中:夕暮れの恋情

先生に怒られた帰り道、ぶつぶつと文句を言いながら教室へ戻る。


「……別に。ちょっとからかってるだけじゃん。」


カバンを取ったらさっさと帰ろう。


そう思って、乱暴に机の上の荷物を掴んだ——その時だった。


「……は?」


出口に、人影が立っていた。


さっきまで誰もいなかったはずなのに。


赤く染まる教室の片隅、夕焼けに照らされたその姿は、どこか絵のように美しかった。


一瞬、息を呑んでしまう。


「佐々木くん。」


柔らかく、それでいて確かな響きを持つ声。


思わず目を向けると、彼女——黒崎真澄がじっとこちらを見つめていた。


——いつもの真澄とは違う。


いつもは、何をしても「何とも思っていない」ような顔をしていた。


からかっても、ちょっかいを出しても、何かを奪っても。


表情は薄く、どこか引き攣ったような笑みを浮かべるだけだった。


それが、なんとなく気に入らなかった。


だが、今の彼女は違う。


「……なんだよ、お前。帰らねぇの?」


そう言いながら、胸の奥がざわつくのを感じた。


たった今まで、こいつは「からかう対象」でしかなかったはずなのに。


なのに、今はやけに 「女の子」 に見えてしまう。


真澄が、一歩、近づいた。


「……ちょっといい?」


「……は?」


「大事な話があるの。」


真剣な眼差し。


真澄から話?そんな事初めてだ。


あのバカ相手とかなら「めんどくせぇ」とか笑い飛ばせるのに、今はなぜか、声が出なかった。


彼女の瞳が揺れる。静かに。


どこか、少し恥ずかしがるような表情。


でも、その奥にある感情は、まっすぐだった。


足が動かない。


「な、なんだよ……?」


戸惑いながら、無意識に後ずさる。


けれど、真澄の視線に囚われたように、その場から逃げることはできなかった。


これは——今までの真澄じゃない。


光を受けた横顔。


瞳に映る、沈みゆく赤い空。


揺れる感情と、確信のような何か。


ゆっくりと、確実に、距離が縮まる。


そして——抱きしめられた。


「っ——!」


小さな温もりが、胸元に触れる。


夕焼けに溶けるような香り。柔らかで、少し冷たいような。


何が起こっているのか分からない。


——俺に抱きついて……!?なんで……!?


けれど、それ以上に脳を焼き付かせたのは——。


「好き。」


たった一言。


囁かれるように届いたその声に、心臓が跳ねる。


は? ……え? 今、なんて?………好き?


頭が追いつかない。


胸の奥がざわつく。


何かが、狂い始めた気がする。


けれど、言葉が出ない。


真澄が、ふっと息を吐く。


「でも、きっと嫌いだよね、私のこと。」


少しだけ離れた彼女の顔は、儚げで、寂しそうだった。


先ほどまで抱きしめていた温もりが、急に遠ざかる。


「……あ……ぁぅ………な……」


何かを言わなければ。


でも、何を言えばいい?


からかう相手……ただのからかう相手としか思っていなかった。……はず。


なのに——今、目の前にいる彼女は、まるで別の存在のようだ。


そのまま、真澄は背を向けた。


夕焼けの光が、彼女の輪郭をなぞるように照らす。


「……でも。」


その一言に、心臓が跳ねる。


振り返る彼女の笑顔。


「よかったら、私のこと、守ってくれると嬉しいな。」


その笑顔は、柔らかく、切なさを秘めていて——。


けれど、どこか、この世界のものではないような気がした。


真澄のシルエットが、夕暮れに溶けていく。


彼女ごと日が沈んでいくように。儚く。


「じゃ、また明日ね。」


軽く手を振って、彼女は歩き去った。


俺は、ただ、その背中を見送るしかなかった。


 ——まだ、心臓の音だけが、この教室に響き続いている。

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