6 間者

 ムッキムキのマリー・アントワネットのラノベはさすがに読んでいないわけだが、貴族や王侯なんてたいがい鍛えることとは無縁で、わたしの「壁立て伏せ」を見てメイドさんは血相を変えて部屋を飛び出していった。


 壁立て伏せ、というのは、壁に手をついてゆっくり腕を動かすことで腕の筋肉を養う方法だ。腕立て伏せほどハードでないしちょっと疲れたらすぐ休んでいい。それでしばらく鍛えていると、メイドさんはヒ素入りのお菓子を処分してくれた年配のメイドさん、たしかメイド長とか言うんだったか。とにかくメイド長さんを連れてきた。

 メイド長さんは開口一番、「なにをなさっておいでですか?」と穏やかかつ厳しく聞いてきた。


「腕を鍛えているのですわ。晩餐の席でナイフやフォークを持っただけでくたびれるんですもの、腕や手に力がなければ日常生活が苦しいのではありませんこと?」


「フーム。どれどれ」


 メイド長さんはわたしの横の壁に手をついて、肘の曲げ伸ばしで体を鍛え始めた。


「あら、なかなかこれは……腕にきますね!」


「そうでしょう!? こうやって腕を鍛えて、ものを長時間持てるようになれば、オルナン王子殿下に愛を込めたお手紙を差し上げることもできますわ!!」


「なるほど。健康になりたいというお気持ちはよく分かりました。しかしこの件は続けるとおおせられるなら旦那様のお耳に入れます。よろしいですか?」


「はい! 父はわたくしに健康な子供を望んでいるのですもの、わたくしがまずは健康にならなくては」


「まあ。旦那様はもうそのようなことをおおせられるのですか。ついこの間までおむつをして泣いていたデイビッド坊やが娘の政略結婚とは」


 いやわたしじゃなくて父親なんかい。というかメイド長はいったいいつからこの屋敷にいるのか。先代の当主の代からここにいるってことだよね、美魔女じゃん、リカちゃんのおばあちゃんじゃん。

 とにかくメイド長は、「くたびれる前におやめになってくださいましね」と言い残して部屋を出ていった。よっしゃ。そのあと少し鍛えたら満足したので机に向かって椅子に座って刺繍をした。ベッドでやったら針を落としたとき危ないと思ったからだ。腕がプルプルする。

 しかし膝を組みたくなるくらい脚にも筋力がない。これはいけない。つま先ぱたぱたトレーニングもメニューに加えることにした。脚を組むと体によくない。


 椅子に座って刺繍をしながらつま先をパタパタしていると、問題の父親がどどどとやってきた。きっとお小言を言うぞ。覚悟する。


「マリナ! そんなに健康になりたかったのか!」


 な、なんだなんだ。父親は鼻息荒く駆け寄ってくると、私の手をがしっと掴んだ。若干湿っている。自分の顔がゲンナリしていくのがわかるわけだが、父親ことデイビッド・ウィステリア公爵は涙ながらに語り始めた。


「お前は5歳のとき初めて王子殿下と出会って、開口一番『肥っている』と言われたのが悲しかったのだよな。それで具合を悪くするまで食べない暮らしをしていた。それがここまでポジティブな気持ちになってくれるとは……!」


 諸悪の根源はあのオルナン王子殿下だったのか。うぬぬ。

 とりあえずこれでオルナン王子殿下が結婚したらモラハラパワハラを繰り返すであろうことが察された。X、旧ツイッターで人生相談アカウントを見ていたらおすすめ欄にはモラハラ夫の話や嫁姑のいざこざ、10代の女の子への性暴力ばかり流れてくるようになったのだが、婚約者にやせることを望む男などろくなものではない。ましてやそれが未就学児の時代であれば、どれだけゴリゴリのルッキズムに染まっているか分かるというものだ。


「5歳のころのわたくしはそんなに肥っていたのですか?」


「そんなことはないと思うのだがなあ」


 フーム。

 未就学児時代からの女はガリガリであれ教の信徒か。女の子が脚の写真をXにポストすると「豚」とか「デブ」とか酷いことをリプライする連中と同じ、ということだ。


 これは問題ではないか。


「お父様、王宮では使用人を募集していたりしないのですか?」


「……間者を送り込む気か?」


「はい。果たしてオルナン王子殿下と結婚して幸せになれるものか、確かめなければ」


「……たしか臨時で庭師を募っていたな。適当に間者を送り込んで情報を集めてもらおう」


 そういうわけで、アルベルトを王宮に送り込むことになった。要するにアルベルトは「公爵令嬢のスパイ」といったところか。

 王宮に送り込む前に、アルベルトと話す機会が与えられた。調べてほしいことを手短に伝える。


「オルナン王子殿下が、いまも『女はやせていればやせているほどいい』みたいな考えをお持ちなのか、女をモノとして扱っていないか、調べてほしいのですわ」


「かしこまりました、マリナさま」


「それからもう一つ……あなた、田嶋春臣とか、藤堂和海という名前に聞き覚えはあるかしら?」


 アルベルトが顔を上げた。


「やっぱり藤堂さんだ……!」


「た、田嶋くん、なの……!?」


 なんの話をしているかわからない見張りのメイドさんをよそに、感動の再会みたいなことを始めてしまった。あまり近寄らない距離のまま、感動を分かち合う。いずれゆっくり話がしたいと思った。

 メイドさんが咳払いをして、田嶋くん改めアルベルトは下がることになった。

 そして次の日、道具を抱えて、アルベルトは王宮へと旅立っていった。(つづく)

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