第9話「食ってどう広めるか」

「法的には、この施設では食肉処理はできません」


市役所の保健所担当職員・山田は、申し訳なさそうな表情で言った。彼のデスクの上には、キョン肉の加工に関する法規制についての資料が広げられていた。


修はみのりと共に市役所を訪れていた。静江の家での「キョン料理持ち寄りパーティー」から一週間。地域での評判を受けて、みのりが「キョン肉の流通と活用」について本格的に検討し始めたのだ。修はその相談役として呼ばれていた。


「でも害獣駆除は推進しているわけですよね?」


修は少し混乱した様子で尋ねた。山田は頷いた。


「はい。キョンは特定外来生物で、積極的に駆除すべき対象です。市としても猟友会に委託して駆除を進めています」


「では、駆除したキョンはどうしているんですか?」


「現状では...埋設処分が基本です」


みのりが悲しそうな表情で付け加えた。


「年間数百頭のキョンが捕獲されているんですが、ほとんどが廃棄されているんです」


修は愕然とした。せっかくの食材が無駄になっているという事実に、やりきれない思いがした。


「でも、それはもったいないですよね。僕たちが実証したように、キョン肉は美味しく食べられるのに...」


山田は同意するように頷いた。


「おっしゃる通りです。しかし、食品として流通させるには、食品衛生法に基づく専用の食肉処理施設が必要なんです」


山田は資料を指し示しながら説明を続けた。


「施設の構造や設備、衛生管理の基準が厳格に定められていて...簡単に言えば、相当なコストがかかるんです」


みのりは資料に目を通しながら言った。


「私も調べたんですが、ジビエ処理施設の建設には数千万円かかるケースが多いようです。それに運営費も...」


「そんなに...」


修は額に手を当てた。この地域の規模では、そのような大規模投資は現実的ではない。しかし、このまま貴重な資源を無駄にしていくのも許せなかった。


「他に方法はないんですか?」


みのりが前向きに尋ねた。


「実は...」山田は声を低くした。「県内にはすでにいくつかのジビエ処理施設があります。そこと連携するという手もあるんです」


「それはいい考えですね!」修は目を輝かせた。


「ただし、課題もあります」


山田は慎重に続けた。


「まず距離の問題。捕獲してから処理施設までの輸送時間が長いと肉質が落ちます。特に夏場は数時間で劣化してしまう」


「確かに...」


修は静江から教わった「血抜きと冷却の重要性」を思い出した。


「それから量の問題。安定した供給量を確保できなければ、施設側も受け入れにくい」


「なるほど...」


みのりはメモを取りながら考え込んでいた。


「あとは捕獲後の初期処理のノウハウも必要です。現場で適切に血抜きや内臓摘出ができる人材が必要になります」


修は竹内の顔を思い浮かべた。猟友会のベテランたちにはそのスキルがあるが、高齢化が進んでいる。若い担い手の育成が不可欠だろう。


「つまり、捕獲・処理・搬送のラインがきちんと整っていないと難しいということですね」


みのりがまとめた。山田は頷いた。


「その通りです。制度上の問題だけでなく、実務的な課題が山積みなんです」


三人は一時沈黙した。しかし、修はすぐに前向きな表情を見せた。


「でも、不可能ではないですよね?」


「そうですね...不可能ではありません」


山田も少し明るい表情になった。


「実際、全国各地でジビエの活用に成功している地域があります。規模の大小はありますが、地域の特産品として定着しているケースもあります」


「そういう成功事例を参考にできませんか?」


みのりが提案した。山田はすぐに別のファイルを取り出した。


「実はそういう資料も用意していました。全国のジビエ活用事例集です」


三人は資料に目を通しながら、様々な事例について議論を始めた。


---


「いろいろ大変なことが分かったね」


市役所を出た後、修とみのりは近くのカフェでコーヒーを飲みながら話していた。


「はい...法的なハードルも高いし、実務的な課題も多い」


みのりは少し疲れた表情を見せたが、すぐに気を取り直した。


「でも、チャレンジする価値はあると思うんです」


修も同意した。


「絶対にあります。あの持ち寄りパーティーで皆が見せた笑顔を思い出してください。キョン肉は本当に可能性を秘めていると思うんです」


みのりは嬉しそうに微笑んだ。


「そうですね。修さんがいつも前向きなのは素晴らしいです」


「東京にいた頃は、こんなこと言われませんでしたよ」


修は少し照れながら笑った。


「むしろ『現実を見ろ』とか『数字で語れ』とか言われる側でした」


「都会と田舎、どっちが合ってるんですか?」


みのりが真剣な眼差しで尋ねた。修は少し考えてから答えた。


「両方かな。東京で身につけた論理的思考も必要だし、ここで学んだ自然との対話も大切。二つの視点を持てることが強みかもしれません」


二人はしばらくコーヒーを飲みながら黙っていた。そして修が口を開いた。


「小さく始めるのはどうでしょう?」


「小さく?」


「そう。いきなり大規模な流通を目指すのではなく、地域内での小さな循環から始める」


修はアイデアを説明し始めた。


「例えば、月に一度の『キョン料理の日』を設定して、地元の協力的なレストランで提供してもらう。材料は猟友会が捕獲したものを、基準に従って初期処理したものだけ」


みのりは興味深そうに聞いていた。


「最初は限定的な供給量でも、地元の人たちやキョン料理に興味のある人が集まる機会になる。そこから少しずつ規模を広げていく...」


「素晴らしいアイデアです!」


みのりは目を輝かせた。


「そうすれば初期投資も少なくて済みますし、徐々にノウハウを蓄積していけます」


「そして何より、『キョン料理』という文化を根付かせることができます」


修は熱心に続けた。


「文化として定着すれば、後から施設やシステムを整備する時にも理解を得やすいはずです」


みのりは感心した様子で頷いた。


「修さん、さすがです。都市開発の経験が活きてますね」


「いえ、単に素人の発想です」


修は謙遜したが、心の中では確かに東京での経験が役立っていることを感じていた。都市開発では、いきなり大規模プロジェクトを始めるよりも、小さな「種」から街の変化を促すアプローチも重視されていた。


「まずは協力してくれそうな飲食店を探してみましょう」


みのりは実務的な話に移った。


「市内にジビエに興味があるシェフはいますか?」


「何人か心当たりがあります。特に創作料理店や隠れ家的な個人経営のお店なら、挑戦的なメニューに興味を示すかもしれません」


「それから、猟友会との連携も必要ですね」


「竹内さんを通じて話をしてみます。彼は猟友会でも影響力がありますから」


二人は次々とアイデアを出し合った。小さく始めて徐々に広げていく計画が、少しずつ形になっていく。修は久しぶりに、企画を練る楽しさを味わっていた。


「あとは...」みのりが少し迷いながら言った。「市長への説明も必要です」


「市長ですか?」


「はい。こういう新しい取り組みには、トップの理解と後押しが重要なんです」


みのりは少し心配そうな表情を見せた。


「清水市長は保守的な方なので、新しいアイデアにどう反応するか...」


「でも、地域活性化や獣害対策という観点からアプローチすれば、理解してもらえるのでは?」


修が前向きに言うと、みのりも少し明るい表情になった。


「そうですね...実は来週、市長との定例会議があるんです。そこで簡単に説明してみようと思います」


「必要なら僕も同席しますよ」


「本当ですか?それは心強いです!」


みのりは嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見て、修も自然と笑顔になった。


---


翌日、修は竹内の家を訪ねていた。キョン肉の活用について相談するためだ。


「なるほど...興味深い計画だ」


竹内は修とみのりの提案を聞き、思慮深げに頷いた。


「猟友会としても、獲物が有効活用されるのは嬉しいことだ。特に、埋設処分は狩猟者としては本意ではない」


「協力してもらえますか?」


「ああ。ただし、課題もある」


竹内は実務的な視点から、いくつかの問題点を指摘した。


「まず、捕獲後の初期処理を適切にできる人材が限られている。現場での血抜きや内臓摘出は熟練の技術が必要だ」


修は頷いた。自分自身、静江から学んでようやく基本的な処理ができるようになったところだ。


「それから、運搬用の冷却設備も必要になる。夏場は特に重要だ」


竹内は自分の経験を基に、現実的なアドバイスを続けた。


「あと、害獣駆除で捕獲されるキョンの中には、肉質が良くないものもある。老齢の個体や、病気を抱えた個体などは食用には適さない」


「選別の基準みたいなものが必要になりますね」


「そうだ。その判断ができる目利きも必要になる」


竹内の指摘はどれも的確だった。修は改めて、ジビエの活用には多くの知識と技術が必要だと実感した。


「でも、前向きに協力してくれるんですね?」


「ああ。猟友会の会合で話してみよう。きっと賛同者は多いはずだ」


竹内は意外なことを付け加えた。


「実は、昔はもっと自然に獲物を活用していたんだ。五十年前くらいまでは、獲れたウサギやカモは当たり前のように食卓に上がっていた」


「そうだったんですか?」


「ああ。だが、高度成長期以降、スーパーで肉が簡単に買えるようになると、狩猟肉を食べる習慣が薄れていった。技術の伝承も途絶えがちになった」


竹内の話から、修は日本の食文化の変遷を垣間見た気がした。


「だから、こういう取り組みは、失われかけた食文化の復活でもあるんだな」


竹内は少し感慨深げに言った。


「若い人たちが関心を持ってくれるのは嬉しいことだ」


修は竹内の言葉に、新たな使命感のようなものを感じた。これは単なるキョン肉の活用を超えて、地域の食文化や伝統を未来につなぐ取り組みでもあるのだ。


「竹内さん、ありがとうございます。ぜひ一緒に進めていきましょう」


---


市役所への報告や猟友会との協議を経て、修とみのりの「キョン活用プロジェクト」は少しずつ形になっていった。


まず、市内のレストラン数軒に声をかけ、キョン料理の提供に興味があるか探ってみた。予想以上に反応は良く、特に地元食材にこだわる創作料理店「晴屋」のオーナーシェフ・宮川晴彦は非常に積極的だった。


「ジビエには前から興味があったんです」


宮川は修とみのりを店内に招き入れながら言った。フランス料理の経験を持つ宮川は、四十代前半の落ち着いた雰囲気の男性だ。


「東京の店をたたんで、この地に移住してきたのも、地元の食材を活かした料理を作りたかったからなんです」


宮川の店「晴屋」は、築100年の古民家を改装した小さなレストラン。ランチとディナーで営業し、地元の野菜や海産物を中心としたメニューで人気を集めていた。


「キョン肉を実際に見せていただけますか?」


宮川のリクエストに応えて、修は持参したキョン肉のサンプルを取り出した。竹内が最近捕獲したものを、適切に処理して持ってきたのだ。


宮川はプロの目で肉を観察した。


「色合い、筋の入り方...なかなか良い肉質ですね」


彼は肉の匂いを嗅ぎ、指で硬さを確かめた。


「一般的な鹿肉より繊細な印象です。小型の鹿だから当然かもしれませんが...」


宮川はキッチンに向かい、サンプルの一部を調理してみることにした。修とみのりは店内の席に座り、彼の腕前を見守った。


「宮川シェフ、東京ではどんな店をされていたんですか?」


修が尋ねると、宮川はフライパンを振りながら答えた。


「銀座で小さなビストロを経営していました。フランス料理がベースですが、日本の食材を積極的に取り入れる料理を追求していたんです」


「なぜこの地域に?」


「妻の実家が近くで...それに、子供が生まれてから、自然の中で育てたいと思って」


宮川は材料を手際よく扱いながら、自分のストーリーを語った。一流店で修行した後、独立して東京で店を持ち、評価も得ていた。しかし、生活のペースや価値観を見直したいという思いから、三年前にこの地に移住したという。


「東京では『オーガニック』『ローカル』と言っても、本当の意味では難しい。生産者の顔が見える環境で料理がしたかったんです」


修はその言葉に強く共感した。自分も似たような理由で東京を離れたのだから。


しばらくして、宮川は三皿の料理を運んできた。


「簡単ですが、三種類試作してみました」


一皿目はシンプルなロースト、二皿目はパテ風のテリーヌ、三皿目はラグーと呼ばれる煮込み料理だ。


「まずは味わってみてください」


修とみのりは恐る恐る一皿目から試した。


「うわ...」


修は思わず声を上げた。静江の料理も美味しかったが、プロの技術が加わるとさらに別次元の味わいになっていた。肉本来の風味を活かしながらも、クセを上手くコントロールしている。


「これは素晴らしいです!」


みのりも感動した様子だ。二皿目、三皿目も同様に絶品だった。


「これは確実に商品になります」


宮川は満足げに言った。


「価格帯としても、リーズナブルな特別メニューとして提供できる。うちのお客さんなら、ストーリー性のある食材として喜ぶでしょう」


修とみのりは目を見合わせて喜んだ。最初の協力者を得たことで、プロジェクトが一歩前進した感覚だ。


「では、まずは月に一度の『キョンの日』を設定して...」


具体的な計画の話し合いが始まった。


---


翌週、市長との面談の日がやってきた。みのりの計らいで、修も同席することになった。


「これが若いエネルギーというものかね」


清水市長は、修とみのりの提案を聞いた後、感心したように言った。六十代後半の清水市長は、温厚な人柄で知られる人物だ。保守的と言われるが、地域のためになる提案には柔軟に対応する姿勢も持っていた。


「とても興味深い取り組みだね。害獣対策と地域活性化を一石二鳥で進められる可能性がある」


市長は前向きな反応を示した。しかし、課題についても指摘を忘れなかった。


「ただ、食品衛生の問題は慎重に進める必要がある。市の責任も大きいからね」


「はい、その点は十分に注意します」


みのりが真剣に応えた。


「最初は小規模に始めて、しっかりとした体制が整ってから拡大していく予定です」


市長は頷いた。


「それが賢明だろう。まずは『キョンの日』から始めて、反応を見てみるといい」


市長はさらに提案した。


「観光協会や商工会にも声をかけてみるといい。地域全体で取り組めば、より大きな効果が期待できる」


修とみのりは市長の助言に感謝した。彼の支持を得たことで、プロジェクトの実現可能性が大きく上がったと感じた。


「市としても、できる範囲でサポートしよう。まずは広報誌で取り上げるのはどうかね?」


市長の提案に、みのりは喜んで同意した。


「ありがとうございます!大変心強いです」


面談を終えて廊下に出た二人は、思わず小さくハイタッチを交わした。


「うまくいきましたね!」


「ええ、市長の理解を得られて本当に良かったです」


二人は興奮冷めやらぬ様子で、次のステップについて話し始めた。


---


その晩、修は自宅で「キョンサイクル」と名付けた構想図を描いていた。キョンの捕獲から処理、流通、消費までの流れを一つの循環として捉えるアイデアだ。


電話が鳴り、みのりからだった。


「修さん、良いニュースです!観光協会の佐藤さんが興味を示してくれました。『キョンの日』を観光イベントとして宣伝してくれるそうです」


「それは素晴らしい!」


修は嬉しさを隠せなかった。


「それから猟友会の方々からも前向きな返事をいただきました。竹内さんが説得してくれたようです」


「竹内さん、さすがですね」


みのりはさらに報告を続けた。


「宮川シェフ以外にも、2軒のレストランがキョン料理の提供に興味を示してくれました。あと、静江さんが地元の婦人会で『キョン料理教室』を開催したいと言っているそうです」


次々と良いニュースが届き、修は感動を覚えた。自分が始めた小さな取り組みが、こんなにも多くの人を巻き込む動きになるとは想像していなかった。


「みのりさん...これって、本当に形になりそうですね」


「はい。最初は小さな一歩ですが、この地域にとって大きな可能性を秘めていると思います」


電話越しにみのりの嬉しそうな声が聞こえた。


「ところで修さん、明日時間ありますか?もう少し具体的な計画を立てたいんですが...」


「もちろん、いつでも」


「では、明日の午後、晴屋で宮川シェフも交えて打ち合わせしませんか?」


「了解です。楽しみにしています」


電話を切った後、修は窓の外を見た。月明かりに照らされた山々が静かに佇んでいる。そこにはキョンたちも生息しているのだろう。


「こんな形で共存するとは思わなかったよな...」


修は自分自身に語りかけるように呟いた。最初はただの「害獣」として見ていたキョンが、今では地域の新たな可能性を開く存在になっている。


「仕留める人」から「繋ぐ人」へ。修の役割も変わりつつあった。畑を守るために始まった戦いが、地域の人々を繋ぎ、新たな価値を生み出す物語へと変化していた。


修は「キョンサイクル」の図に最後の矢印を書き加えた。それは「持続可能な地域」へと向かう矢印だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る