第5話


 午後の業務は一三時ジャストから開始である。

 が、自分の作業に着手できるのは一三時〇〇分からではない。部長からの業務連絡と従業員による三分スピーチという儀式があるからだ。

 業務連絡なんて全従業員が登録されているメーリングリストにメールを一発出すか、Teamsで全員にメンションすれば済むと思うのだが、メールを読まない、通知もスルーする人が一定数いる。だから、対面で強制的に口頭にて伝えなければならない、という結論になった、と聞いた。

 日本でIT革命が誕生したのはいつだったか。一九九〇年代から二〇〇〇年ごろらしいが、健吾はまだ学童期だったので記憶に残っていない。当時、石川県出身の首相がITを『イットってなんだ?』と読み間違えたことで、ITという言葉が一気に普及したことは、あとから知った。歴史を学ぶことは大事である。

 IT企業の役割とはなにか?

 日々の弛まぬ努力で技術を進化させて、私たちの生活を豊かにし、安心・安全に発展させることにある。そのために台風が来ようが出社して、大きな地震が来ようとも出社して、風邪を引いてもあえて体温を図らずに出社して。出社することそのものがもはや仕事なのかという気もしないでもなかった。そうして休むことなく働き続けた結果、少なくとも技術は進化した。

 デジタルツールとインターネットを組み合わせることで、会社という物理的にひとつだけの建物に皆が集まらずとも、日本全国どこからでも仕事ができるようになった。そう、技術的には。しかし、シンクライアントは流行らなかった。いまどき『シンクラ』と言っても、何のことか分からない人のほうが多い。

 新型コロナウィルス感染症によるコロナ禍は、当初すぐに収束すると誰もが思っていた。仰々しい名称がつけられているが、ただの目新しい風邪。なぜなら、インフルエンザに感染した場合、せいぜい会社を休むのは一週間じゃないか。

 国民的人気のあるコメディアンがコロナで亡くなったことにより、空気が一変した。誰もが『これ、いつまで続くの』と疑問に思いながらも、コロナ禍は三年半も続いた。なんとも皮肉なことだがコロナ禍がきっかけで、在宅勤務が認められるようになった。そして、コロナ禍が終わっても在宅勤務は継続されると誰もが思っていた。あれほど恋い焦がれた在宅勤務が実現したのだから。

 気がつくと、定着したはずの在宅勤務は推奨されなくなり、多くの企業が出社スタイルに戻った。コロナ禍前へ逆戻りである。世の中の流れに逆行する形で『弊社はフルリモートを継続している』ことを謳っている企業もあるにはある。本音は大企業と比較されると給料の高さでは敵わないから、在宅勤務ができるだとか、新人研修が充実しているだとか、別の観点でアピールをするわけである。これをマーケティング用語でリポジショニングと呼ぶが、実際に競合他社と差別化が図れているのかどうかは知らない。

 出社回帰した理由はひとつしかない。

 在宅勤務だと周りの目がないことをいいことに、仕事をサボる人の割合が増えたからだ。コロナ禍のときは、平日の日中にも関わらずSNSへのポストが急増したらしい。健吾は日頃からSNSをやらないので詳しくはないのだが、大手のメディア・ニュースがそう報じていて『へぇ、そうなんだ』と思ったのを覚えている。

 仕事をしてお金を得る行為において、個人が集団で作業する場合、手抜きをする人たちが一定数いるという現象のことを社会的手抜きと呼ぶ。一九九〇年代初頭から研究が始まっており、いまに始まったことではない。

 人間は己よりも立場が上の人に睨まれることで、モチベーションが高まる。換言するとサボっていると見られて、給料や賞与が下がると嫌だから、必死こいて仕事をする。

 馬の鼻先にニンジンをぶら下げるだけではダメなのである。ムチを打たないと、馬は走らない。給料を払うだけでは、労働者の生産性は下がることはあっても上がることはない。集団が大きくなるほど、その傾向が顕著に出る。

 世界一の富豪であるイーロン・マスクのやり口をみていれば、よくわかる。

 在宅勤務だと社員はサボるから出社を強制する。

 超短納期で仕事をさせることで休む暇もなく働かせる。

 オーナーの言うことに従わなければ、すぐにクビにする。

 彼のやり方は時代錯誤であるが、前衛的とも言える。確実に生産性は上がるが、確実に品質も下がる。なにか問題があってもオーナーが責任を取るし、社員には高い報酬を支払うわけだから利害関係は一致している。だが、そこに信頼関係はないようにも思える。

 お金がすべてというところが、いかにも外資系という感じがする。

 日本の企業の場合、給料が高くはないのに、会社に束縛されているワーカホリックが多いのはなぜだろう。年齢層が上にいくほど、その傾向が強いように感じるが、それだけ組織への忠誠心が強いということなのかもしれない。

 むかしから米国人はドライで、日本人はウェットと言われてきたが、日本もだいぶアメリカ寄りになってきたなと思う。企業に忠誠を誓う時代は終わり、待遇に不満があれば転職すればいい。そんな時代だ。そうは言いつつも、日本では四〇歳以上だと転職に苦労すると聞いている。健吾はまだ若い(と思っている)ので、将来日本の雇用事情も改善されていることを祈った。

「じゃあ、そろそろ昼礼を始めます。近くに集まってください」

 部長が自席の前に立ち、職場にいる全員に聞こえるように大きな声を張り上げる。

 健吾は自席から立ち上がり、ひな壇の方を向いた。上司の黒尾はすでに立っている。

 天井灯が消えているので職場は薄暗いままだ。

 このまま開催されるのかと思っていたところ、正社員の誰かが慌てて点灯しにいった。部長からの『一三時きっかりに昼礼始まるのは分かっているんだから、その前に明かりをつけておけよ』という暗黙の圧力である。

 いちいち、言葉で指摘すると角が立つから行動で示しているのだが、そういうところが怖い。この部長は人当たりはよさそうにみえるが、目が笑っていない。怒らせてはならない人リストの一人だ。

「Web研修の締め切りが今週なので、未受講の方は早めに済ませておいてください。BPのみなさんも対象です」

 部長と目が合ったような気がして、反射的に目を逸らしてしまう。

 自分はいったい何を恐れているのだろう。以前、部長が怒鳴り散らしていた場面に遭遇したことがあったからか。PTSD……心的外傷後ストレス障害というやつなのか?

 自分には無縁だと思っていたが。

 部長が他にもいろいろ話しているようだが、ほとんどが正社員向けの話なので、正直あまり関心がない。時間がもったいない。

 そういえば、Web研修は失念していたような気もするので、あとでメールを確認しておこう。Web研修は自席のパソコンで好きな時間に受講できるので、その点は楽だ。さすが大企業ともなると社員教育が充実している。健吾が在籍している組織は小さな会社なので、教育周りは手薄になるのは、もう諦めている。

 会社は営利目的で動いている。会社が小さいと持っているお金も少ない。企業が営利活動をするには当然お金がかかる。大企業と比較しても意味がない。無い袖は振れないのだ。

 Web研修がやっかい、というかめんどくさいのが、最近テスト問題が追加されたことだ。研修の内容を一通り受講したあと、最後にテストが出題される。このテストに合格しないと受講したことと見なされない。なぜか合格ラインがシビアに設定されていて、なかなか一発で通らない。

 テストが追加された理由としては、業務が多忙な中で受講しなければならないので、研修の内容をきっちり読んで理解せずにページめくりだけする人たちが多かったからと聞いた。確かに、講義資料がパワーポイントで五〇枚ほどあり、一ページにぎっしり字が詰められているので、真面目に読解するだけで二時間はかかる。

 当然のことだが、業務時間内に受講する。業務時間外で実施するとサービス残業と誤解されては困るからだ。大きな企業ほどネームバリューの低下を酷く気にする。ちょっとしたことでもメディアで叩かれて炎上することを恐れている。実際、そうしたことで継続中の取引先との取引がなくなることもあるので、世間の目なんて気にしなくていいとは考えない。

 ということで、平日の超忙しい時間帯に研修の受講をねじ込む必要がある。今日は、というか今週もずっと忙しいが、いつやろうかとぼんやり考え始めていたところ、フロアにあることを見つけた。

 すでに昼礼という名の儀式が始まっているというのに、机に突っ伏して寝ている人がいた。首から下げているストラップが赤色だから正社員だろう。机の位置も管理職が座っているひな壇に近いので、立場的には主任クラスの人と思われる。

 昼休みに昼寝している人のほとんどは狸寝入りかだと思っていたが、ガチで爆睡している人もいるんだなと驚く。職場で寝るほど疲れているのか、夜中に中途覚醒して睡眠が足りていないのかもしれない。

 以前ナルコレプシーの人が職場にいたことを思い出す。業務時間中にしばしば居眠りをして作業が止まっていた。当然、作業は遅れるので進捗に影響が出る。その方は別会社のBPだったが、他人の遅れは誰かがカバーしなければならないので、プロジェクトとしては炎上気味だった。チームワークというと聞こえはいいが、実態は他人の尻拭いに過ぎない。会社員である以上、避けられない運命なのである。

 突然「バシン!」という乾いた音が鳴った。

 心臓が跳ね上がり、急速に心拍数があがる。何事か。

 居眠りしていた社員の頭を丸めた雑誌で、誰かが叩いていた。叩いたのは、居眠り社員の上司だろうか。いやいや、そんなこともより、頭を叩くのはパワハラに該当する……を超えて暴行罪に該当するのではなかったか。相手に怪我をさせると傷害罪に昇格して、罪として重たくなったはず。確か、一〇年か一五年以下の懲役だったと思う。

 居眠りしていた社員が右手でよだれを拭き取りながら立ち上がった。他の人たちは部長のトークに聞きっているようで、誰もこの顛末をみていない。気づいていないわけがないと思うが、己に関係ないことだから他人事として気にしていないのだ。

「業務連絡は以上で終わります」と部長は業務連絡を締めくくり、フロア全体に視線を巡らせた。

「では、今日の昼礼当番の人――」

 さきほどの居眠り社員が、部長が立っている方向に歩いていった。今日は彼がスピーチをするのか。それで叩き起こされたのかもしれない。

「ええ~、それではスピーチを始めたいと思います……」

 男性はたどたどしく話し始めた。なんとなく、人前で話すことに慣れていない感じがする。

 エンジニアと一口に言っても様々な仕事がある。SEという略称も使われるシステムエンジニアは、開発も営業も行う。客先に行ってお客様の前でプレゼンをすることもあれば、深夜までシステム障害に対応する。SEは人前でしゃべることが得意である。言い換えると、しゃべることに苦手意識がある人はSEに向いていない。

「ええ~、特にこれといった話題もないんであれですけど。家に帰っても独りで静かだから、帰宅してから就寝するまでずっとテレビをつけてまして……」

 わざわざ独身であることを強調しなくてもいいと思うが、ただの三分スピーチだから、人それぞれだ。

 それからみていたテレビの内容について、だらだらと話をしていたが、話すことがなくなったタイミングで、特にオチもなくスピーチは終了した。わかったことは、爆睡社員は人前で話すことが苦手で、笑顔を作ってはいたが話をしていても楽しそうじゃなかった。

 スピーチ終了後、誰からも拍手もない。そもそも誰も真面目に話を聞いていない。

 よくこの空気に耐えられるな、とむしろ感心した。自分には無理だ。

 聞いた話によると、こういったスピーチで背筋を伸ばしてどうどうと話せる人が出世をしやすいらしい。エンジニアでもコミュニケーションができないとは、こういうことなのだろうか。ちょっとそれも違う気がして、健吾はモヤモヤした。

 部長と当番のスピーチ担当以外、誰もしゃべらないお通夜のような昼礼がようやく終わった。

 時計の針をみると一三時一五分を過ぎていた。

 今日は急ぎの作業があるから、すぐに仕事に取りかからなければ。

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