第3話:鍋を囲めば仲間の絆、会社の悩みも煮えてくる(前編)
「勇者さん、今日は早いんですね」
千夏は少し驚いた表情で俺を見た。珍しく午後六時、開店直後に俺は「たぬき屋」の暖簾をくぐっていた。
「ああ、今日は何となく早めに来たくなってな」
席に着くと、千夏はいつものように生ビールを注いでくれた。最初の一杯は格別だ。異世界での苦労を思えば、こんな贅沢はなかった。
「おつまみは?」
「そうだな……今日は何かあったっけ?」
「秋刀魚の塩焼きがありますよ。今が旬で」
「おっ、いいな! それにしよう」
千夏は頷くと、さっと厨房に戻っていった。今日は金曜日だ。田村が来る日だな、と思いながらビールを飲んでいると、暖簾がめくれる音がした。
「いらっしゃいませ」
千夏の声に続いて、椎名の姿が見えた。
「あら、勇者さん。今日も来てたんですね」
「おう、椎名。早い時間だけどな」
椎名は俺の隣に座った。洗練された服装に、いつもの福耳ピアス。エルフに似ているとは言ったが、実際彼女の耳は尖っていない。ただ、雰囲気が似ているだけだ。それでも、テラルドのエルフ族を思い出させる。
「生ビールください」
「かしこまりました」
千夏はビールを注ぎながら、椎名に声をかけた。
「秋刀魚、焼いてますが、いかがですか?」
「いいですね、お願いします」
「かしこまりました」
千夏は厨房に戻り、俺と椎名は待つことになった。
「今日は早いですね」
「ええ、今日は珍しく締め切りに余裕があって」
「編集者は大変だな。締め切りに追われる日々」
「勇者さんには締め切りとかなかったんですか?」
椎名の質問に、俺は少し考えてから答えた。
「まあ、『魔王が世界を滅ぼす前に倒せ』みたいな締め切りはあったけどな。あと王様から『この村の魔物退治を一週間以内に』みたいな指令もあったな」
「それも締め切りですね」
椎名は笑った。彼女は俺の話を真に受けてはいないようだが、楽しんでくれているようだ。それだけでも十分だ。
「田村さんも来ますかね」
「ああ、金曜は来るって言ってたはずだ」
「彼、いい人そうですね」
「ああ、真面目でよく働く若者だ。ただ、自信がなさすぎるんだ」
「上司が厳しいんですよね」
「ああ、パワハラ上司らしい。『鷹野』とかいう奴だ」
「勇者さんなら、そういう上司、一刀両断できそうですね」
椎名はクスッと笑った。冗談のつもりだろうが、昔の俺なら本当にやったかもしれない。
「まあな……若い頃の俺なら切りかかってたかもしれんが、今はそうもいかん。この世界には法律ってものがあるからな」
「若い頃って……異世界での?」
「ああ。テラルドでは俺も血の気の多い若造だった。でも歳をとるとわかってくるんだ。力で解決できることと、できないことがあるってな」
椎名は興味深そうに聞いていた。この文脈では、俺の話を単なる寓話として捉えているようだ。
「お待たせしました」
千夏が秋刀魚を持ってきた。ちょうど良い焼き加減で、香ばしい匂いが食欲をそそる。
「うまそうだな! いただきます」
一口食べると、脂がのっていて絶品だった。
「うめぇ! これは北の海の剣魚を思わせる真っ直ぐさだな!」
「剣魚?」
椎名が聞いてきた。
「ああ、テラルドの北の海で獲れる魚でな。体が刀のように真っ直ぐで、口先が尖ってるんだ。これと似た味わいだよ」
「へえ……」
椎名も一口食べて、感心した様子だ。
「美味しい……焼き加減が絶妙ですね」
「父直伝のコツです」
千夏が少し照れたように言った。
そのとき、また暖簾がめくれる音がした。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは……」
田村の声だったが、いつもより元気がない。俺たちが振り返ると、彼は肩を落としてうなだれていた。
「おう、田村!」
「あ、勇者さん……椎名さんも……」
田村は弱々しく挨拶をして、俺たちの隣に座った。
「どうした? 元気ないな」
「それが……」
田村はため息をついた。千夏がビールを注ぎながら、さりげなく尋ねる。
「鷹野部長ですか?」
「はい……」
「何かあったのか?」
俺も心配になって聞いた。椎名も関心を示している。
「プレゼン資料が評価されたのはいいんですけど……今度は無理な要求を……」
田村は言葉を詰まらせた。どうやら相当辛い状況らしい。
「何を言われたんだ?」
「来週の月曜までに、新規開拓の見込み客リストと、各社向けの提案書を全部用意してくれって……」
「月曜? 今日は金曜だぞ? 週末返上か?」
「はい……でも量が多すぎて……一人では絶対に終わらない」
田村は沈んだ声で言った。その表情は本当に疲れ切っていた。
「それって明らかにパワハラじゃないですか」
椎名が真剣な表情で言った。
「確かにな」
俺も同意した。
「でも断れなくて……」
「上司ってそんなものか? この世界の」
俺が尋ねると、椎名と田村は顔を見合わせた。
「理不尽な上司は一定数いますね」
椎名が言う。
「僕の部長は特にひどいです……自分の成果にしたいだけなのに、無茶な要求ばかりで……」
田村の声は震えていた。かなり追い詰められているようだ。
「田村さん、まずは落ち着いて食べましょう」
千夏がだし巻き卵と秋刀魚を持ってきた。
「今日はサービスで秋刀魚も付けておきました」
「あ、ありがとうございます……」
田村は感謝しつつも、食欲はなさそうだった。
「食え。戦いの前は栄養だ」
俺が促すと、田村はゆっくりと箸を取った。一口食べると、少し表情が和らいだ。
「美味しい……」
「だろ? 千夏の料理は特別だぜ」
「秋刀魚、脂がのってますね……」
「秋刀魚は今が旬ですからね」
千夏が言った。
「なあ田村、そのパワハラ上司の件だけど、俺にも似たような経験があるぜ」
「異世界での?」
「ああ。魔王の四天王の一人、『土の四天王』アースバロンってやつがいてな」
椎名が興味津々の表情になった。前に四天王の話をしたときも、彼女は興味を示していた。
「アースバロンは部下を酷使することで有名だったんだ。配下の魔物たちに無理難題を押し付け、達成できないと地面に埋めるという罰を与えていた」
「ひどいですね……」
田村は自分の状況と重ねているようだった。
「俺たちは最初、そいつと直接戦おうとしたんだ。でも全然歯が立たなかった。やつは大地の力を操る。地面から岩の塊を出したり、砂嵐を起こしたりできるからな」
「それで、どうやって倒したんですか?」
椎名が食いついてきた。
「直接戦うのをやめたんだ。その代わり、奴の部下たちに話しかけてみた」
「部下に?」
「ああ。すると、みんな不満を持っていた。でも怖くて言えなかっただけだったんだ」
田村が真剣に聞き入っている。
「俺たちは部下たちと協力して作戦を立てた。アースバロンの弱点は水だということが分かったんだ。大地の力も、水に浸かれば発揮できない」
「なるほど……」
「それで、部下たちの協力を得て、アースバロンを湖に誘い込んだ。そして一気に攻撃した」
「見事!」
椎名が感心した様子で言った。
「で、肝心なのは、その後だ」
俺は田村の目をしっかり見た。
「アースバロンを倒した後、部下たちは自分たちで新しいリーダーを選んだ。そして、もっと公平なルールを作った。それまでの苦しみが報われた瞬間だったな」
「それって……」
田村は何かを考えているようだった。
「田村さん、あなたの部署に同僚はいないんですか?」
椎名が質問した。田村は少し考えてから答えた。
「同期が何人かと、先輩が二人……」
「彼らも同じように苦しんでいるんでしょうか?」
「そうだと思います。みんな鷹野部長の理不尽な要求に苦しんでいて……」
「なら、一人で抱え込まず、みんなで対策を考えてみたらどうだ?」
俺が提案した。田村は驚いたように顔を上げた。
「みんなで……?」
「ああ。アースバロンを倒せたのは、俺一人の力じゃない。部下たちの協力があったからこそだ」
「でも、鷹野部長に逆らうなんて……」
「逆らうというより、より良い方法を提案するんだ」
椎名が優しく言った。
「会社の目的は何ですか?」
「え?」
「会社が最終的に目指しているのは、利益を上げることですよね。鷹野部長も、あなたたちも」
「はい、そうです」
「なら、チームで効率よく仕事をして成果を上げる方法を提案するのは、会社のためでもあります」
椎名の言葉に、田村は目を輝かせた。
「なるほど……確かに……」
「俺も思うぜ」
俺は秋刀魚をほおばりながら言った。
「チームワークが勝利の鍵だ。俺もパーティを組まなきゃ、魔王なんて倒せなかったさ」
田村はゆっくりとだし巻き卵を食べながら考え込んでいた。その表情が少しずつ明るくなっていくのが分かった。
「同期の松岡とは話しやすいんです。彼に相談してみようかな……」
「それがいい。一人より二人、二人より三人だ」
「勇者さんの言う通り……みんなで対策を考えたほうが、いい案も出そうですね」
田村の声に力が戻ってきた。椎名も満足そうに頷いている。
「なあ、こういう時は鍋がいいな」
突然、俺は思いついて言った。
「鍋?」
「ああ。テラルドでは、困難な作戦を立てる前に、仲間と鍋を囲むのが習わしだったんだ。鍋を囲んで食べると、心が一つになるからな」
「それ、いいですね」
椎名が興味を示した。
「千夏、今日は鍋できるか?」
千夏は少し考えてから頷いた。
「牡蠣鍋なら材料がありますが……三人分は大丈夫ですか?」
「おう、頼む!」
「私も付き合います」
椎名も同意した。
「僕も……ありがとうございます」
田村も微笑んだ。
「じゃあ、準備してきます」
千夏は厨房に向かった。その背中を見送りながら、俺は二人に向き直った。
「鍋を囲むと、不思議と心が通じ合うんだ。テラルドでも、難しい作戦の前夜はいつも仲間と鍋を囲んでいた」
「日本も同じですね。鍋は家族や仲間と食べるものという印象があります」
椎名が言った。
「みんなで同じ鍋からおかずを取り、同じ出汁を飲む。それが団結を生むんだろうな」
「そういう文化、いいですね……」
田村も少しずつ元気を取り戻している。
「そうと決まれば、もう一杯いくか!」
俺はビールのジョッキを掲げた。椎名と田村も笑顔でグラスを合わせる。
「乾杯!」
三人の声が重なり、「たぬき屋」に小さな連帯感が生まれた。この鍋が終わる頃には、きっと田村も新たな勇気を得ているだろう。
そう思いながら、俺は秋刀魚の最後の一切れを口に運んだ。
***
つづく
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