第3話「初めてのわな猟、そして空振り」
「よし、受かった!」
修は手にした狩猟免許証を見つめ、心の中で小さくガッツポーズをした。県庁から帰る道すがら、何度も免許証を取り出しては確認している。苦労の末に手に入れた証だった。
講習会から試験まで、約一ヶ月。狩猟関連法規、鳥獣の判別、わなの種類と使用法、安全管理など、覚えることは山ほどあった。特に鳥獣保護管理法や特定外来生物法についての法規は、営業時代の契約書よりも難解に感じられた。
しかし、修の几帳面さと行動力が功を奏した。平日は畑仕事の合間に勉強し、週末は竹内に教わりながら実地訓練。時には、市役所のみのりにも質問をぶつけた。みのりは忙しい中でも、いつも丁寧に回答してくれた。
「これで、晴れて合法的にキョンと戦えるぞ」
修は免許証をポケットにしまい、軽トラを走らせた。次の目標は、特定外来生物の捕獲許可を得ること。みのりの助けもあり、すでに申請は済ませていた。
「おめでとうございます。無事に免許が取れたんですね」
ちょうどその日の午後、みのりから電話がかかってきた。
「ええ、なんとか。みのりさんの助言がなかったら合格できなかったと思います」
「それは良かった」みのりの声には温かみがあった。「特定外来生物の捕獲許可の件ですが、審査は順調に進んでいます。通常は一ヶ月ほどかかることが多いのですが、最近キョンの被害報告が増えているので、特例として急いでもらえるよう働きかけています」
「本当ですか?ありがとうございます」
「いえいえ。あと、もし実際に捕獲されたら、ぜひ市役所にも報告してくださいね。生態調査のデータにしたいんです」
みのりは公務員としての職務を超えて、地域の獣害問題に熱心に取り組んでいることが伝わってきた。
許可が下りるのを待つ間、修は竹内からわなの実践的な使い方を学ぶことにしていた。そして予想より早く、約三週間後に特別な許可が下りた。みのりの尽力があったのだろう。
---
「ワイヤーはこの太さだ。細すぎると切れるし、太すぎると作動が鈍くなる」
竹内は太い指でワイヤーの感触を修に確かめさせた。二人は竹内の作業小屋にいた。壁には様々な道具が掛けられ、一角には解体用の台も設置されている。
「これは何ですか?」
修は壁に掛けられた金属製の罠を指さした。
「くくりわなだ。足を挟んで捕らえる。今はクッション付きの獣害用が主流だが、昔はこういう単純なものだった」
竹内は一つ一つの道具について、詳しく解説してくれる。その語り口は厳しいが、妙に情熱的だった。
「わなは生き物を捕らえる道具だ。だが、それだけじゃない。仕掛ける側の心も映す」
竹内は古びた箱わなを手に取りながら言った。
「これは俺の祖父から受け継いだものだ。六十年使っている。金属は錆びたが、形と機能は当時のまま。祖父は『餌を選ぶな、場所を選べ』と言っていた。どういう意味か分かるか?」
修は少し考えて答えた。
「えっと...餌で釣るより、動物の通り道を見極めることが大事ということでしょうか」
竹内は満足そうに頷いた。
「その通りだ。獲物の習性と地形を読むことが、最大の技術なんだ」
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特定外来生物捕獲許可が下りてから一週間。いよいよわなの設置日だった。
「ここが適当だな」
竹内は修の畑の端、薮との境界付近を指差した。
「なぜここなんですか?」
「足跡を見ろ」
竹内は地面を指し示した。確かに、小さな蹄(ひづめ)の跡が集中している。修には気づかなかったが、竹内の目には明らかだったようだ。
「キョンは警戒心が強い。だが習性に従った行動をする。同じ道を通ることが多い」
竹内の指導の下、修は初めての合法的なわなを仕掛けた。箱わなを慎重に設置し、中に少量の餌を入れる。
「これでいいですか?」
「ああ。あとはわなの位置を毎日確認することだ。かかっていなくても、餌の減り具合や足跡で、キョンの活動を知ることができる」
竹内はさらに、修に記録ノートを渡した。
「これに日付、天候、わなの状態、獲物の有無などを記録しろ。それが経験になる」
修は感謝の気持ちを伝えた。
「竹内さん、本当にありがとうございます」
「礼はまだ早い。実績を上げてからだ」
竹内は照れくさそうに言うと、自分の軽トラに乗り込んだ。
---
「また何もない...」
修はため息をついた。わなを仕掛けてから一週間、毎朝早起きして確認するが、一向に成果が上がらない。餌は減っていくが、それはおそらく小動物の仕業だろう。キョンの痕跡はあるものの、わなには近づいていない様子だ。
スマホの着信音が鳴った。みのりからだった。
「修さん、わなの調子はどうですか?」
「まだ何も捕れてないんです」修は正直に答えた。
「そうですか...」みのりは少し考えるように間を置いた。「実は他の地区でも同じような報告があるんです。季節の変化でキョンの行動パターンが変わっているのかもしれません。市の生態調査でも動きに変化が見られています」
「そうなんですか?」
「はい。もし何か変化があったら教えてください。お互いに情報共有できればと思って」
みのりの気遣いに、修は少し元気づけられた。一人で闘っているわけではないのだと。
記録ノートにはこんな具合に記されていた。
```
6月5日 晴れ わな:異常なし 餌:ほぼ手つかず 足跡:少量
6月6日 曇り わな:異常なし 餌:若干減少 足跡:確認できず
6月7日 雨 わな:雨で濡れる 餌:交換 足跡:雨で判別不能
...
```
修は首を傾げながら畑に戻った。春に蒔いた野菜たちは順調に育っている。しかし、キョンの被害は継続中だ。特に白菜の新芽は格好の標的になっていた。
「何がいけないんだろう?」
修はスマホを取り出し、竹内に電話をかけた。
「もしもし、竹内さん。修です」
「ああ、どうした?」
「すみません、わなにまだ何もかかりません。何か間違ってるんでしょうか?」
電話の向こうで、竹内が小さくため息をついた。
「焦るな。初心者がすぐに結果を出せるほど、自然は甘くない」
「でも...」
「わなの場所や設置の仕方を変えてみろ。それでも駄目なら、一度見に行ってやる」
電話を切った修は、畑の周りを見回した。もう一度、キョンの痕跡を探すことにする。
---
翌日、修は別の場所にわなを移設した。前よりも藪の奥、人の気配が少ない場所だ。さらに、ネットの情報を元に、より効果的な餌も用意した。
それから三日後、再び何の成果もなく、修は苛立ちを覚えた。キョンの被害は続いているのに、どうして罠にはかからないのか。
「やっぱり竹内さんに見てもらおう」
修が電話をかけようとした矢先、佐々木からの着信があった。
「もしもし、修くん?」
「はい、佐々木さん」
「ちょっと気になることがあってね。君の畑の近くで、キョンの群れを見たんだ」
「えっ、群れですか?」
「ああ、母親と子供のようだった。この時期は子育て中なんだろう」
修は考え込んだ。子連れのキョンが近くにいるということは...。
「佐々木さん、ありがとうございます。ちょっと確認してみます」
電話を切ると、修は急いで畑へ向かった。
---
「やっぱり」
畑の端、わなを置いていない反対側に、新しい足跡を発見した。よく見ると、大きな足跡と小さな足跡が混ざっている。確かに親子のようだ。
「こっちに移動していたのか...」
修は新たな発見に興奮しながら、竹内に連絡した。竹内は夕方に様子を見に来ると約束してくれた。
午後、竹内は修の畑を丹念に調査した。地面の足跡、葉の食べられ方、茂みの通り道などを注意深く観察する。
「なるほど、わかったぞ」
竹内は満足そうに顎髭をなでた。
「何がわかったんですか?」
「お前のわなの場所が間違っている。キョンは最近、移動経路を変えた」
竹内は畑の北側を指差した。
「あそこに小さな沢があるだろう?キョンは水場の近くを通る。今は子連れの時期だから、より安全な経路を選んでいる」
修は感心した。竹内の観察眼は鋭い。
「それに」竹内は続けた。「わなの周りに人間の匂いが強すぎる。お前が毎日覗きに来るからだ」
「えっ、でも確認しないと...」
「確認は必要だが、匂いを残さない工夫が必要だ。手袋をしろ。同じ服装で近づくな。風上から近づくな」
竹内は細かい指示を出した。
「わなを移設しよう。あと、こういう状況は記録しておけ。失敗もまた学びだ」
---
その日の夕方、竹内の指導の下、修は新しい場所にわなを設置した。場所は北側の沢に近く、キョンの新しい通り道と思われる場所だ。
「これでどうだ?」
「完璧です」
「完璧なわなはない。ただ、より良いわながあるだけだ」
竹内は哲学者のように言った。修は記録ノートに新しいページを作った。
```
6月15日 晴れ
【移設】
場所:北側沢付近
理由:キョンの移動経路変化確認、子連れ個体の存在
注意点:人間の匂い最小限に
```
修は新しい発見と学びを記録することで、少し気持ちが晴れた。結果が出なくても、経験は積み重なっている。
「竹内さん、もう一つ質問していいですか?」
「なんだ?」
「もし捕まえられたら、その後どうするんですか?」
竹内は修の顔をじっと見た。
「その時になったら教える。だが覚えておけ。命を奪うなら、最大限に活かすことだ。それが猟師の道だ」
竹内の言葉は重みがあった。修は深く頷いた。
---
それから数日間、修は竹内のアドバイスを忠実に守った。わなの確認は最小限に。同じ服は着ない。手袋を使用する。
そして、記録ノートはどんどん詳しくなっていった。
```
6月16日 晴れ わな:異常なし 餌:若干減少 足跡:新しいものあり
6月17日 晴れのち雨 わな:異常なし 餌:半分減少 足跡:増加
6月18日 雨 わな:異常なし 餌:ほぼなくなる 足跡:雨で判別不能
備考:沢の水量増加、キョンの通り道変化か?
```
変化が見えてきた。キョンがわなの周囲に近づいている形跡が増えている。修は期待を抱きつつも、焦らないように自分に言い聞かせた。
「自然は急かさない...竹内さんの言う通りだ」
---
6月19日の朝、修は慎重にわなの確認に向かった。心の中には小さな期待があったが、すぐに消えた。
「また空振りか...」
わなは無事だったが、中は空っぽ。餌はほとんど食べられているのに、扉は閉まっていない。
「どうして...」
修は首を傾げながら、わなの周囲を調査した。すると、わなのすぐ脇に、何かが地面を掘った跡を発見した。
「まさか...」
修はスマホで写真を撮り、竹内に送った。すぐに電話がかかってきた。
「タヌキだな」
「タヌキですか?」
「ああ。わなの仕組みを理解しているんだ。外から餌を掘り出した。賢いやつだ」
修は思わず笑みがこぼれた。自然との知恵比べだ。相手は単なる獲物ではなく、知恵を持った生き物たち。
「どうすればいいですか?」
「わなの下に金網を埋めておくといい。あとは...」
竹内は様々なアドバイスをくれた。修は一つ一つメモを取りながら、次の作戦を練った。
---
それから一週間、修は様々な改良を重ねた。わなの下に金網。より強力な餌。設置場所の微調整。
「これでどうだ、キョン」
修は心の中で呟いた。今日も空振りだったが、記録ノートは厚みを増していた。野生動物の行動パターン、天候との関係、月齢と活動量...都会では得られない知識が積み重なっていく。
その夜、修は畑の収穫物で簡単な夕食を作りながら、思いを巡らせた。
「まだキョンは捕まらないけど...」
修はいつの間にか、この「畑の戦い」を楽しんでいることに気がついた。東京での仕事は数字との戦いだった。ノルマ、売上、利益率...すべてが冷たい数字だった。
しかし、ここでの戦いは自然との対話だ。相手は生きている。修も生きている。その生と生の駆け引きに、修は新鮮な充実感を覚えていた。
「明日も早起きだな」
修はキョンの捕獲に成功していなくても、別の大切なものを得ていた。忍耐強く自然を観察する目。失敗から学ぶ謙虚さ。そして何より、この土地との繋がり。
キョンを捕まえるという目標はまだ達成できていないが、修の「失敗ノート」は、かけがえのない経験録になっていた。
「明日こそは」
修は静かに呟きながら、ベッドに横になった。窓の外では、満月が山々を照らしていた。
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