第2話「免許と法の壁」

朝霧の立ち込める畑の中、修は慎重に足を進めた。昨日ホームセンターで購入した材料を手に、自作の罠を設置しようとしていた。


「ここが一番キョンが出入りしそうな場所だな」


白菜畑の脇、薮との境目に小さな獣道のようなものが確認できる。昨日見かけたキョンもこの辺りから現れた。修は木の枝を使って地面を掘り、ワイヤーを仕込んでいく。YouTube動画で見た通りの手順だ。


「よし、これで...」


罠の設置に集中していた修は、ふと背後に人の気配を感じた。しかし振り返る間もなく、低い声が耳元で響いた。


「おい、何やってる?」


低い、しかし威厳のある声に、修は飛び上がるように振り返った。そこには七十代と思しき男性が立っていた。緑色の作業着に長靴。腰に下げた鉈と、背負った何かの袋。明らかに山に慣れた風貌だ。


「あ、いや...その...」


修は言葉に詰まった。何も悪いことをしているわけではないと思っていたが、急に声をかけられると、どこか後ろめたさを感じてしまう。


「お前、それ違法だぞ」


男性は修の作業を一瞥して言い放った。


「え?」


「そんな罠、無許可で仕掛けたら法律違反だ」


修は驚きを隠せなかった。確かに、ネットで調べたとき「狩猟免許」という言葉は目にしていた。しかし、自分の畑を守るためだけなら大丈夫だろうと甘く考えていたのだ。


「すみません...自分の畑を守るためだと思って...」


修は言い訳がましく答えた。男性は深いため息をついた。


「名前は?」


「早乙女修です。三ヶ月前に東京から引っ越してきました」


「竹内喜八だ。地元の猟友会に所属している」


竹内を名乗った男性は、修の目をじっと見つめた。


「わな猟免許と、特定外来生物の捕獲許可。二つとも必要だ」


「特定外来生物...」


修は佐々木さんから聞いたことを思い出した。キョンは台湾原産の外来種で、日本の生態系にも農作物にも害を及ぼしていることを。


「知らなかったのか?」竹内は問いただした。


修はしゅんとした表情で頭を下げた。


「撤去します」


「そうしろ」


竹内はそれだけ言うと、背を向けようとした。しかし、修の落胆した顔を見て、再び足を止めた。


「...新入りか?」


「はい?」


「この地域に住み始めたのが最近だという意味だ」


「はい、そうです」


「なら、白菜の件は初めての被害だな」


修は頷いた。竹内は再びため息をついた。


「仕方ない。今回だけだ。免許のない者が勝手に罠を仕掛けると、子供や犬など、キョン以外のものが引っかかることもある。それに、キョンは特定外来生物だ。捕獲には許可が要る」


「すみません...」


「それに」竹内は続けた。「仮に捕まえても、処理の仕方を知らなければ無駄死にさせることになる。それは猟師として許されないことだ」


修は竹内の言葉を重く受け止めた。確かに、キョンを捕まえた後のことまでは考えていなかった。殺すのか?放すのか?食べるのか?何も計画していなかった。


「竹内さん...どうすればいいんですか?畑が荒らされるのを、ただ見ているしかないんでしょうか」


竹内は修の真摯な表情を見て、少し表情を和らげた。


「免許を取ればいい」


「え?」


「わな猟の免許だ。講習と試験があるが、真面目にやれば取れる」


修の目が輝いた。


「本当ですか?」


「ああ。次の講習会は来月だ。ただし」竹内は人差し指を立てた。「免許を取るということは、命を扱う責任を負うということだ。それを覚悟しているなら教えてやる」


---


その日の夕方、修は自宅のパソコンで狩猟免許について調べていた。


「わな猟免許...講習会...試験...」


検索結果から、日本の狩猟制度について少しずつ理解し始めた。狩猟には「網猟」「わな猟」「第一種銃猟」「第二種銃猟」の四種類の免許があること。それぞれに講習と試験があり、合格すれば免許が交付されること。免許を持っていても、狩猟期間や捕獲可能な動物には制限があること。


「なるほど...」


さらに、特定外来生物については別の法律で規制されていることも分かった。環境省のサイトによると、キョン(台湾原産のホエジカ)は特定外来生物に指定されており、無許可での飼育、運搬、放出等が禁止されている。許可を得れば捕獲できるようだが、その手続きも複雑だ。


「こんなに規制があるとは...」


修は思った以上に複雑な法律と制度の壁に、少し気力を失いかけた。そのとき、スマホが鳴った。不動産屋の佐々木さんからだ。


「もしもし、佐々木です。修くん、その後どうした?」


「あ、はい...実は、罠を仕掛けようとしたら、猟友会の竹内さんという方に止められまして...」


修は今日の出来事を説明した。佐々木からは少し笑い声が聞こえた。


「竹内のじいさんか。あの人は厳しいけど、筋の通った人だよ。言ってることは間違いない」


「はい...免許を取ろうと思っています」


「おお、そうか。それはいい心がけだ」


佐々木は少し間を置いてから、続けた。


「実はね、明日、市役所の鳥獣害対策の説明会があるんだ。興味があれば参加してみないか?行政の担当者も来るし、被害に悩む農家の声も聞けるだろう」


修は即答した。


「行きます!」


---


翌日、市の公民館で開かれた説明会。二十人ほどの参加者の中に、修も緊張した面持ちで座っていた。ほとんどが年配の農家のようだ。


壇上では、市役所の若い女性職員が資料を基に説明していた。名札には「若村みのり」とある。


「このグラフが示すように、キョンによる農作物被害は年々増加傾向にあります。昨年度は前年比20%増の被害額となりました」


スライドには千葉県南部の地図と、赤く塗られた被害地域が示されていた。修の住む地域も真っ赤に染まっている。


「市としては電気柵の設置補助や、猟友会との連携による捕獲強化を進めていますが、個体数の増加に追いついていないのが現状です」


説明が一通り終わると、質疑応答の時間になった。地元の農家からは切実な声が次々と上がる。


「電気柵の補助はあっても、高齢じゃ管理が大変だ」

「猟友会も高齢化してるし、もっと若い人に狩猟をやってもらわんと」

「捕ったキョンはどう処分すればいいんだ?」


みのりは丁寧に一つ一つ回答していく。行政の立場から見た課題や取り組みを説明し、時に困難さを認めつつも、できる限りの支援を約束していた。


修は勇気を出して手を挙げた。


「あの、質問です」


「はい、どうぞ」みのりが修に目を向けた。


「私は最近この地域に引っ越してきたのですが、わな猟の免許を取得しようと考えています。その後、特定外来生物の捕獲許可も得たいのですが、手続きについて詳しく教えていただけませんか?」


会場に小さなざわめきが広がった。年配の参加者たちが修を見て、小声で話している。「若いのに猟やるのか」「都会から来た人間が珍しい」といった声が聞こえる。


みのりは少し驚いたような表情を見せたが、すぐに真摯な顔で答えた。


「狩猟免許の取得は県の管轄になります。次回の講習会は来月15日に県の施設で開催予定です。講習を受けた後、試験に合格すれば免許が交付されます」


みのりは資料を探し、免許取得の流れが書かれたプリントを取り出した。


「特定外来生物の捕獲許可については、まず狩猟免許を取得してからになります。その後、環境省への申請が必要で、目的や計画を明確にする必要があります」


修は真剣に聞き入った。みのりは続ける。


「個人で申請するより、地元の猟友会や有害鳥獣駆除の団体に所属する方が、許可を得やすいケースが多いです。もし興味があれば、説明会後に詳しくお話しできますが...」


「はい、ぜひお願いします」


説明会が終わると、修はみのりのもとへ向かった。みのりは資料を片付けながら、修の姿を見て微笑んだ。


「先ほどは質問ありがとうございました。若い方が関心を持ってくださると助かります」


「いえ、自分の畑が荒らされたので...」


修は自己紹介し、この地に移住してきた経緯や、キョンの被害、竹内との出会いについて簡単に話した。みのりは熱心に聞いている。


「竹内さんとお知り合いなんですね。竹内さんは猟友会の重鎮で、この地域の獣害対策には欠かせない方なんです」


「そうなんですか」


「はい。竹内さんに認められれば、免許取得後の活動もスムーズになると思いますよ」


みのりは免許取得の細かい手続きや必要書類、費用などを丁寧に説明してくれた。修はメモを取りながら聞いている。


「あの...」修は少し躊躇いながら質問した。「正直、法律や手続きが思ったより複雑で、少し気が遠くなりそうです。でも、諦めたくはないんです」


みのりは理解を示すように頷いた。


「確かに日本の狩猟制度は複雑です。でも、それだけ命を扱うことを真剣に考えている証拠でもあるんです」


その言葉に、修は竹内が言った「命を扱う責任」という言葉を思い出した。


「制度は複雑ですが、目的は野生動物と人間の共存なんです。特にキョンのような特定外来生物は、日本の生態系を守るためにも管理が必要なんです」


みのりの話は、単なる行政的な説明を超えて、環境保全への情熱が感じられた。


「農業をやりながら、地域の生態系も守る。それってすごいことだと思います」


みのりはそう言って、明るく笑顔を見せた。その笑顔に、修は少し緊張が解けるのを感じた。


「頑張ります」


修の決意表明に、みのりは名刺を差し出した。


「何か分からないことがあったら、いつでも市役所に連絡してください」


---


帰り道、修はみのりから受け取った資料と名刺を大事そうに鞄にしまった。想像していたよりも複雑な道のりだが、やるべきことは明確になった。まずは狩猟免許を取ること。そして、正式な手続きを踏んで、キョンと向き合うこと。


東京での仕事も、最初は分からないことだらけだった。でも一つ一つ学んで、乗り越えてきた。この「畑の戦い」も同じだ。


修の頭の中で、計画が形になり始めていた。夜、自宅に戻った修は、早速、免許取得の勉強を始めた。狩猟に関する法律、動物の生態、罠の仕掛け方、安全管理...覚えることは山ほどある。


スマホに講習会の日程をセットしながら、修は決意を新たにした。


「よし、本気でやるぞ」

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