億九〇〇万ドル、日本円に換算すると七〇〇億円以上にもなる。額面が巨額すぎるので、庶民である自分にはピンと来ない。

 Googleが大金を支払っているのは、建前として競合ブラウザが消えると独禁法に抵触するからという政治的な理由である。実態はFirefoxのシェアは一〇%未満で利用者が非常に少ない。実質的にはGoogle傘下の企業という解釈もできる。

 懸念があるのは、米司法省がGoogleに対してChromeの売却を要求していること。もし、Googleのブラウザがどこの馬の骨かもわからない企業に売却されたら、Mozillaへの資金提供も打ち切られてしまうのではないだろうか。

 近年、飛ぶ鳥を落とす勢いで人気がでてきたRustというプログラミング言語は、Mozillaが開発した言語である。FirefoxのエンジンはRustで実装されている。

 Mozillaは経営の危うい状態が続いており、二〇二〇年の大規模リストラでRustの開発者も首を切った。BigTechの資金援助により、二〇二一年初頭にRust Foundationという非営利団体が設立されたことで、独立企業が開発を継続している。OSS開発を継続するにはお金がないとダメということがよくわかる事例だと思う。

 ここ最近変わってきたと感じるのは、ブラウザの検索を使う機会が減ったこと。

 いつ頃からか記憶は定かではないが、ネットで検索をしても似たような記事ばかりがヒットするようになり、なかなか欲しい情報に辿りつかなくなった。自分の探し方が悪いと言うのもあるかもしれないが、検索に時間をかけている暇はない。なんでもかんでも無料で情報が得られるわけでもないので、ネットに期待しすぎてもしょうがない。

 最近ではもっぱらAIを検索代わりにすることが増えた。

 知りたいことを質問すると、即座に応答が返ってくる。もちろん、『AIは嘘をつく』ので鵜呑みにはできないが、言うほど外してはいない。ネットにある膨大な情報を学習しているし、日々学習の精度が上がっていっている。

 AIを活用するようになって、明らかに技術者としてのスキルが向上したという実感がある。AIは検索するだけが仕事ではなく、できることが幅広い。

 とにかく、AIはすごい、と断言できる。

 これが無料で利用できるなんて、すごい時代になったものだ。

 そうこうしている間にビルドが完了していた。

 プログラムのビルド確認と動作確認が終わった。

「よし、これであらかた修正箇所の目処がついた。あとはもう少し深く実装を追っていきたいが、そのあたりはバッファに含めることにして、いったん工数を確定するかな」

 健吾はパソコンの画面に向かって独り言をつぶやいた。声が大きかったのか、近くに座っていた人が怪訝な顔で健吾をチラ見した。

 まずい。変な人と思われたかなと思い、健吾は急用を思い出した振りをして席を立った。

 

 健吾はトイレ休憩に行ったあと、休憩スペースに寄った。

 元々は、喫煙室だったが、世の中の禁煙ブームの流れで廃止された。代わりに、リノベーションされて小綺麗な休憩室に生まれ変わった。

 以前は、喫煙をする人たちは業務時間中に喫煙仲間を誘って、喫煙所で雑談するのが一般的だった。雑談というと軽い感じがするが、喫煙所には立場が偉い人も集まってくるので上との人脈を作れたらしい。

 喫煙所では、非喫煙者には得ることのできない社内情報を知ることができるコミュニティになっていたそうだ。だから「タバコが吸えるようになると得なんだぜ」と非喫煙者に勧誘していたという噂も聞いた。いまで言うところのタバコハラスメントそのもの。これも古き良き時代なのだろうか。

 時代は変わる。

 昔は良いとされていたことが、今は悪いとみなされる。当人は良かれと思ってやって、そこに悪意はなくとも、周りの目からみてダメならダメなのだ。

 このまま次々と制限事項が増えていくと、どうなるか。

 人前では八方美人として演技をして、裏で陰口や悪口を言うようになる。人間としての感情を抑圧しているので、どこかで歪みが生じる。普通の人で良い人が、実は怖い。良い面しか見えていないため、裏面がどうなのかわからない。常日頃から喜怒哀楽を人に見せている人間のほうが安心できる。

 休憩スペースの入口に設置してある自販機でお茶を買う。コーヒーは飲み過ぎないようにしている。糖分が入っているジュースも避けている。消去法で選ぶと、残るのは水かお茶くらいしかない。

 休憩所に入ると、見知った顔があった。

 若い男性と楽しげに話をしている。業務時間中、気難しい顔や無表情で一言もしゃべらずに仕事をしていると不安になるが、一日の中で一度でも笑顔があると安心だ。

「あ、糸原センパイ。ちょっと聞きたいことがあったんです~」

 いつもより一オクターブ高い声が健吾の耳に届いた。『ウォーリーをさがせ!』でウォーリーを見つけたときのような嬉しい表情を向けている。

 相席していた若者は空気を察したのか「じゃあ、俺そろそろ行くわ」と右手を掲げて、部屋の外に出ていった。

「やあ、凪さん。さっきの彼との会話に割り込んでしまったかな。悪かった」

「い、いえ、そんなことはないですよ~」

 語尾が間延びした感じで答えるクセがあるが、喋り方については特に指導していない。まだ、客先に出ていく立場ではないから。

 健吾の眼の前にいる人物は知原凪で今年入った新人だ。イマドキの若者は大人しくて、繊細で、傷つきやすいとよく言われるが、知原凪については快活で元気いっぱいで、自分のような人間にも元気がもらえる。仕事に対する取り組みも前向きで、それこそイマドキにしては珍しいタイプとも言える。

「それで聞きたいことってなんだい?」

 知原凪は咳払いをひとつして「たぶん、わたしのオペミスだと思うのですけど」と苦笑いしながら、続けた。

「テストデータを機器に転送したいんですけど、なぜか転送が失敗するんです。おかげで午後からのテストが全然進んでいなくて……」

「なるほど。パソコンと機器はなにでつないでいるの」

「えっと、LANケーブルですかね」

「USBケーブルでもダメだった?」と健吾は聞き返したが、なにか大事なことを忘れているような気がした。

「キャビネを探したら一本あったんですけど、デバイスマネージャでビックリマークが表示されてダメっぽい感じでした。それで……」

 知原凪は一呼吸を置く。健吾は続きの言葉を待った。

「周りにいた人たちに聞いたら、どうやら断線しているらしくて」

 ここで健吾は思い出した。

「あー、そうだった。USBケーブルが足りないから発注しているんだった。黒尾さんの承認はもらったから、モノが届くまで待つだけだけど」

 知原凪は期待した目で見つめてきた。

「もう少しかかるんじゃないかな」と健吾は結論を述べた。瞬間、知原凪の目がグレーに変わる。

「そうですか……それは残念です……」

「とりあえず、どんな状態かみてみようか。自席に戻ったら声かけてもらえる?」

 知原凪の表情がパッと明るくなる。

「どうもありがとうございます!」

 素直な子だなと感心する。自分が新人の頃は斜に構えていたような気がする。まあ、若気の至りというやつだ。

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