第8話 雲外蒼天の雷鳴


 碧は俯いて、小さな手をぎゅっと握り締めた。まだ八歳の子に、辛いことを聞いている自覚はある。ジッと、待つ。


 しばらくして、碧の手が私の肩を弱々しく握った。



「とうさまと、いたい。だから、戻って、きた。とうさまと、ここにいても、良い?」



 震える声。縋るような、私を求めてくれる、僅かな必死さが滲んでいる。碧をそっと抱き寄せる。こんなに小さくて、愛おしい。



「もちろんだよ。私は、碧が大好きだから。碧が一緒にいたいって思ってくれて、すごく嬉しいんだよ」



 碧の背中を擦ってあげると、ぎゅっとしがみついてくる。震える背中をトントンと叩いてあげていると、檜櫓の扉が開かれた。



「お主、碧を返せっ!」



 相変わらずの気迫。碧の肩がビクッと跳ねる。膝立ちのまま、久しぶりの顔を見上げる。迅。閃。碧をこの世界に産み落としてくれた二人。



「お久しぶりです」


「そんなことは良いっ! とっとと娘を返さぬかっ!」



 迅が碧の腕を掴んで強引に引き寄せようとする。



「い、痛っ」



 碧の小さな悲鳴。迅の手を掴んで握り込む。迅の顔が痛みに歪んだ瞬間、迅の肩に手が置かれてヌッと紅焔が顔を出した。



「お姉さん、子ども相手に何してるんですか?」



 いつもの明るさはどこへやら、圧の強い気迫に満ちた表情。いつもの遊んでくれるお兄ちゃんという印象が強かったのか、碧も目を見開いて、ぽかんと口を開けたまま呆然と紅焔を見つめている。



「なんだお主っ! この我に向かってっ!」


「この町の住人への暴行、先手組の本所へご同行願いましょうか?」



 紅焔は迅の高圧的な態度にも屈することなく、にっこりと笑みを深める。その表情に碧はガタガタと怯えて私にしがみついてくる。迅に掴まれていることなんて、もう忘れてしまっていそうだな。



「迅。落ち着いてください」



 閃の言葉に、迅は舌打ちをしながらも碧から手を離した。碧はすぐに私の後ろに逃げ込んで、後ろからぎゅっと抱き着いてくる。腰に回された小さな手に自分の武骨な手を重ねた。



「春燈さん、この方々とお知り合いですか?」



 紅焔が間に立って、私たちを交互に見る。



「ああ。彼らは碧の産みの親だよ。お母さんの迅さんと、お父さんの閃さん」


「それって、去年碧ちゃんを連れて行ったっていう? それで、今、どうしてこんなことに?」



 紅焔は必死に状況を整理しようとしてくれている。当事者同士で話し合っても埒が明かない。紅焔がいてくれて良かった。



「うちの娘が逃げだしたから連れて帰ろうとしているだけだ。何か問題があるか?」



 迅は紅焔に睨みを効かせる。一方の紅焔はたじろぐこともなく頷く。流石はいつも先手組の強面な先輩たちと訓練しているだけのことはある。この一年で夜盗とも対峙できるほど逞しくなった彼が頼もしい。


 紅焔は少し考えると、碧に目線を合わせてしゃがみ込んだ。



「碧ちゃん、碧ちゃんはどうして閃さんと迅さんと一緒にいたところからここまで来たのかな?」



 碧は私の背中からひょこっと顔を出して、紅焔を警戒した目で見る。厳しい顔をしている紅焔に、戸惑いが禁じ得ないようだ。



「紅焔、紅焔」


「え、あ、はい」



 顔を上げた紅焔に、頬を上げるジェスチャーをして見せる。一瞬ぽかんとした紅焔は、ハッとしていつもの笑顔に戻る。表情管理は完璧。碧も紅焔の明るい笑顔に安心したのか、私にしがみついていた手が緩んだ。


 碧の右手が紅焔の白い羽織を引っ張る。紅焔は碧に向かって笑顔で頷いた。



「あの、ね。仲間がいっぱいいるって、分かって、会いたくて、ついて行ったの。そしたら、パパとママって、言われてね? でも、たまのパパは、とうさまだけで、ママは、いなくて」



 碧は一生懸命言葉を探しながら話す。きっとあの日、好奇心旺盛な子だから、雷獣の仲間にも興味があったんだろう。



「パパと、ママ。分かったけど、たまは、とうさまといたくて、とうさまに、会いたくて。でも、でもね? おうち帰るって言ったら、怒るの。たま、とうさまに会いたくて、会いたいって、いっぱい頑張って、やっと会えたの」



 碧が何をどう頑張ったのかは分からない。けれど、碧にとっては大冒険だったことは分かる。もしかすると、あの逆走する雷雲。あれは碧の頑張りの結果だったのかもしれない。



「碧ちゃんは、春燈さんといたいんだね」



 紅焔は理解したように頷く。けれどその姿に迅が黙っているはずがない。



「我が産んだ娘だっ! そやつが嫌がろうと、我らが育てるのが当然だっ!」



 迅が吠え立てると、碧がビクッと肩を震わせる。



こう! お主は我の娘だろう!」



 光。それが迅と閃が碧に名付けた名前なんだろう。だけど碧はその名前にそっぽ向いた。



「たまは、碧だもん。とうさまの、娘だもん」



 碧はグッと涙を堪えているような声を絞り出す。その声に迅が憤慨して顔を真っ赤にする。その口が開きかけたとき、閃が迅を引き留めるように肩を掴んだ。



「感情的になってはいけませんよ」



 閃は微笑んで碧の前にしゃがみ込んだ。碧は私の着流しの裾をぎゅっと握り直す。



「光、どれだけこの人が好きでも、君はこちらの者なんです。違う世界なんですよ。本当にこの町で生きていけると思っているんですか?」



 閃は物腰柔らかな雰囲気を出しつつも、心を追い詰めるような話し方をする。碧は漠然とした不安を押し付けられて、小さく震えた。



「たまは、たまは」



 言葉に詰まって、俯いてしまった。閃は碧のだらりと垂れている方の手を握りしめる。



「不安でしょう? こちらにいれば、幸せに、不安なく、遊んで暮らせますよ」



 私の着流しを握っていた碧の手から、力が抜ける。私は咄嗟にその手を握った。



「碧。碧は本当にそれで良いの? 碧は、これまで町で暮らすために一生懸命頑張ってきたよ。これからだって、私と一緒に、頑張れる。碧が頑張れなくなっても、私が助ける。ずっと、そばにいるから」



 だから、行かないで。私のそばにいて。


 なんて、私の我儘だ。碧のことを考えているようで、私も碧を囲い込むようなことを言ってしまった。こんなに一生懸命考えて、必死にここまで来てくれたのに。碧を苦しめてしまう。


 碧の笑顔が見たい。なのに、今日はまだ、碧の笑顔を見ることができていない。



「おい、入るぞ」



 突然、檜櫓の扉が開いた。立っていたのは、聖さんだ。その手には何か巻物が持たれている。



「紅焔、状況は?」


「えっと、かくかくしかじかです」


「そうか」



 聖さんは頷くと、ちらりと碧に視線を向けた。



「碧、久しぶりだな」


「ひぃくん、たま、たまね」



 碧が泣きそうな顔で聖さんを見つめると、聖さんは小さく口角を上げた。



「この件、この町の管理をしている国司殿より代官を任された故、オレが対処する」



 いきなりそう言うと、手に持っていた巻物を広げた。



「これはこの町の住人の戸籍だ。桜井碧は桜井春燈の養女であると記載がある。この戸籍表と碧の希望を元に、碧は桜井春燈の娘として今後も暮らしていく権利がある」


「ふざけるなっ!」



 迅が憤慨して聖さんの胸倉を掴んでも、聖さんは堂々とした態度を崩さない。



「この町の住人である碧は、この町のルールに従う必要がある。そしてこの町は、子どもの気持ちを第一優先にする気風がある。碧がここにいたいと望む限り、町はその想いに応える義務がある」



 はっきりと言い切ってくれた。碧はその言葉に、また私にぎゅっとしがみついてきた。私も抱き締め返す。戸籍を作っておいて良かった。



「当然産みの親にも意見を言う権利は認められている。しかしそれは養子に出す際に事情の申告があった場合のみだ。碧は捨て子と記されているため、産みの親という存在が戸籍上存在しない。そして」



 聖さんは一度言葉を切ると閃と迅を鋭く見据えた。



「まず、二人についてだが。去年ここへ来たときに見せられた通行証が偽造だと判明した。現在指名手配中であり、本所にて事情聴取を行う」



 聖さんがそう言った瞬間、西門隊の面々が突入してきた。そしてそのまま、拘束された迅と閃が連行されて行く。



「ま、待ってっ! たま、あのね、パパと、ママ、嫌いじゃ、ない、からね」



 碧がそう言い切った直後に扉が閉まった。二人がこの言葉に何を思ったかは、分からない。


 外では雷鳴が轟く。その直後、消えてしまった迅と閃を探す西門隊の面々の焦った声や刀がガチャガチャ鳴る音だけが残った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る