麒麟が鹿と結ばれなどしない

「姿勢を正してマコトさん。後にゆるりと御眠りなさい」


 意識の底まで気絶していた状態から、速やかに覚醒させられていく。聞き馴染んだ淑やかな声に従ってまぶたを開けると、きつい程に煌びやかな暖色の明かりに晒された。電灯ではなく炎によるものだ。視覚に続き他の感覚も明瞭に戻ってきて、僕の頭の下に誰かの膝があることに気が付く。まさか、ユズハさんだろうか?彼女に触れながら、眠ってしまっていたのだろうか。申し訳なくなり、慌てて身を起こすと、僕に膝を貸していたその人は、柔らかな仕草で掌を上げた。


「おはよう寝坊助くん」


 挨拶をくれたのは、くすんだ茶の着物を纏い、髪に挿した波型の留め針が印象的な青年だった。着物は一か所にだけ花の輪郭があしらわれていて、よく見ると、極透明なベールが複雑な衣服の様に全身を覆っている。顔立ちは少し中性的で、服装によっては女性と間違えてしまいそう。

 彼と一緒に僕を挟む形で、隣にユズハさんが座っていた。僕は高速道路での出来事を思い出すと、現状を確認するべく慌ただしく見回す。足元に座布団が敷かれているのは、歓迎の印だろうか?広い和室、それも、街の一ブロックくらいありそうな畳が敷かれていて、天井は吸い込まれそうな程に高い。空中に花々を模した折り紙が燃え盛って舞い、広過ぎる室内を隅まで余さず照らしている。

 ここに居るのはたったの八人。なのに、伽藍洞がらんどうとした感はない。彼らが放つ圧力、のようなものが空間を占め切り、寧ろ狭く心地悪いとでも言うような気色が、明滅する灯に表れている。僕の傍には青年とユズハさんの他に、二人の男女が座っていた。


「三つ指着けとまでは言わないけれど、正座くらいしてはどう?」


 その片、スラックスとワイシャツに沢山の金具を付けた女性が、蔑みに似た同情の目で僕を咎める。礼を尽くそうにも、誰に?尋ねずとも分かることだ。ここがユズハさんのご実家だということは、混乱寸前の頭でも把握できる。部屋の最奥にいらっしゃる彼。あの方こそが魔境の主に違いない。正座をして背筋を伸ばし、丁重に挨拶を掛けようとしたが...言葉が出ない。怖気付いてみっともないと自分を叱るが、違う。話すことを許されなかったのだ。口の中一杯に鉄の味が広がって、堪らず赤いものを垂れ流した。


「凡俗が。薄汚い雑音で会議を貶めるんじゃない」


 千切った舌を僕の目の前に放り捨て、もう片の少年が嫌悪を露に嘲り睨む。ユズハさんが護ってくれると思っていたのに...これで死ぬのか?口腔から出血が止まらない。でも不思議だな、痛くない、死ぬのだと実感も湧かない。まるで絵に描かれた悪夢のように、破れば醒める空事に過ぎないのではなかろうか。筆を取って元通りにするか、いっそ全てを塗り潰すか。早くしないと、自画像が死んでしまう。絵具の染みになって、また描き直しだぞ。


「うるさい!知らない奴が、僕に指図するな!」


 自分自身が他人行儀で勝手に話しかけてくる、薄気味悪い思考に耐え兼ねた。心の中で叫んだつもりが、舌が動いて放った大声にまた一つ吃驚きっきょうを覚え、口元に手を当てる。舌が治って、流れた血も消えている。ユズハさんが助けてくれたようだ。しかし、独り言を誤解されてしまった。十分殺意の域に届くであろう鋭い敵意で、文字通り眼光を帯びた少年が、こちらへ物を投げ付けた。それはリボン型のクッションだった。


屑埃くずぼこりが、口を利くとは思わなかった。せめてものご褒美に、それあげる」


「貴方に言ったのではないですが...」


 落ち着きなく足を振る少年は、何故か車椅子に乗っている。いや、印象としてはベビーカーの方が近いか。レースや大量のアクセサリー、パステルカラーのクッションで埋め尽くすよう飾り付けたそれは、只ならぬ雰囲気を醸し出している。彼はもちろん幼児ではなく、中学一年生くらいの見た目だ。半ズボンにストッキング、ブラウスにフリルのサスペンダーというド派手な服装だが、似合って見せる程の秀麗がある。姿は御伽の王子の如く幻惑じみていて、本当にそこにいるのか、自分の目を疑ってしまう。


「会議を妨げてはいけませんよ、クラウド。そしてマコトさん」


 やや厳しい声音で少年を叱り、車椅子を降りた彼が目を伏せて謝罪したのを見ると、ユズハさんは僕へ向き直る。彼女の目は思わぬ感情を帯びていた。恐怖。誰もにある感情だが、彼女が抱くならば、何か大事が起こるのかもしれない。どうか杞憂であってくれと願う。


「安全は御約束するものの、私はこの場で、貴方を護ること致しかねる」


「そんな...どういう意味ですか?」


 自分を好きなように殺せる者を前にして、庇護が無いならば、命乞いよりも一思いに殺してくれと懇願する方がマシじゃないか。なのに、僕はあくまで安全なのだとユズハさんは言う。信じようが疑おうが変わらない。単純な話だ、僕はユズハさんの恋人として、ご家族に礼儀を示さなければ。

 ユズハさんは黙って部屋の最奥を見据えている。僕は座布団から足を除け、死と苦痛に構えて歯を食いしばり、頭を下げた。指を着いて辞儀をするつもりが、緊張の余り全身が倒れ込んで、這い蹲ってしまう。不味いと、起き上がろうとして藻掻くも、巨人の足に踏み躙られているかのようでどうにもならない。親御様の方を碌に見ることもできず、印象は最悪だろうが、止む無く言葉を吐き出す。


「この度はお時間を頂き、心より感謝致します。ご厚意に関わらず不行儀を晒すこと、どうか容赦を下さいませ。私はユズハさんと交際の間に御座います、ニシムラ・マコトと申します。それにつき、誠実な態度をご理解頂きたく参った次第です」


「認識を誤っているようだ」


 考え抜いた挨拶を一刀に切り捨てられた。座布団の場は遠く隔てられているが、彼の姿は鮮明に視認することができる。巨大な風格が位置感覚を破壊し、彼方にそびえる高峰を眺めているかの如く圧倒されるのだ。ヒトが拘って止まない貴賤も、飽きず競い合う強弱も、どうでもいい児戯の範疇だった。立っている世界が違うと言うなら文字通りで、ユズハさんと同格のモノだ。


「誠実などと傲慢をほざけ。いましは情夫が相応しかろうが。娘の靴に平伏す蜘蛛風情には、さぞ誉れ崇高なる大役よな」


 幾重にも纏った暗清色の装束で菱文ひしもんの厚着を成す、幻影の如き美麗の青年。環の様な、或いは冠にも見える平たい帽子を被っているのは、権威や単に力の象徴だろうか。徹底した数理を以て造形された彫像を想わせる彼の貌が、感情によって醜く歪むことはない。どす黒く凝り固まった怒気の全ては、凍て付き澄んだ声音に乗せられ、厳冬の疾風のように僕を震え上がらせた。肌で感じるこの寒さは、錯覚じゃない。絶え絶えに吐き出す息が白くなっているから。

 恐怖の余り緩やかに迫る心停止の最期。でも退けない!僕はユズハさんを信じているし、ユズハさんも僕を信じてくれているのだから。情夫なんて、僕たちの関係を侮辱する言葉を、聞き流すものかよ。


「彼女は僕を好きにできました。けれど、強要されたことなんてありません」


「何と。使い物になっておらんのか。玩具の分際で恥を知れ」


 反論すると、彼は頭に手を置き露骨な落胆を表した。怒りは冷めたらしく、呆れ果てた目で僕を一瞥し、すぐに離してしまった。次にユズハさんへと険しい目が向けられる。優秀な子供が珍しく犯した失敗を諭すように。


結寿葉ゆずは、悪しからず聞けよ。斯様かような凡夫より余程可笑し気ある男娼を召し寄せてやる」


「話が進みませんねえ」


 あくまで僕を情夫の類と見做す彼に、微かに声を震わせユズハさんが立ち上がった。彼女が明確に怒っているのは初めて見る。それだけ僕は愛されていると、素直に心が温もる。しかし、虫けら相手に機嫌を損なわれることは、やはりなかろう。彼女の父親である彼は、喧嘩が成立する同格の存在であることを意味する。


「幾度と申しましょう。マコトさんは我が夫に迎えます」


「...っ」


 驚くことでもないが、ここまで来て実感が湧かずに声が漏れてしまった。才や家柄で、ユズハさんがどれだけ格の違う恋人であろうとも、一歩でも相応しくあれるよう努力してきたつもりだ。付き合い始めてから二年弱、女性にとって短い時間ではないから、結婚のことを考えてはいた。でも彼女の正体の一端を知って、認識が甘かったと思い知った。社会的地位や弱肉強食ではなく、純粋な“チカラ”の階層において違っている。泥中からは見上げることも烏滸おこがましい雲上の異界に在るモノだ。そんな彼女に誘拐され、一族の前で結婚を宣言された。全てを持つ万能な彼女に、僕がしてあげられる事は何も無い筈だ。一体どんな役を求めているのだろう?特別なんかじゃないが、できることがあると言うなら、平穏を手放さない範囲で支えたいけれど...。


「必要なだけ、私たちを試すが宜しい。それを越えられたならば、婚姻を認めて頂きます」


 別れるなど有り得ない、家族は自分に従って当然だと言うように堂々と、ユズハさんはユズハさんで一方的な態度だ。静まり返った一同と、反して激しく燃え盛る明かり。危うい方向に流れている気がする。すると、部屋の最奥から少し手前に座る青年が、考え付いたように手を挙げた。黒ずんだ肌色の外套姿で、膿や内出血に病んだ皮膚を想わせる醜怪な衣服。座っている位置からして、長男だろうか?彼の影が明かりの具合を無視して伸び、父の影へと繋がると、彼の姿が父の隣に現れた。そして、何かを耳打ちする仕草。直後に宙の折り紙が燃え尽き明かりが消え、束の間を暗闇が支配した。


「憐れであろうが、覚めた結寿葉を慰んでやろうぞ」


 言葉と共に再び明かりが灯される。長男らしき人物は元の位置に戻っており、父は心苦しそうな面持ちでユズハさんへと相対した。この方は憎めないなと思う。僕への散々な侮辱は、娘であるユズハさんを大切にしているからこそ。だから、僕は何かを示さなきゃいけない。その方法が、これより告げられる。


「汝の慧眼けいがん、唯一手を以て証明せよ。麿まろの理解を覆して見せたならば、婚姻を認めよう」


「仰せ下さりませ、父上」


「それを殴れ。加減は許さん」


 有無を言わさぬ冷徹な命令は、僕の死を絶対的に意味するものだった。本気で言っているのか!?ユズハさんが受ける訳がないだろう。恋人を亡骸も残さず殺してしまうなんてこと。ほら、流石の彼女も怯んで片目を細めている。論外な試練は却下して、困難でも可能な範囲に考え直して頂かないと。


麒麟きりんが鹿と結ばれなどしない。摂理で御座いますね」


「ユズハさん...?」


 彼女に腕を引き上げられ、僕はなすがままに立ち上がった。肩に手を置かれると、雁字搦めに締め上げられるように身動きの自由を奪われた。骨身に食い込む縄の幻覚に息もできない。痛くて、苦しいのに...爽快な気分だ。絶叫遊具に乗っているような心地に戸惑う。痛みに親しむ個性なんて僕にないのだが。どうしてしまったんだ?

 そりゃあ、こんな事で痛がっては駄目だろう。自分の心配ばかりするなよ。ユズハさんの手、震えているぞ。お前を叩き潰してしまうやもと、彼女だって怖いんだ。恋人として少しは頼もしく、杞憂に済ませて差し上げなよ。

 平々凡々な端役に、どんな奇跡を起こせって言うんだ!ユズハさんに殴られたら僕なんて...。

 そうだ!お前は凡百の中に埋もれているのが分相応な只人に過ぎない。何ら特別ではなく、才の無いなりに駆け上がろうと言う気概もなく、現状の平穏に座しているだけの常識人だよ。素晴らしい人生観だが、最早これまで通りにはいかない。何の因果か、何者からか、お前は力を施されたんだ。

 言っている事が、何も理解できないな。でも、生き永らえる方法があるのなら...平穏が狂ってしまおうと構わない!ユズハさんを泣かせたくないよ。

 そうかい。教えてやる前に、一言誓いを捧げておけよ。彼女に貰われて行く身であると弁えてな。


「食い縛って。私と貴方ならば、乗り越えられます」


 てのひらを振り上げ、ユズハさんは強張った微笑みを浮かべる。それを緩めたいから、僕は束縛の痛みを気になどせず、大切な言葉を伝える。恋人ではなく、これからは夫として、今の窮地も何時かは思い出にできるように。


「お望みの限り、傍に居ります。貴女の物語に、一介の役を賜りて」


「ええ。華ある終幕まで往きましょう」


 互いの約束を交わし、ユズハさんは手を振り下ろす。一切の容赦がない彼女の膂力りょりょくは、僕の細胞を一つと余さず原子にまで粉砕するだろう。攻撃は対象の消滅と限りなく同意であり、一人殺すために核兵器を撃ち込むも同然の“やり過ぎオーバーキル”だ。

 だが、お前には抵抗する術がある。“緞帳どんちょう”を想い描け。現実は舞台上で展開されるのみ。お前は、劇場の観客だ。ユズハさんとお前の間に緞帳を降ろし、第四の壁で防御しろ。伝説の主役だからこそ、彼女はそれを越えられない。そうしたら――。


 お前の世界は真白に堕ちて、轟音を遠くに聞きながら、夢とは違う非現実へと飛び出して行った。

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