第2話「新宿」

 新宿駅東口は相変わらず人でごった返していた。


 安い呼び込みの声。

 どぎつい看板の光。

 行き交う人々の無表情な顔。


 俺はこの街が好きでも嫌いでもない。


 だが、この光と影が奇妙に同居する空気は、若い頃に抱いた裏社会への倒錯した憧憬と、その現実……ヤクザ連中のくだらなさを知って冷めきった記憶を呼び覚ましてくる。


 人波をかき分け、靖国通りを渡る。

 目指すは新宿ゴールデン街。

 迷路みたいに入り組んだ飲み屋街。

 昭和の匂いがまだ残っているような、場末の一角。

 観光客も増えたが、夜が深まれば昔ながらの常連や、訳知り顔の連中が集まってくる。


 目的のバーはその一角にあった。

 古びた木製のドアに、控えめに「ノクターン」とだけ書かれた小さな真鍮のプレート。


 ドアを開けると、カランと乾いたベルの音が鳴った。

 店内は狭い。

 カウンター席が七つか八つ。奥に小さなテーブル席が一つ。


 カウンターの中には、マスターの倉田さんがいた。

 白髪混じりの髪をオールバックに撫でつけ、口髭を蓄えている。

 黙々とグラスを磨いていた。


「いらっしゃい」


「どうも」


 俺はスツールに腰を下ろした。

 カウンターの上には年代物のレコードプレーヤーが置いてある。

 今は何もかかっていない。


「何か飲むか」


「ジンリッキーでも」


 倉田さんは手際よく酒を作り始めた。

 氷がグラスに当たる硬質な音。炭酸の弾ける音。

 その仕草には無駄がない。

 長年この仕事をしてきた人間の動きだ。


 差し出されたグラスを受け取り、一口飲む。

 ライムの酸味とジンのドライな味、炭酸の刺激が喉を通る。

 少しだけ気分が落ち着いた。


「……マスターに聞きたいことがあって」


 俺は切り出した。

 倉田さんは黙って次のグラスを磨き始めている。

 聞いていないようで、しっかり聞いている。そういう男だ。


「ケンジって若いプロゲーマーがいたんだが、知ってるか? 新宿の子だ」


 倉田さんの手が、ほんのわずかに止まった気がした。


「たしか、あんたが前に記事で取り上げてた子だろう。筋がいいって褒めてたな」


「ああ。そいつが今朝……死んだ。自殺したって話だ」


「……そうか」


「普通じゃないと思うんだ。簡単に死ぬような奴じゃない。 何か裏がある気がする。あいつ、妙に純粋なところがあったから……この街で変なものに憧れたりしなきゃいいが、とは思ってたんだが」


 俺は単刀直入に言った。回りくどい話は苦手だし、このマスター相手にはそれが一番いい。


 倉田さんはしばらく黙っていた。

 カウンターの中の薄暗い照明が、彼の顔に深い影を作っている。


「佐伯さん」


 ややあって、倉田さんが口を開いた。


「昔いた雑誌……たしか『実録ジャッカルズ』だったか。ゴシップ系の仕事から足を洗ったんじゃなかったのか。裏社会なんて、覗いてもロクなもんじゃない。あんた自身が一番分かってるはずだ」


「ああ。今はしがないゲームライターだよ」


「なら、深入りはしない方がいい」


 きっぱりとした口調だった。


「物事には、知らなくていいこともある。特に、この新宿じゃあな……」


 分かっている。分かっているさ。

 面倒事に首を突っ込むのはゴメンだ。

 裏社会の現実は、小説みたいにカッコよくもなければ、面白くもない。

 ただ、汚くて、くだらないだけだ。


 でも。


「ケンジは……俺が少しだけ気にかけてた奴なんだ。こんな形で終わらせちゃいけない気がする」


 俺はグラスのジンリッキーを呷った。


「何か心当たりがあるなら、教えてくれないか。どんな些細なことでもいい」


 倉田さんはふう、と小さく息を吐いた。


「……スジ者のシノギも、随分と変わったもんだな」


 ぽつりと呟くように言った。


「まあ、ヤクザがゲームで稼いでるなんて話は、今や珍しくもねえか」


「ああ、そうだな」


 俺は頷いた。

 オンラインゲームのアカウント売買、RMT、eスポーツの違法賭博サイトなんてのもあるらしい。

 こっちは健全なスポーツのつもりでやってても、連中はどこにでも寄生してくる。


「どうせ麻雀やバカラのシマが締め付けられたから、新しいシノギに乗り換えたんだろ」


「まあ、そういうことだ。若い衆がヒンガモ(素人)相手に、けっこう稼いでる」


「でも倉田さん。いくら世間ズレしているとはいえ、ケンジはいっぱしのプロゲーマーだ。理由もなくヤクザ連中とつるむはずはないよ」


「……だろうな。だが、そんなシノギとは別に、組の上の連中……今の五十代くらいの幹部クラスに妙な話がある」


「妙な話?」


「奴らが今でも、ある種のゲームに異様に拘ってるって話だ。あんたが詳しいような、昔のケンカゲーム。それで大きな賭け試合をやっている」


「昔のケンカゲーム……レトロ格ゲーか。賭け試合?なんでまた? 足の付きづらいオンラインでやればいいだろう」


「効率の話じゃねえんだろうよ……。あんたも知ってるかもしれんが、昔の新宿のゲームセンターは酷かったからな」


「ああ……」


 俺にも記憶がある。

 歌舞伎町や西口にあった、薄暗くてタバコ臭いゲーセン。


 ガキも大人も、カタギも……スジ者も、一緒くたになって熱くなってた。

 100円玉積み上げて、負けたら筐体蹴飛ばして。


「……あの頃は、半グレやヤクザの若い衆も多かった」


 倉田さんはグラスを磨く手を止めずに続けた。


「明日には鉄砲玉として使い捨てられるかもしれねえ……そんなギリギリの状況で、刹那的にゲーセンに入り浸ってた連中だ。カタギ相手に滅多なことはしねえが、同業となると話は別だったらしい」


 鉄砲玉……使い捨ての駒……。

 確かにあの巨大な熱狂の中には、そんなやつらも混じっていたかもしれない。

 俺は黙って先を促した。


「ゲーセンの隅で、いきなり万札掴み合ったり、刃物ヤッパで小指のケジメつけさせたり……そんな馬鹿げた勝負が、あの頃から始まってた。今の幹部連中は、まさにその世代なんだ」


 そう言って、倉田さんは初めてこちらに視線を向けた。


「あの頃のゲームは、奴らにとっちゃただの遊びじゃねえ。いつ死ぬか分からねえ若い時分の、熱狂の記憶の一つなんだよ」


 その言葉には、妙な実感がこもっていた。

 倉田さんは、この街でそういう光景を散々見てきたのだろう。


「まあ、奴らの叔父貴おじきたちが麻雀やサイコロでやってたことを、連中は『あの頃』の格ゲーでやってる。それだけの事かもしれねえが……」


 倉田さんは少し間を置いた。


「奴らにとっちゃ、今でもそれが『本物の博打』なのかもしれねえな」


「本物の博打……」


「だから組同士の間違い(揉め事)があった時や、博徒としてのメンツを賭けた場面じゃ、そいつでケリをつける事があるらしい。『本場所』ってやつだ。もちろん、代打ちを立てるわけだが」


「本場所……。レトロ格ゲーで代打ち勝負……」


 くだらない。時代錯誤だ。

 いかにも連中が好きそうな、自己満足の世界。


 常識では理解し難い。

 だが、今の時代に代紋ぶらさげてヤクザなんかやってる連中に、まともな価値観を求める方が、間違っているのかもしれない。


「ケンジ……、マンガの主人公に本気で憧れるような奴だったからな。まさか、そんな感覚で首を突っ込んだのか……?この街のすぐそばにある闇に、手を伸ばしちまったっていうのか?」


「さあな」


 そう言うと、倉田さんはグラスを磨き始めた。


 代打ち。レトロ格ゲーの『本場所』。

 ケンジがそんな世界に関わっていた?

 馬鹿な。

 ……だが、ありえない話じゃあない。

 俺だって、若い時分、似たような勘違いをしていた。


「倉田さん、その『本場所』を仕切ってるのは、どこの組なんだ?」


「新宿の博徒系なら太田組か。広域団体の二次。代紋は変わったが中身は古くからいる連中だ。あとは最近、羽振りがいい龍生会。一本でやってる若い組だが、太田組のシマを狙ってるって噂だ」


 俺は残りのジンリッキーを一気に飲み干した。

 グラスが空になる。


「情報、助かるよマスター」


 倉田さんはこちらを見ずに、静かに言った。


「佐伯さん。これは金じゃないモノで動いてる。面子か筋か。いずれにせよ、ヤクザの根本に関わる部分だ。下手に触れば、暴対法で抜かれた牙をむきだしてくる。……深入りはするな。忠告はしたからな」


 店を出ると、夜の空気がひやりと肌に触れた。


 ヤクザとビデオゲーム。


 その組み合わせ自体、今更驚かない。

 だが、幹部連中がレトロ格ゲーに固執し、「本場所」と呼ぶ裏の試合を行っている。

 それはやはり異様だ。

 ケンジはその歪んだ世界に足を踏み入れたというのか?


 面倒な予感しかしなかった。

 だが、引き返す気にはなれなかった。


【取材メモ #1】


場所: ノクターン(新宿ゴールデン街)

情報源: 倉田さん

キーワード:

 シノギ → オンゲ/eスポーツ賭博

 幹部世代(50代)レトロ格ゲー固執

 90年代ゲーセン体験?刹那的、過激な賭け

 「本場所」 → レトロ格ゲーでの組同士の勝負。

 「代打ち」 → ケンジ?

 太田組(古参/二次)、龍生会(新興/一本)

 「金じゃない部分。危険」


 ――次


 レトロ格ゲー → 高田馬場ゲーセン

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