第2話:勇者異世界語りに、冷静な視線を向けるのは(後編)

「すみません、お邪魔します」


 暖簾をくぐって入ってきたのは、前に見かけたサラリーマンだった。椎名は思わず顔を上げる。これが千夏の言っていた田村という常連なのだろうか。


「いらっしゃい、田村」


 勇者が声をかけた。どうやら顔見知りらしい。


「あ、勇者さん! 今日もいらしてたんですね」


 田村は明るい声で応え、カウンターに座った。その表情は前より生き生きとしているように見える。まるで別人のようだ。


「ああ、今日もたぬき屋の料理とビールを楽しんでるところだ」


「田村さん、いつもの?」


 千夏が声をかけると、田村は頷いた。


「はい、お願いします。あと今日は冷奴も」


「かしこまりました」


「おや、勇者さん以外にも……」


 田村は椎名に気づき、少し恥ずかしそうに頭を下げた。


「田村健太です。よろしくお願いします」


「椎名美鈴です」


 椎名は軽く会釈を返した。思った以上に礼儀正しい青年だ。


「椎名さんは編集者なんだぜ」


 勇者が得意げに言う。まるで自分の知り合いを紹介するような口ぶりだ。


「へえ、かっこいいですね。小説とか?」


「女性誌です」


「それでも魅力的なお仕事ですね……」


 田村の声には、どこか羨望が混じっている。


「田村は商社に勤めてるんだよな」


「はい。中堅商社の営業です」


「この前、上司のことで悩んでたんだ」


 勇者は遠慮なく話を続ける。椎名は少し戸惑いつつも興味を持った。


「あの……」


 田村は顔を赤らめた。どうやらあまり広言したくない話題だったようだ。


「大丈夫ですよ」


 椎名が助け舟を出す。


「私も上司には悩まされてますから。特に締め切り直前は」


「そうなんですか?」


 田村は少し安心したように見えた。


「ねえ、勇者さん。あなたに上司はいなかったんですか? 異世界で」


 椎名が尋ねると、勇者は少し考えた。


「俺は『勇者』として召喚されたから、基本的には独立した存在だった。でも最初の頃は、王国から『指導役』としてつけられた騎士団の副団長がいてな……」


「ラリックスさんですね!」


 田村が食いついた。どうやりこの話は以前にも聞いたことがあるらしい。


「ああ、そうだ。あいつは厳しかったが、最終的には認め合えたな」


「あの話、もう一度聞かせてもらえませんか? 椎名さんにも」


 田村の目が輝いている。その様子に、椎名は思わず微笑んだ。


「もちろんだとも!」


 勇者は嬉しそうに語り始めた。田村も熱心に聞いている。椎名は二人の様子を観察しながら、千夏が持ってきたビールを飲んだ。


「この前の月曜日、勇者さんのアドバイス通り、プレゼン資料を鷹野部長に見せたんです」


 田村が話し始めた。


「おう、どうだった?」


「最初は驚いていましたが……『これは使える』って言ってもらえました!」


「そうか! よかったな」


 勇者は田村の肩を叩いた。


「『光輝の斬撃』が決まったってわけだな」


「はい! 勇者さんのおかげです」


 田村は本当に嬉しそうだ。椎名は不思議に思った。単なる異世界ごっこの話から、実際のアドバイスになったというのか。


「何があったんですか?」


 椎名が尋ねると、田村は少し照れながらも説明してくれた。自分が作ったプレゼン資料を、厳しい上司に見せることができたこと。そして勇者の話から勇気をもらったことを。


「へえ、すごいですね」


「いえ、大したことじゃないんです。でも一歩前進した気がして……」


「一歩ずつでいいんだ」


 勇者が深くうなずく。


「戦いは一日では終わらないからな」


「はい!」


 千夏がビールと料理を運んできた。田村の「いつも」は、やはりだし巻き卵だったようだ。冷奴も出てきた。


「冷奴はいかがですか?」


 千夏が椎名に尋ねる。


「とても美味しいです。豆腐の水切り加減が絶妙ですね」


「ありがとうございます」


 千夏は少し照れたように見えた。無表情に見えて、実は感情豊かな人なのかもしれない。


「なあ、今日は四天王の話でもするか?」


 勇者が提案した。田村は目を輝かせる。


「ぜひ聞きたいです! 前から気になってました」


「四天王?」


 椎名はもう一度尋ねた。勇者はにやりと笑った。


「ああ、魔王の側近だ。それぞれ特殊能力を持っていてな、俺たちを苦しめた強敵だった」


「どんな人たちだったんですか?」


 田村が食いついた。


「まず、『炎の四天王』フレイムロードだ。男だが、全身が炎に包まれてて、近づくだけで火傷するんだ」


 勇者は熱く語り始めた。椎名はメモを取りたい衝動に駆られたが、あまりにも明らかにそれをすると失礼だろう。


「私、トイレに行ってきます」


 椎名は席を立った。店の奥にあるトイレに向かう途中、小さなノートとペンを取り出し、さっと勇者の話のポイントをメモした。帰ってきても、彼はまだ熱く語っていた。


「……そして『土の四天王』アースバロンは、大地の力を操る。地面から岩の塊を出したり、砂嵐を起こしたりな」


「すごい……」


 田村は真剣に聞き入っている。椎名もつい引き込まれた。この話、どこかで聞いたような……いや、よくあるファンタジーの設定だから似ているだけか。


「四天王の中で一番やっかいだったのは、『風の四天王』ストームデュークだ」


「風ですか?」


「ああ。風は目に見えない。だから攻撃が読めなくて苦労した」


 勇者は真剣な表情で語る。まるで本当に体験したかのように。


「どうやって倒したんですか?」


「俺たちは作戦を立てた。まず、魔法使いのリーゼルが煙の魔法を使って風の流れを可視化した。それから俺が隙を突いて斬りかかった……」


 詳細な戦闘描写が続く。戦略、仲間との連携、危機的状況からの脱出……全てが生き生きと語られる。


「なんだか小説みたいですね」


 椎名が思わず言った。


「現実は小説より奇なりってやつさ」


 勇者は笑った。その表情には、どこか寂しさも混じっているように見えた。


「四天王を全部倒した後、魔王との決戦になったんですよね?」


 田村が尋ねる。勇者はゆっくりと頷いた。


「ああ……でもその話はまた今度にしよう。長くなるからな」


「えー、気になります」


 田村が残念そうな声を上げた。椎名も不思議と続きが聞きたいと思った。


「明日も来いよ。そしたら話してやる」


「明日は……ちょっと約束が……」


「じゃあ次の機会だな」


 千夏がカウンターに戻ってきた。


「四天王の話、盛り上がってますね」


「ああ、田村が熱心なんだ」


「椎名さんも興味ありそうですね」


「まあ……話としては面白いです」


 椎名は正直に答えた。フィクションだとしても、よく練られた設定だ。


「勇者さんの四天王の話を聞くと、タコわさが『毒使い』の料理に見えてきますよ」


 千夏がさりげなく言った。椎名は思わず笑った。


「たしかに。刺激的ですものね」


「なぁ、千夏。今日の締めは何かないか?」


 勇者が尋ねた。千夏は少し考え、頷いた。


「熱燗はいかがですか? 少し肌寒い夜ですし」


「いいな!」


「私も一杯だけいただこうかな」


 椎名も心惹かれた。田村も頷く。


「僕も!」


 千夏は小さな徳利を温め始めた。その姿は職人のように美しい。


「お酒って不思議ですよね」


 椎名がふと言った。


「人を繋ぐというか……知らない者同士でも、一緒に飲むと親しくなれる」


「ああ、テラルドでもそうだった」


 勇者が懐かしそうに言う。


「冒険の途中で立ち寄った村の酒場で、最初は警戒していた村人たちも、一緒に酒を酌み交わすと打ち解けてくれたもんだ」


「東京も同じですね」


 田村が笑った。


 千夏が熱燗を運んできた。ちょうどいい温かさ。椎名は徳利を手に取り、他の二人に注いだ。


「乾杯しましょうか」


「おう!」


「乾杯です!」


 三人はグラスを合わせた。椎名はこの瞬間が妙に心地よく感じられた。仕事で疲れた心が、少しずつ溶けていくような感覚。


「これ、本当に美味しいですね」


「魔法で温めた酒より風味がいい」


「温度が絶妙ですね」


 三人はそれぞれの言葉で感想を述べる。千夏はその様子を見て、わずかに微笑んでいる。


「勇者さん、明日も来るんですか?」


 田村が尋ねた。


「ああ、毎日来てるよ。年金暮らしの身にはこれくらいの楽しみがないとな」


「年金……」


 椎名は思わず聞き返した。


「勇者の定年退職金みたいなもんだよ。この世界の政府は知らないけどな」


「なるほど……」


 椎名は頭の中で計算していた。もし彼が本当に異世界で35年過ごしたとして、20代で行って、今50代後半なら、年数的には辻褄が合う。ただし、異世界が実在するという前提があれば、の話だが。


「椎名さんはお仕事、大変そうですね」


 田村が話しかけてきた。


「まあ、締め切り前は特に。企画から校正まで見なきゃいけないですから」


「僕も資料作成とか大変ですけど、違う大変さなんでしょうね」


「業種が違えば、苦労も違いますよね」


「異世界での苦労が一番だったぜ」


 勇者が割り込んできた。その表情は少し誇らしげだ。


「だって魔物と戦うんですものね」


 椎名は相槌を打った。


「そりゃ命がけだもんな」


 田村も同調する。なんだか不思議な会話だ。現実と非現実が入り混じったような。


「でもな、どんな世界でも、人生は戦いだ」


 勇者が哲学的に言った。


「会社との戦い、締め切りとの戦い、もっと言えば自分自身との戦い……」


「深いですね」


 椎名は心から感心した。この人、ただのお酒好きなおじさんではないようだ。


「勇者さんの言葉、私も励みになります」


 田村が真剣な表情で言った。


「俺なんかの言葉で?」


「はい。勇者さんが『自分のやり方を持て』と言ってくれたおかげで、勇気が出たんです」


「そうか……よかった」


 勇者は照れくさそうに頭をかいた。その素朴な反応に、椎名は思わず笑みがこぼれた。


「私も今度、勇者さんの知恵を借りたいかも」


「いつでも言ってくれ! テラルドで学んだことが役に立つなら、いくらでも話すぜ」


「ありがとうございます」


 三人は談笑しながら熱燗を飲み干した。不思議と心が温かくなるような時間だった。


「そろそろ失礼します」


 椎名は時計を見て立ち上がった。田村も同じく席を立つ。


「僕も帰ります。明日は早いので……」


「千夏、お勘定」


「はい」


 千夏は三人分の会計を済ませる。


「また来てくださいね」


「ええ、また来ます。楽しかったです」


 椎名は本心から言った。


「僕も近いうちに! 魔王の話、聞きたいです」


 田村も嬉しそうに言う。


「おう、待ってるぜ」


 勇者は二人に笑顔で手を振った。


 店を出ると、夜風が心地よい。椎名と田村は同じ方向らしく、しばらく一緒に歩いた。


「椎名さん、勇者さんの話、信じてますか?」


 田村がおずおずと尋ねた。椎名は少し考えてから答えた。


「科学的に考えれば信じられないでしょうね。でも……」


「でも?」


「彼の話には力があります。フィクションだとしても、人を励ます力が」


「そうですよね……僕もそう思います」


 田村は安心したように笑った。


「彼の話を聞いてると、自分の悩みが小さく思えてくるんです」


「理解できます」


 椎名も頷いた。


「それに『たぬき屋』という場所も不思議ですよね。あんな路地裏なのに……」


「千夏さんの料理も最高だし」


「ええ、本当に」


 二人は駅まで楽しく話した。別れ際、田村は深く頭を下げた。


「今日はありがとうございました。また『たぬき屋』でお会いしましょう」


「ええ、ぜひ」


 椎名は微笑んで別れの挨拶をした。電車に乗りながら、彼女は今日の出来事を振り返っていた。


 不思議な「勇者」の話。温かい「たぬき屋」の雰囲気。素朴だけど真面目な田村。そして謎めいた千夏。


 鞄から小さなノートを取り出し、勇者の話のメモを見つめる。この話、何かに使えるかもしれない。


「四天王か……」


 椎名は小さく呟きながら、ノートをしまった。もう一度、あの店に行こう。そう決めた夜だった。


 ***


 つづく

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